古文助動詞について、さらに細かく整理していこうと思います。今日の解説は推量系の助動詞、特に「らむ」「けむ」と「まし」について説明します。
推量系の助動詞は、語呂合わせとかでなんとかしのいでいる受験生が多いと思いますが、本当はきちんと理解してほしいところです。
まずは、未来形として訳が動くんだよ、というのが私がいつもしている解説です。
というわけで、ざっくりと、
- 主語が「私」のとき。~よう。~つもりだ=意志
- 主語が三人称のとき。~だろう=推量
- 連体形のとき。~ような=婉曲
- 二人称の時=いろんな訳が考えられる。
というような区分けをしました。
そのうえで、細かい意味の違いを整理しました。でも、これも「ざっくりと」ということで、今日は入試ででがちな、まだ触れていない部分を解説します。
- 「らむ」は、現在の状況を推量する。そうすると、理由や原因も推量することになる…原因推量
- 「まし」は、反実性がポイントだけど、「む」が語義にあるので、「意志」訳が入り込みはじめる…ためらいの意志・実現不可能な願望、さらには普通の推量へ…
結構大事な部分なんですけど、感覚的な部分でいうと、推量の助動詞が文法題として、出て来るのは、日大よりは東洋、明治よりは立教のイメージですね。
で、東洋大の文法題で、たとえば「む」が出たとするなら、選択肢には、「推量・意志・婉曲・適当」とかって並ぶイメージです。だから、決して、「打消し・過去・完了…」とかと推量が並んだりするイメージではないです。
立教だと、「らむ」が出たとすると、「現在推量」が選択肢に並びながら「原因推量」えらばせるとか、「まし」が出て「反実仮想」選択肢に入れてただの「推量」選ばせるとかっていうレベルです。
だから、その問題落としたら不合格、ということが成り立つのかはわかりませんが、そのレベルまではやっておきたいですよね。
というわけでまず基本は、しっかりおさえて読んでください。
「らむ」は、現在の状況を推量する。そうすると、理由や原因も推量することになる…原因推量
「らむ」は現在推量が基本です。その事実が存在しているとすれば、現在である。でも、それが確実かどうかわからない…というのが、「む」から「らむ」にくるイメージなんですね。
自分が目で見ていなかったり、あるいは人の話から「こうなんだろう」という感じです。
「らむ」のついている動詞だけについて、推量しているなら、「~しているのだろう」でいいんですけど、どうも、その「らむ」がついている動詞だけでなく、その状況、文全体の事実について推量するんですね。「こうなってこうなってこうする」ということを「今しているのだろう」というような感じ。
となると、動詞だけでなく、その動作を行っている人、時、所、方法、理由、原因なども、推量してしまう。
できるだけわかりやすく説明すると、
- 事実自体が確認できない=ているだろう 現在推量
- その事実が動詞から読めるのに推量している=事実以外のものを推量 原因推量
という感じになるんです。
わかりますか?これがそのまま見分け方でもあります。
「らむ」のついている動詞が確実であるなら、原因推量で、その前にあるものを推量したい、つまり、原因や理由を推量している可能性が高くなります。
可能性が高い、というのは、「その動詞を含めた文全体という事実」の場合、必ずしも原因や理由を推量しているとは限らないからですね。
そうすると、可能性としては、前に「~や」「~か」とか「いかに」とか、そんな疑問形の言葉が入っている可能性が高くなります。
前が不確定だから疑問形、その後の動詞は確実、つまり原因の推量といことです。
たとえば、「など~~らむ」となっていれば、訳自体が「どうして~なのだろう」になりますよね?「など咲くらむ」だとすれば、「どうして咲くのだろう」となりますから、理由を推量する。だから、「いづこ」とか来れば、場所を推量することになるわけです。
若菜摘みにや~人の行くらむ
人が行くのは確定的。でもその理由がわからない。「若菜を積む」ことが不確定。そのために、「人は行くのだろうか」という感じです。
志深く染めてしをりければ 消え敢へぬ雪の花と見ゆらむ
雪が花と見えるのは確定的。だとすると推量するのは、「志深く染めているから」ということでしょう。これも、「~ば」の後に本来「や」があるのが普通ですが、歌ですから入らなかったのでは?
となると、有名な
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
も、「静心がないから」「花が散るのだろう」ととるのがいいと思います。
まあ、こういうのが、原因推量というやつです。
あ、あとですね、あくまでも現在を推量すると、現在の意志になる可能性はほとんどないとみていいです。自分が行動する以上、確定してしまうからですね。
で、「けむ」ですが、基本的には同じような感じがあります。原因や理由を、同じように推量する可能性があることはあるわけです。
「まし」は、反実性がポイントだけど、「む」が語義にあるので、「意志」訳が入り込みはじめる…ためらいの意志・実現不可能な願望、さらには普通の推量へ…
次に「まし」です。
基本は「反実仮想」~せば~まし
「まし」の厄介なところは、訳が「だろう」であるということ。
本来、訳に合わせて、職能=文法的意味が決まっています。
だから、「む」が、
「~よう」意志
「~だろう」推量
「~ような」婉曲
となったり、
そこに「ている~」となれば、現在推量とか現在婉曲とかになるし、
「~ようだ」となれば、推定になるわけですね。
なのに、こいつだけ「だろう」なのに、「反実仮想」なんていうわけです。
ここが非常に厄介なところ。
つまり、「まし」というのは、前に「ありえない仮定」がされているという前提があるわけで、
- ~せば、~まし
- ~ましかば、~まし
が原則で、
- ~ませば、~まし
- ~ば、~まし
などがぎりぎり言えるわけです。
「もし~だったら~だろう」という構文。
まあ、わかりますよね?こういうときに、「~まし」だったら、「反実仮想」と呼ぶルールになっているわけです。
疑問は「ためらいの意志」
ところが、第一に「~まし」自体に、「ありえない前提」さえあれば、使わなければいけないという状況になっている以上、上以外でも使ってしまうわけですね。で、この成り立ちは「む」に形容詞をつくる「し」がついたものと言われているので、「む」自体の意味が残っているわけです。
つまり、意志ですね。
「もし~だったら」がついたとき、自分が主語だとしますよね?そうすると「~だろう」になるんです。「もしボクが鳥だったら、空を飛ぶだろう」です。
だから、意志じゃなくて、「~だろう」の反実仮想の一本になるわけですけど、「もし~だったら」ではない、ありえない前提が来たら、どうなるのかってことです。
たとえば、典型例は、
「いかにせまし」です。
こういう疑問文の時は、「どうしよう」という意志の印象です。前提としては、「もしするのなら」「どうしよう」ですが、その前の部分が書かれていないんです。
でも、「~だろう」はおかしい。というわけで、これを「ためらいの意志」なんていいます。
基本的に疑問文になるときに、こういう用法が多くなります。
「忍びてや迎へまし」とか。「忍んで迎えようかしら」です。
どちらでもないなら「実現不可能な願望」
で、前提が実現できないようなことであるときに、「もし実現するんだったら」「~してほしい」というような、「実現不可能な願望」という用法もあります。
例文はたいてい、
「見る人もなき山里の桜花ほかの散りなむ後ぞ咲かまし」
がのっています。
他が散った後に咲く、ということがあり得ないこと。で、それを想像する。
そうすると、「~だろう」でも「~よう かしら」でも通じない。なので「~てほしい」で用法を分けるわけです。
中世には、ただの「推量」も…
これで終わり…と言いたいところですが、そうはいきません。
ここまで整理すると、
- ~せば~まし=反実仮想
- 疑問=ためらいの意思
- どちらでもない=実現不可能な願望
のような気がしますよね?
でも、大事なのは、
「訳があって用法が決まる」
ということ。
つまり、
- だろう=反実仮想
- ようかしら=ためらいの意思
- てほしい=実現不可能な願望
です。
つまり、
「~せば」もないし、疑問でもないから、実現不可能な願望だ!
という訳には行かないんです。あくまでもどう訳すか、です。
というのも「まし」は、中世に入ると、ただの推量のときにも使うんです。つまり「~せば」もないし、「疑問」でもないけど、「だろう」と訳すということ。
で、同じ「だろう」なのに、前にあり得ないことがないから、「反実仮想」とは区別しちゃう…。
面倒だけど仕方ない。
これ、立教で出ました…。しかも文法題で…。だから答えを「推量」って選ばないといけない。選択肢には「反実仮想」があるんです。
なので東洋とか立教とか受ける人は意識しておきましょう。
というわけで推量系の助動詞でした。