山月記シリーズも四回目です。
今日は李徴が虎になる3つの理由の最後。
詩への執着心です。
本文はこちら。
李徴が虎になった理由を考えてみることすでに2回。
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まずは、臆病な自尊心を考えました。欠点としては理解できるものの、「どうして虎?」というあたりで大きな疑問が生じてきます。
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というわけで、2回目は、妻子をかえりみないことを検証しました。虎のイメージにより近くなりますから。
でも、妻子を顧みなかった、というのは嘘で、ある程度妻子のことを考えて行動していたことがわかりました。これだと、「不十分」か「順番」の問題になってしまいます。
となると、最後の「虎」イメージ。つまり、なんとしてでも、詩人として大成したい、というその執着心を、虎になる理由として考えてみます。
詩への執着心
他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業
未 だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇 、固 より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最早 判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚 記誦 せるものが数十ある。これを我が為 に伝録して戴 きたいのだ。何も、これに仍 って一人前の詩人面 をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯 それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
さあ、これが「詩への執着心」の根拠の部分ですね。
「産を破り心を狂わせてまで自分が
とあるわけで、これを読む限り、李徴が心を狂わせたのは、「詩への執着心」だということになるわけです。
冒頭はこんな感じでした。
年の後、公用で旅に出、
汝水 のほとりに宿った時、遂に発狂した。或 夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇 の中へ駈出 した。彼は二度と戻 って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰 もなかった。
周りから見れば、李徴は虎になるのではなく、「発狂」している。そして、そのことを李徴は、「詩への執着心」と説明している。
「臆病な自尊心」では虎の雰囲気がない。
「家族をかえりみない」といっているけど、家族のことは考えている。
だとすれば、「詩」にこだわり、何がなんでも詩人になりたい…という「虎」の雰囲気をここに足すことはとても重要な視点です。
本当にそれが虎になる理由か?
さて、です。
反論はないでしょうか?
何か目標に向けて、何もかもを捨てて、そこにこだわっていく‥。虎の雰囲気はだいぶ出ています。
何もかもを捨てて、受験に向かう。
何もかもを捨てて、野球にかける。
うん。雰囲気は悪くありません。
いよいよ、いけそうな雰囲気になってきました。
でも、です。
反対派は見つけてしまいます。
たとえば、ですね。
今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと
眼 を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻 りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時 しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫 んで走っていた。何か身体 中に力が充 ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱 のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。
これが、李徴本人の説明。
これで冒頭の説明は嘘だと判明しました。周りの人からすれば、「発狂」していなくなったと思っていますが、李徴は狂ってなどいません。だから、これは単純に突然虎になった、ということですね。
もちろん、これは李徴そのものの分析を否定したことにはなりません。
ではもう一度引用。
産を破り心を狂わせてまで自分が
生涯 それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
しかし、冒頭の「発狂」が消えてしまえば、よく読めば、「生涯それに執着した」ことは間違いないけれど、虎になった、と分析しているわけではないともいえます。
そもそも、冒頭の「発狂」にしたところで、この前を読めば
一方、これは、
己 の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥 か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙 にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才 李徴の自尊心を如何 に傷 けたかは、想像に難 くない。彼は怏々 として楽しまず、狂悖 の性は愈々 抑え難 くなった。
「詩への執着心」は「家族」のために、あきらめていると読めるわけです。そして、これはむしろプライドゆえに傷ついていく‥
とすると、「詩への執着心」とは言っておりますが、たいしたことはないとも言えなくはないですよね?
「詩への執着心」は「家族」に負ける。
もちろん、だからこそ、詩への思いが強くなるんだという考え方もできなくはないです。
でも、それって、厳しくないですか?
本当はバンドやりたいけど、才能もないし、生活も苦しいから、まっとうに就職する。そしたら、そのあきらめない思いが虎だ‥
まあ、ここまではいいにしても、だから、虎になったら、世の中虎だらけ。
あきらめずに、ずっと夢にこだわっているから虎だ、と言われれば、家族も顧みないし、虎だよね、って感じになりますが、あきらめたのに、心のそこではあきらめてないよね、って言われたら、ぼくらは苦しいですよね。
合わせて一本はどうでしょう?
いや、これは困りました。最初に想定した、3つの理由はついにすべて、否定されてしまいました。
じゃあ、「合わせて一本!」というのはどうでしょう?
ひとつずつは、足りないけど、3つそろったから…という考え方です。
「詩への執着心」は、ちょっと足りなかったけど、「妻子をかえりみなかった」から、足せばどう?って考えるわけです。
いやいや。そんな単純な話ではありません。
だって、「詩への執着心」が強ければ、家族をかえりみていないはず。
家族のことを考えたからこそ、詩への執着心は弱いともいえます。
だから、両方が理由としては弱くなります。
だからこそ、そこは「自尊心」の問題に戻ってくるんですね。そうなったときに、問題になるのは自尊心=プライドです。
でも、この自尊心は、家族のために「節を屈して下吏に甘んずる」ことが耐えられない自尊心であり、だとすると、それがあるのはいけないというのはちょっと厳しい。
だからこそ、もっと戻ると、「臆病な自尊心」、傷つきたくないけど、プライドはあるぜ、ということがいけなくなってきます。
でも、これは、虎になる理由としては‥
…ぐるぐるぐるぐる回っているんですね。
当然、具体的な行動として「人と交わりを絶った」ことをあげることもできます。これを中心にして、
「臆病な自尊心」
「妻子をかえりみない」
「詩への執着心」
という3つがとりかこんで、理由としてぐるぐる回るんです。
気が付いたと思いますが、これが李徴の性格ですよね。だから、この3つは、そもそも表裏一体というか、同じことを、見る角度を変えて説明しているにすぎないんです。
…理由がなくなりました。
ここで、本文をきちんと読んでいた人ははたと気づきます。
「理由なんてあるのか?」
この授業は実はひどい授業だったのです。
「虎になった理由は何?」
私は聞きました。
そうです。考えてみて、わかりました。
「もしかして、虎になった理由なんてないんじゃないの?」
それが私の気づいてほしかったことです。
というわけで、次の授業では、
「理由がないとしたら…」と考えてみたいと思います。
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