読むだけ現代文シリーズの6回目はいったん流れが変わりますが、「近代」です。「近代科学」を考えて、ポストモダン、ポスト近代を考えます。
読むだけ現代文シリーズが少し間があいてしまいましたが、言語の流れからいったん離れて、近代科学について考えます。この近代科学を考える中で、近代という時代そのもの、そして現代のありようについて考えましょう。
「近代」というワードが出てきたら、たいていの場合NGワード、嫌いな言葉、批判対象です。わたしたちの常識は、いつの間にか近代的価値観と重なり合っていますが、実はそれは常識ではない、というのが多くの評論文のコンセプト。だから、まず、「近代」という言葉をみつけたら、あ、批判だな、ぐらいの感じがほしいわけですね。
文章を読んでいると、せっかく筆者が説明しているのに、平気で無視する人もいます。
たとえば、「近代」と同じ意味をあらわすのは?
日本だったら、「明治」という言葉ですね。たとえば、それは「高度成長」とか「戦後の日本」とかでもいい。なぜなら、明治以降の価値観がずっと続いてくるからです。
西洋、欧米だったら?
たとえば「産業革命」であり、「16・17世紀」であり、「20世紀」でもいいですね。
こういう言葉がきたら、西洋的、欧米的、近代的価値観、近代的常識の見直しだな、と思って間違いないです。
こういうキーワードを、ただの記号のように読んでいると、現代文がわからなくなる大きな理由になってしまいます。
「わかる」こと。それがこのブログの大きなテーマです。
作者が「近代」をテーマに書いているのに、それがいつかイメージがわかないとすれば大変なことです。確かに「17世紀」なんて書かれると、イメージができませんが、それが産業革命とつながるかどうかは、皆さんの知識かもしれませんが、そういうことがわかる人向けに、その文章は書かれているわけで、わからなくてもいい、なんてことはないんですね。
中世の次が近代。
じゃあ、このふたつは何が違うんでしょう。
中世から近代へ~デカルトと近代科学
中世から近代へ
「近代」という時代の前は「中世」です。
日本で言えば、明治時代が近代ですから、江戸時代より前、というイメージ。日本史では江戸時代は「近世」ですから、かなりその中間的な表現はしてるんですけど。だからもっとさかのぼれば鎌倉時代です。
中世ヨーロッパといえば、騎士のイメージ。ジャンヌダルクとかね。魔女狩りとか、宗教裁判とか。
もうわかってきましたか?中世を悪く言うと、王様のような偉い人がいて、身分制度みたいなものがあって、非科学的なもの中で生きているんですね。
病気になっても、科学がないから、お祓いとかで治そうとする。日本だったら加持祈祷ですね。宗教が悪いわけではないけど、そういう科学的な分野まで入ってくるのが、中世。だから、黒死病が流行ると魔女狩りが始まるわけで、ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は回っている」的なことをふまえて、近代、つまり科学の時代への舵をきるわけです。
これを理解するために必要なのがデカルトです。
デカルトの方法的懐疑と分析的理性
デカルトは、当時の常識をいろいろと疑ってみることにしました。世界のもとは何なのか?非科学的な時代ですから、おおもとが原子だとか分子だとかっていう話にはならず、火だとか水だとか金だとか、そういう話になっていたんですね。
デカルトは思います。どうも嘘くさい。根拠がないじゃないか。じゃあ、とりあえず、ありとあらゆるものを全部ウソかもしれないと疑ってみよう。そう考えたんです。方法的懐疑、というやつですね。
そうすると、ありとあらゆるものが嘘っぽい。たとえば、あなたの目の前に人がいるけど、精巧なアンドロイドかもしれない(デカルトはそうは考えないかもしれないですけど)し、今日は何度もタイムリープして繰り返し同じことやってるのかもしれない。今、私がこうしていることもカメラで撮られていて、全世界で覗き見されているのかもしれない。あなたのお母さんは、小人がロボットで操作しているのかもしれない。疑おうと思えば疑えるでしょ?
そのとき、彼はひとつの絶対に疑えないものに気が付きました。それは「考えている自分」「疑っている自分」ですね。
我思う。ゆえに我あり。~私はこうして疑っている。考えている。その考えている自分だけはどうも疑えない。だから、私はここに存在していることは間違いない。考えているからこそ、考えている自分は間違いなく存在している。
こんな感じです。
これ、すごいことなんです。これが「理性」。そして「精神」私たちから、根本となる「理性」がとりだされたんです。残った抜け殻が「身体」。大事なのは、精神や理性であって、身体はどうでもいい。つまり、「私」という存在から「理性」が取り出された結果、「身体」が切り離されたわけです。
ほら、当たり前って思うでしょ?これが、私たちが近代的価値観の中で生きているっていうことなんです。
身体と精神がわかちがたく結びついていて、切り離せないからこそ、病気になったら加持祈祷で精神治そうとしたりするんですね。
これ、身体論で一回やってますからね。
このことによって、身体はただの物と化していくんです。おなか痛いときに、おなか切ったら普通死ぬって思うんですけど、切れるんですね。
だって、物だから。
こうして、デカルトさんによって、いろんなものを分解して分解して、分析して、そして因果関係を決めていくことができるようになったんです。
これが、科学の時代です。
科学の専門性~大学の学部と産業革命
そうなんです。科学というのは、分析なんです。
そもそも学問というものがあるとしますよね。昔だったら、たとえばギリシア哲学だったら、数学とか科学とか哲学とかが全部、同じ人がやるわけじゃないですか?
これは分解されていない「真理」を追い求めようとするからですね。
でも、どこかで無理があったわけです。
たとえば、コペルニクスという人は地動説を唱えるわけですが、この人、どうして地動説にたどりつくかというと、世界のおおもとが「火」だと思っていたからなんですね。まず世界のおおもとは「火」だと決める。信じる。そう考えると、火の権化のような太陽がある。きっとあれは世界の中心に違いない。だとすると、向こうが回るはずない。こっちが回っているんじゃないか。じゃあ確かめよう…となる最後はだいぶ科学ですけど、最初の方はかなり怪しいですよね?つまり、まだわかれていないんですね。
近代はいろいろなものを分解、つまり細分化して、分析します。そうすると、細かく分かれた先に専門領域が生まれていくわけですね。
たとえば、科学と人文社会科学です。モノを扱う科学と、人を扱う自分社会科学。こうしたものが違う学問になっていくわけです。
大学に「学部」が生まれる過程です。
ここに専門家が誕生するわけですね。科学者と社会科学者は違う専門なわけです。これがどんどん細分化して現代にいたります。
大きな学部わけから、学科分けが始まり、その中でも研究室っていうさらに細かい区分けができて、同じ研究室でも、同じことをやっているとは限らない。ずいぶん細分化されて専門領域ができたと思いませんか?
工学部と法学部は違うことをやる。
ね、常識ですよ。これが近代になって初めて生まれた常識なんです。
細分化して、分析して、科学的に考える。専門領域が生まれて、専門家がそれぞれの専門について研究をすすめる。
これが何をもたらすか?圧倒的な効率です。ていうか、そもそも病気をおまじないで治そうっていうんだから、なんていうか、科学的な因果関係がないですよね?
このことで、世界はまさに「進歩」するんです。
現代の課題~ある程度の幸福と人間性の回復
さて、「近代」とくれば批判対象でNGワードでした。
なぜでしょう?
だって、どう考えたって、世界は「進歩」しています。おまじないで病気を治す時代が、医療によって病気を治すようになったのですから。
これは、この近代的な価値観がどれだけ世界に浸透したかによります。
世界には、こうした価値観を拒む文化もあります。いけないわけでもありません。これは生き方の選択ですから。あるいは、こうした価値観による恩恵がほしいのだけれど、まだこの恩恵を受けていない国々もあります。貧困の問題や発展途上国にとっては、まだ、この科学的な進歩の概念を完全に受け取ったわけではない国もあるわけです。
それでも、先進国に暮らす人々は、ただ豊かなだけでは満足できなくなりました。
飢えて死ぬ人がいる。飢えないような技術、農業や貯蔵や保存、調理や運搬などさまざまな技術が必要でした。
病気で死ぬ人がいる。だから、病気を治す技術や病気にしないための技術なども必要になりました。
困った人がいれば、その困ったことを私たちは、細分化して専門化した科学領域で新しい技術を作り、それによって解決してきたわけです。
現代でもまだその技術が必要な人もいるし、そんなのいらないよっていう人もいるけど、先進国の多くの人は、簡単に死ななくなるし、簡単に飢えなくなってきました。そうなってくると、もうそろそろいいんじゃない?っていうことが起こるんですね。
たとえば、医療を考えてみましょう。
近代以前は、病気で死んでしまう。だから、簡単に死なないようにしてきたわけです。でも、現代では、食べられなくても点滴で栄養がとれる。排泄ができなくても人工肛門をつけて排泄も機械化できる。呼吸ができなくても、人工呼吸器で呼吸ができる。否定してはいけませんよ。決してこれは植物状態のようなことを指すのでなく、意思疎通ができる、話せるような状態をも含むからです。胃瘻の問題もあります。さまざまな技術ができて、そこにさまざまな新たな問題が生まれます。
でも、高齢者の、しかも死を直前にした人が、簡単に死ねない、そしてこういう施設のない、つまり「家」で死ぬことが否定されます。これが誰がみても間違っていて「悪」ならやめればいい。でも、話せるんですよ、その技術によって。もう少し生きられるんですよ。コミュニケーションがとれるんですよ。そうなると、判断にも迷います。いままでなかった新たな問題と私たちは向き合いながら、「そこまでしなくても…」という一抹の疑問が生まれて来るんです。
臓器移植や不妊治療、クローンの技術が、「そこまでしなくても…」という一抹の疑問として、何かを私たちにあたえる。
これが近代に対する批判、ということです。
専門から一般教養へ~コミュニケーションの問題・次善の策を考える
もうちょっと、具体的に細分化と専門化の弊害を考えてみましょう。
環境問題を考える
たとえば、環境問題がありますね。これはどういう問題でしょうか。
たとえば、温暖化の問題。どう考えますか?
温暖化はCO2の増加によって起こる。だからCO2の増加をとめないといけない。たとえば、ガソリンはだめで、電気自動車はエコですね。発電だったら原発が温暖化にはよくなります。CO2は、森林の減少ですから、割り箸はだめで、下手すれば木造住宅も悪い。紙は木から作るわけですから、できるだけリサイクル。牛乳パックとか新聞・雑誌とか。
こんな感じですかね。
もちろん、上のことが間違っている、というわけではない、という前提で考えていきます。
そもそも、温暖化がCO2の増加によるものなのか、確たる証拠はないんです。他の様々な要因があるわけで、全体的な気候変動とか、その他の排出物とか。だからCO2の増加が原因であるとはいえません。
森林の問題があげられましたが、地球は陸地よりも海洋の方が大きいので、サンゴをはじめとする海洋の問題の方が本当は大きいかもしれません。だから、そもそも森林の問題にするのも大きな間違いです。
割り箸は間伐材から作られていたんですが、いまや悪者にされ一気につくられなくなり、輸入のものにおされています。林業が衰退すれば、森を管理する人がどんどん減り、結果として森林の手入れができず、逆に森が荒れる、死ぬ、という状況が起きています。
木造住宅を悪者にするのはいいですが、代わりにやってくるのは、鉄筋コンクリートです。それらを生産するときに使う熱、つまりCO2はどう計算したのでしょう。産業廃棄物となってしまうごみの問題もありますね。
リサイクルはいいだろう、と思うかもしれませんが、どんなにリサイクルしても、紙は新聞雑誌の紙となり、段ボールになって、最後はゴミです。ゴミになるための先延ばしをしているだけです。でも、そのことによって使用量が増えているとしたら…。リサイクルをするためには、回収するための車が走り、それはやはりガソリンです。さらに、工場では、洗浄のための大量の水や燃料も必要ですし、当然あらたな材料も加えられています。
車はガソリンでなく、電気にすればエコということでしたが、それはどうやってやってきたのか?火力発電ならCO2は立派に排出していますし、水力ならダムですよ。原子力は原子力なりの問題がありますよね。
そうなんです。仮に論理を一本にすれば解決するように見えても、じつはそこからさまざまな問題が組み合わさっていて、簡単に解決することができない問題なんですね。
ことは、CO2や森林だけでなく、経済や人間心理、教育といったこともふくめた多岐にわたる問題なんです。こうした枠組みの問題を、細分化して専門化した学問領域で解決しようとすることに、そもそもの無理がでてきている。
時代の要請としても、細分化・専門家・分析の時代から、総合して一般教養をつかう学際的な学問領域を必要とする状況になっているんです。
一般教養の視点の重要性~粉ミルクの話と衣服の援助の話
環境問題からもう少し具体的な事例で専門的な一本の道筋ではだめなんだという例を追っておきましょう。
村上陽一郎さんが紹介していた例です。
アフリカの飢餓地域に、粉ミルクを寄付するというキャンペーンが行われます。いいことのように思いますよね。でも結果は悲惨でした。
まず、粉ミルクは、水が必要です。しかも使ったあと洗浄するのにも水が必要。これが十分に確保できない地域で使うと…。十分に洗浄せず、しかも粉ミルクという栄養があるところは細菌の繁殖場となり、それを飲ませるものだから死者がでていくのです。
適切に使わない、横流しをする、洗浄できない…ちょっと考えればわかるようなことを考えないことによって、こうした問題が起こります。
次の例は、いわゆる災害援助の話です。ある国の災害に対して、必要になるだろうということで、大量の衣服が災害援助として贈られることになるんです。もちろん、それは必要なものです。これが何をもたらすのか?
実は、その地域の基幹産業である服飾産業を壊滅的なまでにやっつけてしまうのです。結果、復興に長い月日がかかる、というより、産業基盤の立て直しができなくなってしまったんです。
難しいですよね。こういうこと。
よかれと思っていたことが、長期的、総合的な視野がかけることで、さまざまな問題を起こしてしまうんです。
こうなってくると、どんなに専門分野にたけていても、いわゆる一般常識、一般教養を持ち合わせ、組み合わせて考える総合的な力、しかも未来を予測するようなそういう力が必要になっているんですね。
これが「ポストモダン」。モダンの先、ということです。近代は細分化して、専門化して、効率を求めましたが、これを反省して、全体としてとらえ直そう、というような動きです。
これは決して、現代がいい時代になったということでなく、現代が近代の枠組みの中にあるからこそ、出て来る反省といえるでしょう。
学際的な視点を持つということは…コミュニケーションの力
これを専門家領域の中で考えると、学際的な視野ということになります。自分の専門領域の中だけでなく、ほかの専門家と協力したり、あるいは一般人の感覚や意見をとりいれたり、そういう力が求められるわけです。
そうなってくると、専門的な知識を、専門的な言語で共有しているっていう知のあり方ではいけなくなってきます。
専門的な知識を一般の人にわかってもらわないといけない。その方法はふたつ。一般の人に専門的な知識や用語を勉強してもらうか、それとも一般の人がわかるように説明をしていくか。
残念ながら、前者の方法だと、一般の人が専門家になることとほとんど意味が変わりません。というわけで、それではだめなんです。
教育的な問題だったら、先生、法律的な問題だったら弁護士の先生が早いに決まってます。でも、その常識って外から見ると違和感があったりしますよね。じゃあ外が正しいかっていえば、そうとも言えない。しっかりと考えていくと確かに専門家のいうことが正しいのかもしれない。でも違和感がある。
これを解決するのが学際的な視野なんですが、教育的なことをかじってしまえばしまうほど、専門家の気持ちがわかってしまうわけです。
この両方を乗り越えるのが学際的な視野。
だから、一般の人にわかるように説明する義務がある。専門的な知識を持たなければ、どう思うか、どう見えるか。そういうことを問いかけながら、説明する必要があるわけです。
医療の世界に「インフォームド・コンセント」という言葉がありますね。患者さんに説明して医療を選択してもらうわけです。しかし、たとえば高齢者を相手に専門用語ふりかざして長々と説明したところで、「先生にお任せします」となるに決まってる。
だから、どれだけ、相手の立場、それは相手の常識であり、それは相手の持っている言語体系を理解するということなんですが、それができるか。
これって異文化理解、相互理解の話なんですが、そんなことが求められる。
専門的な知識は専門的な知識としながら、それを相対化する、客観化する視点が科学者には求められるわけです。
最善の策から次善の策へ~ベストからベターへ
そうなってくると次に必要なのは「妥協」です。自分の意見を主張し、相手の意見を聞き、そして自分の意見を相対化する。
そうなったときに、ひとつの専門領域から見たときにベストな答えになるわけがない。ある方向ではそれがベストでも、違う問題を次から次へと引き起こすからです。
となると、「妥協」が必要になります。
ある方向では最善の解であっても、別の視点から見れば問題がある可能性が高い。総合的な観点でみたとき、ある方向ではベストではないけれど、間違ってはいない、というラインをありとあらゆる方向で見つけていかなければいけないのです。
これがベター、次善の解ですね。
こういうものをしかも長期的な視野、総合的な視野で見ることが求められるんです。
専門的な視野、細分化された学問の統合。科学者自身も一般教養をもち、広い視野をもち、しかも長期的に見渡す力が必要になる。しかも、専門領域が分かれている以上、多くの分野の人達と協働して、学際的に意見を主張し、聞く、そして、具体的な行動をする必要がある。しかもグローバルな視点で、です。
大変ですね。でも、これからの時代を生きるあなたがたには、こういうことが求められるから、こんな文章を、特に理系の人に読ませようとするのです。