国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

古文 現代の感覚からすると注意が必要な活用をする動詞 古典文法

今日は、動詞の活用をやってきた人に注意が必要な活用をする動詞についてまとめます。

 基本的な文法事項の説明が終わっていますので、細かい例外的な用法の説明や、紛らわしい語の識別などに入ってきています。

今日は、動詞の活用という基本的なところに戻って、動詞の活用の注意すべき点を考えていきます。

というわけで、まずは基本的なことがわかっていないとダメなので、次のところは勉強してくださいね。

www.kokugo-manebi.tokyo

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動詞の活用、といえば、高1の一番最初なんですけど、まずは上の二つを最低限読んでもらって、さらに助動詞の知識とかも使っていきますから、しっかり基本的なことを身につけてくださいね。

 

四段動詞はそもそも二段活用をたいてい持っている…

さて、すでに動詞の活用のところで説明したところですが、

  • 現代語の五段活用、「~る」で終わらない動詞は、古文では四段活用で、形はそのまま。
  • 現代語の一段活用、「~る」で終わる動詞は、古文では二段活用で、形は「る」をとってひとつ上を「u」音に変えたもの。

ということでした。

ですから、まず、古文で見慣れない動詞を見たら、それは逆に「る」をつけるとわかるということですね。

たとえば、

  1. おつ
  2. おる
  3. あく

とかだとすれば、それぞれ、

  1. おつる
  2. おるる
  3. あくる

というように連想し、それぞれ

  1. 落ちる
  2. 降りる
  3. 飽きる、明ける

というような可能性を考えるわけです。ちなみに、最後の「飽きる」というのは、現代語と古語で活用がずれる単語で、まさに今回こういう単語を説明したいんですが、とりあえず、この基本的なことを理解してください。

四段動詞は、大部分で二段活用を同時に持っている。

この大前提で見たときに、大部分の四段動詞は二段動詞を持っていることになります。

これは、自動詞と他動詞という言い方もできますし、自然とそうなることと、意志的にそうすることということもできます。これが古文では非常に多いパターンです。で、なぜ難しくなっていくかというと、この中の自動詞的な用法あたりが消えていっていたりするわけですね。

現代語でも、古語でも、両方残っている例で説明しましょう。

たとえば「焼く」という動詞です。

「焼く」は現代語では、他動詞です。「~を焼く」という形で使われるわけで、「~を」を省略することが出来ても、言外に「~を」が含まれています。

自動詞、つまり「~を」がなくても成立するのは、「焼ける」です。

「魚を焼く」と「魚が焼ける」ですね。

これが古文では両方、「焼く」。

ただし、「魚を焼く」の方は、「魚を焼かず」と四段活用になるに対し、「魚が焼ける」の方は、「魚焼けず」と下二段活用になってくるわけです。

あるいは、現代語に近くなってくるなら、可能系ということも出て来ます。

いずれにせよ、古文でも現代文でもあるなら、そんなに間違うことはないわけですね。今日は、そうではなくて、現代語ではなかなか想像できない活用の動詞をおさえていくわけです。 

 

百人一首で「忘る」と「しのぶ」「恨む」を考える

まずは百人一首で考えていきましょう。

今、書いたように、こうした語の活用は、現代語からはずれてしまっているので、覚えるしかない部分です。しかし、これを「覚える」というのは非常に難しく、古文を読み込んでいくうちに、こうした語と何度も出会い、そしてなんとなく体にしみこんでいく、というようなプロセスを経ていくと思います。

実際、こういうことを書いている参考書は少ない。国語の先生をはじめ、できるようになった人は、「いや、そういうもんだよね」ぐらいの感じになってしまうわけです。出会うからね。

ということに、できるだけ近くしていくためには、やはり、典型的な例文を覚えるのに限るわけです。

そういう時、百人一首とかってすごく効いてくるわけです。それだけでなく、教科書でやった古文なんかも典型的な文、有名な文は覚えていきたいわけです。

そうすると、国語の先生の感覚に近くなります。

「忘る」と何活用?普通に考えると下二段だけど…

さて、最初は現代語の「忘れる」です。

古文では、「~る」ですから、「忘る」ですね。

ここまでは問題ないです。

ところが、百人一首覚えてると、違和感のある歌がありますよね。

忘らるる身をば思はず誓ひてし人の命の惜しくもあるかな

 わかりますか?

「忘らるる」って、なんとなく「忘れられる」っていう言葉を連想するし、実際それで意味が通るので、流してしまいがちなんですけど、よく比べたらわかりますよね?

「れ」がどこに行った?ということです。

「忘られる」

わかりました?

では、これを練習として、品詞分解してみましょう。

いつもだと、

  1. 動詞を現代語でみつけて活用させる。
  2. 活用形から接続を使ってアタリをつける。
  3. 意味をとる。

ですね。

でも、今回は1で破綻します。だって、

「忘れ・ず」「忘れ・て」「忘る。」「忘るる・こと」「忘るれ・ど」「忘れよ。」

ですから、そもそも「忘る」がないんです。

こういうところに気がつけるかどうかですね。今日は。

では、どうすればいいでしょうか。

こういうときには、

「絶対」のものを見つける

さきほどの意味からすれば、「忘れられる身」と訳しているわけで、これが合っていると仮定するならば、受身の「る・らる」があると判断するわけですから、これが「ある」と考えてみましょう。しかも後は「身」と名詞になりますから、連体形は間違いない。これが「絶対」のものですね。

まずは、「らるる」と見てみましょう。つまり、「らる」が、連体形になったとする解釈です。

そうだとするなら、上は「四段・ナ変・ラ変以外の未然形」ですね。

難しそうに見えますが、

  • 「未然形がa」の時=る
  • 「未然形がaでない」時=自分で「ら」というaをもってきて「らる」

です。要するに、四段・ナ変・ラ変というのは、未然形が「a」ということです。

うん、ここまではOK。「らるる」なので、上が「わす」ですから、「a」ではない。

しかし、これが、未然形だとすると、「二段」活用でないといけないですね。(上一、下一、サ変、カ変は動詞が限られていますが「わす」というのはないですね。)でも、ついているのが、「わす」ですから、おかしい。上二段なら、「わし・ず、わし・らる」だし、下二段なら「わせ・ず、わせ・らる」ですね。

要するに「あり得ない」。つまり、根本的に間違っています。

そう考えてみれば、「忘れる」が「わす」なんてなるわけがないわけで、「忘る」だとするなら、「忘ら・るる」ではないかと気づきます。

これ、

  • 受身の「る」である。ということは上は、四段、ナ変、ラ変のどれか。
  • 「忘ら」は「る」を受ける以上、未然形。つまり、四段活用。「ず」をつけるなら、「忘らず」ということになる。

ということを示すわけです。

というわけで、「忘れる」は、古文では「忘る」で、四段活用だったんですね…とまとめられれば、まだ簡単ですが、実は百人一首にもうひとつ、ありますよね?

忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな

「じ」は、未然形接続の助動詞です。四段活用なら「忘ら・じ」ですよね。

というわけで、この「忘る」という単語は、現代語のイメージ通りの下二段活用も持っているんですね。四段活用と下二段活用で、大きく意味が違うということもないようです。

  • 両方の活用があるとしかいえない。
  • で、おそらく、下二段の方が後に主流になる。ただし、下二段も万葉集のころからある。
  • おそらく、四段が「意図的に記憶を消し去る」、下二段が「忘れたくないのに忘れる」ということだと思われるが、どうもその使い分けもはっきりしない。
  • 結論的に言うと、平安時代は両方ある。

というところです。

最初に書きましたが、「意志的なものが四段」「自然と…という雰囲気が二段」ですね。ただ、「忘る」の場合、かなり混同されていて両方あるので、はっきりと言えないという部分もあるようですが…

面倒ですが、知っていてくださいね。 

 

 「しのぶ」って四段活用じゃないの?「しのぶれど」「しのぶること」

つづいて、もう少し単純ですが、「しのぶ」です。

「忍ぶ」と書けば、

  • 忍耐
  • 忍者

あたりが思い浮かぶはず。漢文なら「残忍」も覚えたいけどね。

つまり、「耐え忍ぶ」とか「人目を忍んで」とかっていう表現です。

何活用ですか?

四段活用の気がしません?

「しのば・ず、しのび・て…」が普通ですよね。上野にあるのも「不忍池=しのばずのいけ」だし。

ところが、百人一首ではおかしいのがいくつもあります。

しのぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで

浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋ひしき

玉の緒よ絶えなば絶えね長らへばしのぶることの弱りもぞする

あたりが出てきます。

ということは、わかると思いますが、二段活用ですね。

だって、四段なら「しのば・ず。しのび・て、しのぶ。しのぶ・こと、しのべ・ど、しのべ」ですから。

上の3首は、已然形、連体形のはずですから「しのぶる」「しのぶれ」と「~る」がつくのは、二段活用のはずです。

じゃあ、上二段でしょうか?それとも下二段でしょうか?

「しのび・ず、しのび・て」?「しのべ・ず、じのべ・て」?

これ、ヒントはありまして、

動詞の連用形が名詞化する

ということです。覚えておくといいですよ。

「泳ぐ→泳ぎ」「読む→読み」「言ふ→言ひ」

「食べる」は「食べ」で、「食う」なら「食い」です。

だから、「しのび」と「しのべ」のどっちが名詞に聞こえるか、です。

わかりましたね。上二段活用です。

というわけで一段落…といいたいところですが、百人一首にはこんな歌もありますね。

長らへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋ひしき

です。

これは「しのばれむ」ですから、どうみても四段活用。下につく語がわからなくても、「しのば」となるのは四段活用しかないですから。もちろん、下は未然形接続の「る」ですね。

これ、どうしましょう?

わかりましたか?これは同じ「しのぶ」でも意味が違う「しのぶ」ですね。

「偲ぶ」

です。

つまり、これは

  • 忍ぶ=上二段活用
  • 偲ぶ=四段活用

なんですね。

ところが、わかると思いますが、これも徐々に混同されていき、現代では両方とも四段、五段の活用になっていくんです。

この混同は平安時代にすでに起こっているんですが、百人一首の歌を見る限り、やはり、「忍ぶ=上二段」「偲ぶ=四段」ということが大勢を占めているようです。

 

「恨む」は、意志的なものと自然的なもので活用が異なるが…

さて、続いて「恨む」です。現代語の感覚では四段活用です。二段だったら、「恨みる」とか「恨める」とか使わないし。「連用形が名詞化する」の法則からしても、「恨み」で問題がない。

というわけで解決…と言いたいところですが、やっぱりこんな歌があります。

あふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし

この歌、何がおかしいでしょうか?

四段だとすれば、「恨み」は連用形。だから次は連用形接続の何かです。でも、これ、明らかに「ず」ですよね?だとすれば、ここは未然形になります。ということで、ここは未然形。だとすると、これは上二段活用です。

上二段も連用形は「恨み」ですから大丈夫。

そもそも、「恨む」という言葉は、現代では、「呪う」ぐらいの言葉ですよね。中島みゆきの「うらみ・ます」じゃないけど(知らないだろうけど)、意志を持って「恨む」んです。これが四段活用のイメージ。

古文の「恨む」っていうのは、どっちかっていうと、「悲しい」ぐらいの感じ。もっというと、恨む対象が自分だったりする。この歌も「身をも」ってくるわけで、自分を「恨む」わけですね。もちろん、上二段であっても、不満を相手のせいにする感じはあるんですが、それはたとえば、「誰かが」「私を」「恨む」というような感じだったりする。まあ、人を恨むこともあるんですけどね。

で、これが、近世にはいっていくと、四段に転じていくわけです。この「恨む」の場合、平安時代の文章だったら、終止形で「恨む」とあっても、「上二段」と答えるべきです。

注意してくださいね。

 

「飽く」は「飽かず」がよく出てくる形。

このような注意が必要な動詞で、他によく見られるものはあるでしょうか。まず、ここでは、「飽く」を挙げておきましょう。

たとえば、徒然草の以下のようなフレーズ、記憶にないでしょうか?

飽かず、惜しと思はば、千年を過ぐすとも、一夜のの心地こそせめ。

「飽く」っていうのは現代語では「飽きる」なんですよね。

ところが、明らかに「飽かず」と未然形がa、つまり、四段活用なんです。

意味自体も大切で、「よくもわるくも十分であること」です。

よいなら、「満足する」「十分である」。

わるくとるなら、「飽き飽きした」「うんざりした」。

ですね。

要は、満ち足りた状態を指すわけで、それをポジティヴにとらえるか、ネガティヴにとらえるかです。

こんな感じ。

こういうフレーズを覚えることが大事です。

 他にはないの?…結局は意志的、自然的である以上、いくらでもありうる…

さて、私も今回、こういうテーマでまとめると決めて、いろいろ振り返ってみましたが、他にあるのか…というと、たぶんいくらでもあるんですね。

また、「重要」であるもので、みなさんが見落としがちのものがあったら、追加しますが、少なくともいくらでもあるんです。

最初に書きましたが、他動詞であるということは、「自分が~する」という意志を含む語で、これが自動詞になると「自然とそうなる」というような自然、自発的な感じになる。

たとえば、「知る」という言葉はどう考えても四段です。だから、「私は~を知る」という他動詞型。意志的です。

しかし、ここには「自然と知られる」という表現もありうる。もちろん「知られる」、古文で「知らる」と書けば、受身や自発の「る」が入っているわけですが、現代語で「知れる」という形もありうる。

つまり、「人知れず」という表現を私たちは持っていたりするわけです。これは下二段活用。自然と知ってしまう、知られてしまうような感じですね。

だから、どんな語でも場合によってはよく考えて答えることが必要になります。

 

「見す」と「見さす」の違い。

さて、ちょっと毛色が変わりますが、よく試験で見るひっかけ問題を説明しておきましょう。

「見せず」「見せて」

なんですが、これ、品詞分解したらどうなるでしょうか。

たとえば、これを

「見る」+使役「す」+打消「ず」

という風に答えるのは、どうでしょうか?ダメなんでしょうか?

  • 「見る」は上一段活用
  • 「す」は未然形接続
  • 「見る」の未然形は「み・ず」で「み」
  • 「す」は未然形は「せ」

で、成立するように感じません?

でも、だめなんです。何か間違いがあるんですけど…

わかりますか?

それは、

  • 「す」がつくのは、四段・ナ変・ラ変、つまり、未然形がaとなる動詞
  • 「さす」がつくのは、それ以外。
  • つまり、「見る」が上一段である以上、つくのは「さす」で「す」はつかない。
  • ちなみにつけると「見」「さす」。これも聞いたことのある感じ。

わかりましたか?だからだめなんですね。

じゃあ、いったいこれは何でしょうか?

存在している以上、書き間違いではなく、何か、なんですね。

というわけでこれは、「見す」、現代語で言えば「見せる」という一語の動詞、と解すわけです。

両方使役だから、意味は同じなんですけどね…。

このように動詞の中には、さまざまな可能性があり、現代語で残っていればまだ解釈ができますが、ここまで説明してきたように、消えてしまっていると、違和感があるような表現、活用があるわけですね。

百人一首や教科書でやった有名作品のフレーズを頭に入れることは思っている以上に大切

というところで、今日のまとめです。

では、そうやって、現代語で消えてしまった語を、どうやって頭に入れていけばいいでしょうか。

それはもちろん、覚えるということかもしれませんが、こうしてみると、

先にフレーズを知っている

ということが重要だと気付けましたでしょうか。

先に頭に入っている「言う」「言わない」みたいなことが、後で文法的な知識によって埋められていくわけですね。

実際、大学入試でも、「これは教科書にも載っている有名な作品だから知っているに違いない」と問題にしてみたり、あるいは注をつけるのをやめたりするわけです。

逆に言えば、百人一首を覚えるとか、教科書を音読するとかは、一定の効果をあげるといえます。

というわけで、まだ入試が遠いとするなら、この休校期間中に、教科書をざっと読み返すなんてやってみませんか?