読むだけで大学受験に必要な現代文の知識をつけていくシリーズは、社会科学系に入ってきて、今日は、自由と平等と民主主義が、差別とナショナリズムを作るという逆説的なお話です。
社会科学系、つまり、法学部が中心となるようなテーマに突入します。法学部は、大学入試の中でも、かなり専門的な文章を読ませる可能性が高い学部です。早稲田、慶応、明治ともにそういう傾向が強いと私は思っています。一橋なんかもそうかもしれません。
したがって、今日の話あたりは、こういう系統に進む、あるいは今書いたような大学を受ける場合、知っていないとかなり厳しくなります。すごく小論文的というか、内容を把握するのも、前段階の知識がないと大変です。このあたりは、上智の法学系の公募推薦の問題なんかもそうで、法学部系は、全般的に「わかるよね、このくらい」とかなり専門的なことを出してきます。
もちろん、立教とか東洋とか、入試問題をまとめて作っているところは、そもそも学部の癖がありませんから、またこれは別ですね。
では、今日の話に行きましょう。
- 出題する学部は、なんといっても法学部
- 「仲間」を作るためには「仲間でないもの」が必要になる。
- オニがやってきて、クニができる。近代の国民国家=ネイションステイトは「自由・平等・民主主義」を掲げる。
- 西洋的な自由と平等を掲げる民主主義は、普遍的なものとして、相手にも権利として認められていく
- 多様性=異質性が国家に入ってくると、伝統的な価値観、正統性が薄らいでいく。幻想性としての「民族」と「国語」、そして「歴史」
- ナショナリズムとグローバリズムは表裏一体。大きい国ほど、敵が必要となり、「民族」の概念が必要になる
出題する学部は、なんといっても法学部
このあたりの文章をとにかく出題するのは、法学部です。原理的な話だと、国立2次でも必須の部分ですし、文学部教育学部の小論文ネタにもなりますが、これを具体的な問題として説明するとなると、法学部や国際系などが中心です。当然、経済系や商学系などでも、多少の可能性は残しますが、まずは法学部の人にはとても大事な部分ですので、しっかり理解しましょう。
「仲間」を作るためには「仲間でないもの」が必要になる。
今日の話の中心は、国と民族、そして、グローバル化の話です。こうしたことを考えていくために、まずは、原理的なことを考えていきましょう。
つまり、共同体であるとか、国であるとか、あるいは民族であるとか、そういうものはどうやってできるかということを考えてみます。
それは、端的にいえば「仲間」であることはどうやってできあがるかということです。どうですか?同じ仲間、何かしらの共通性をもって、私たちは仲間を作っていくわけですが、どうして私たちは「同じ」とみなすことができるのでしょうか。
実は、私たちが「仲間」であることを証明することはとても難しいんですね。仲間であるためには「でないもの」を作る必要がある。論理的に「違い」が説明しにくいとするなら、一番簡単なことは、「でないもの」を作ることによって、結果として自分たちが仲間であることを確認していく、ということになります。
もちろん、恋人であるとか、明らかな親友であるとかは、そのこと自体で関係ができていますね。でも、すごく仲がいいわけではないけど、それでも同じ集団の仲間である、というようなことはあるわけですよね。クラスメイトであったり、同じ学校の仲間であったり…。そういう集団の中で、仲間として認められるための条件ということです。「でないもの」ができることによって、仲間になっていくんですね。
クラスメイトというのは、クラスメイトでない人がいるからですね。ご飯を一緒に食べない人がいて、トイレに一緒に行かない人がいて、自分たちは「仲間」になるわけです。
たとえば、ムラとかクニとかそういうものができる原初のイメージを考えてみましょう。
たとえば、あなたが家族と住んでいます。少し歩くと近隣住民と出会います。仲よくしますか?じゃあ、仲間ですね。でも、そうなるとあなたのムラがどこまでかわかりません。もう少し、歩いていきましょう。今度は知らない近隣住民と出会いました。仲よくしますか?仲よくなってしまいました。どうもここもあなたのムラのようですね。こうして、どんどん進んでいくと、あるとき「仲間じゃない!」「仲間にならない」という人が出てきました。
これがムラの輪郭です。文学的な表現を使うと、クニ作りはオニ作り。鬼がいるところが、敵のいるところなんですね。
たとえば、「征夷大将軍」なんて言葉がありますが、蝦夷をやっつける、ということですよね?仮想的である蝦夷を作りあげて、それをやっつけるけど、お前は仲間か?と問うているようなものです。
私たちはなんだか最初から日本地図のような国の輪郭があるような気がしていますが、最初はきっと、こういう漠然としたものであるはずなんですね。
それをはっきりさせると、敵が必要になってくる。鬼がいるわけです。鬼が具体的かどうかは別として、鬼が想定されるから、自分たちは仲間であり、鬼がいるところまでが、自分の国になる。
原理的にぼくらは「でないもの」を必要としていて、そのことによって、仲間であるというような団結を得るわけです。
オニがやってきて、クニができる。近代の国民国家=ネイションステイトは「自由・平等・民主主義」を掲げる。
こういうのが、近代以前の「クニ」です。近代以前がイメージできない場合、ヨーロッパなら、中世、騎士とか魔女とか科学がない時代をイメージし、日本だったら江戸時代以前をイメージするといいですね。
歴史を学んでいると確かに、「国」という言葉が出て来るんですが、これが、現代と同じかどうかは非常に疑わしいですね。
これは特に、一般市民、国民の中で考えるとわかりやすいです。たとえば、日本の場合、本当に庶民は、「きみの「クニ」はどこだい?」と聞いたとき、「日本」と答えたでしょうか?特に江戸時代以前となれば、「長州」とか「薩摩」とか「会津」とか答えたはずなんです。クニって感じをあてるなら「故郷」みたいなものですが、当時はそれも「国」だった。つまり、「日本」なんて知らなかった。「戦国時代は日本が統一されていないけど、信長、秀吉、家康と日本が統一されたんじゃないの?」って思うかもしれませんが、実は制度的に、つまり大名がコントロールされたという意味においてはそういえますが、では、そのひとつひとつの中身は同じなのかといえば、いわゆる連邦制のようなもので、その中は自治があるというか、村人の意識としては、日本ではなくて、それぞれの「クニ」に属しているわけです。
これをもう少し、詳しくいうと、その「クニ」をおさめているトップは日本という国に属していて、牛耳られているけれど、その臣下はあくまでもその「クニ」の国民であり、正確にいえばそのトップも「日本人」であるとおもっているのではなく、「徳川」に自分の「クニ」が牛耳られているという感覚に近いと思います。
世界史を見てもそうで、たとえば「オスマントルコ帝国」とか、ものすごい勢いで広がりますけど、その端と端を見たときに、言語であるとか、文化であるとか、生活慣習であるとか、そんなことにトップは関与しない。関与しようとしたかもしれませんが、民衆レベルではできるはずもなく、要するに、小さい「クニ」の集合体が大きな連合体としての国になっていて、庶民はそんなことよく知らない、というような意識だったと思われます。
これが、近代になると、変わってくる。
いつのころからか、ぼくらは「クニ」はどこ?と聞かれれば、「日本」と答えるようになる。
それがいつか、というのは、ひとつは黒船がやってくるところでしょう。もちろん、民間レベルでは鎖国していてもさまざまな交流があったという事実はあるでしょうが、それは、自分たちのムラ的な共同体に、他の国がやってくるような事態とは違います。しかし、黒船は、具体的に「オニ」として、国境線を見せつけてきたわけです。自分たちの場所が危うくなる、そういう「オニ」が目の前に現れるわけです。
日本は島国ですから、庶民レベルにおいては、日本のあの形の中では、オニと出会ってそれぞれの国境線を作っていたわけですが、その海の向こうは、朝鮮とか中国ぐらいまでの意識であって、反対側なんてわからなかった。ところが、オニがやってきて、国境を意識せざるをえなくなります。
結果、細かい違いはどうでもよくなる。「でないもの」が現れると、「仲間」ができる。
「日本でないもの」があらわれて、ようやく「日本」としての連帯意識が生まれてくるわけです。
これは、いうなれば、近代の国民国家、ネイションステイトの誕生です。それぞれの国家は勢力を広げて、別の国家と具体的に出会うことによって、内部にあった小さな差をまるめて、同じ国民としての意識を持つようになる。
これは、移動の手段や貿易、交易を含めて、ありとあらゆるものが出会い、そのことで、「でないもの」異質なものと普通に出会い、小さな差異がまるめられて、同質化されていく過程であるともいえます。
西洋的な自由と平等を掲げる民主主義は、普遍的なものとして、相手にも権利として認められていく
近代国民国家は、そのように内部の小さな差異をないものとして、同質化していく。それは、みんなが平等で、自由な個人であるというような意識でもあります。多少の違いがあったとしても、それを個人として認めていく。平等で自由な主体として、均質な個人、国民という概念を作りあげていきます。
何度も書きますが、だって、外にはもっと大きな、もっと違う敵としての「オニ」があり、そうなる以上、自分たちは「同じ」なんですね。これが自由と平等と民主主義につながっていくわけです。
植民地主義も含めて、まずは、大きな敵、異質なものがあることで、内部の均質化、内部の自由や平等が実現されていきます。
逆に言えば、ある程度同じ価値観を共有でき、社会的な同じ常識を持っている人は仲間になっていく。同じであることを強要していくことでもあるんですが、それは裏返せば、そういう価値観を持たない人を排除する装置でもあるんですね。
で、これが基本的な国家の価値観となるわけです。近代の国民国家、ネイションステイトはその意味において、近代以前の国とは違います。
それ以前の国は、封建的というか身分制度というか共同体的というか、いずれにせよ、社会的なことが個人の前に立ちふさがっているわけですが、近代の国民国家は、内部にいる市民が同質である、同じ権利を持つことを保証していくわけです。
これが近代の国民国家。大事ですから理解しましょう。
近代の国民国家は、自由と平等、民主主義を標榜するわけです。どんどんそうなっていくというか。そこでは、差別は悪であり、許してはいけないことであるはずなんです。
近代国民国家の初期においては、自分たちの連帯を高めるために、「敵」として「オニ」として、他国の人が想定されたり、あるいは国家の内部に、そういう存在を置くこともあるでしょう。そうしないと、自分たちの同質が保証できないんですね。差別対象をおくことによって、自分たちの平等をおくようなことです。
でも、国民国家が広がっていくと、国民国家同士にも、同様の自由と平等という、権利を認めざるをえなくなっていきます。ひとりひとりを個人として認め、そしてその個人を平等に、自由を与えていく。これが民主主義ですが、もちろん、これは西洋的、欧米的価値観ですね。
それが当たり前のもの、普遍のものとして、世界に広がっていきます。それが押しつけかどうか、ということはここではおいておくとして、少なくとも自由と平等を標榜する以上、相手にも認められていく。植民地的なことも、奴隷的なことも、少なくとも建前上は、「差別」として、「悪」として排除されていくわけです。もし、この価値観が相手にあるとするなら、実は自分たちと同質なものとして認めていくということをせざるを得ないわけです。
こうなってくると、世界はグローバル化の時代に突入します。
世界にはいろいろな人がいる。けれど、お互いに、それぞれの自由を尊重し、平等な個人として扱う。
だから、自分の国の中に、異質な文化を持つ他者が入ってきたとしても、その他者を平等な個人として認めなければいけないという価値観でもあるんですね。
これは、ある意味で、自国の中に、異質なものを入れていくような動きであるんです。グローバリゼイションであり、コスモポリタニズムですね。
みなさんにはどう見えるかわかりませんが、世界の動きはこういうものであるんです。アメリカはそもそも成り立ちとして、伝統を持たない、移民の国家ですから、多様性、異質も何もちがうものの集まりですし、EUなんていう動きも、こういうグローバリズムの動きのひとつです。もちろん、イスラム世界やアフリカなどの異文化がこうした動きに入ったと言い切れない部分もあり、世界にはまだ、「そうでない」文化もあるのかもしれません。ただ、大きな動きで見れば、ヨーロッパ的な自由で平等な個人という価値観は世界に広がり、さらに国家の枠組みさえも崩すような動きをしているわけです。
多様性=異質性が国家に入ってくると、伝統的な価値観、正統性が薄らいでいく。幻想性としての「民族」と「国語」、そして「歴史」
考えれば、当たり前のことで、自由で平等で民主主義ですから、グローバリズム、コスモポリタニズムが普通で、差別は悪ですよね。
だから、グローバリゼイションは拒むことができない。
ところが、そうなってくると、異質なものが自国にどんどん入ってきます。国際結婚もそうですし、帰化もそうでしょう。サッカーの日本代表にブラジルからの帰化選手がいたり、大相撲でも帰化をしたり、大坂なおみもそうだし、八村塁もそうだし、ケンブリッジもサニブラウンもそうですけど、立派な日本人ですよね。
あなたと結婚した、他国の人だって、日本でずっと暮らすとなれば、日本国籍を選択する可能性もある。
それらの人は立派な「日本人」ですね。だって、日本国籍を持っているんだから。そうでなければ、今や差別語になりつつある「ハーフ」という言葉で表される人々は、どこに行き場があるんだ、ということになります。
さらにここには、難民の問題も入ってくるでしょう。
こういう人たちの国籍は国籍でまた別の問題があるにしても、帰ることが不可能な状態で、そこで生きることを選択したとするなら、また、その国で暮らす権利を得ていかないと大きな問題になっていくわけですね。
いずれにせよ、個人の自由と平等を保証すれば、これらの人たちは、当然認められる。平等な権利を得る。
そうなってくると、もともとに比べて異質なもの、多様なものが入ってくるわけです。本来、それを認めるのが民主主義ですが、実際は、異質なものが入ってくるとある種の伝統的な価値観が揺さぶられてしまうわけです。
たとえば、あなたのクラスの半分が、日本国籍は持っているけれど、ルーツは違う国を生きてきた人になったらどう思います?なんだか、日本的な文化や伝統について、不安になりません?
こうなってくると、また、国の内部でさきほどの「でないもの」作りが始まっていくわけです。自由と平等を規範にして、均質化していく装置は一方で、そうでないものを作り上げる装置だからです。内部を細かく分類して、より細かい差異を見いだして、自分たちの存在の根拠を作り出します。
これは、いじめの陰湿化に似ています。ドラえもんの時代は、のび太君がいじめられっ子で、しずかちゃんがヒロインで、出来杉くんがいて、ジャイアンがいじめっ子で、スネ夫が金持ちです。もちろん、その代わり映画になったりすると、いじめっ子のジャイアンはのび太を守る訳にもなるわけです。役割は個性ですから。だからこそ、みんなのび太君のポジションはいやだった。世の中からのび太君が消えていく。感覚的には、キテレツ大百科は、主人公がキテレツですからね。次にいじめられたのはスネ夫や出来杉くんでしょう。次の時代にはいわゆる優等生っぽい優等生がいなくなる。そうなると次に浮いてしまうのは、ジャイアンですね。気がつけば世の中から、本当に不良っぽい不良もいなくなりました。
みんなクラスで「でないもの」にならないように必死です。世の中、個性を叫ぶわりに、クラスを見渡せば、いわゆる「キャラ」というような言葉とは裏腹に、誰がどの「キャラ」になっとしてもたいして変わらないような均質した仲間になっている。
そうなると、「でないもの」は、たとえば「あいつ、授業で手をあげた」とか、「笑い方が変」とか、そんなことにさえなっていく。ささいな差で「でないもの」を作るクラスができあがり、自分がそうならないように、必死に合わせていく。「個性」さえもみなに「個性」といわれるような「個性」を目指す。つまり、みなと同じような「個性」が大事なんですね。別の言葉でいうと、だいたい同じでちょっと違う、その違うことは他者から認められる、すでに存在している「個性」であるということです。
だんだんだんだんと、差がなくなっていくけれど、「でないもの」が必要なので、どんどんささいな差でいじめが起こるわけですね。
さて、国家の場合は、もう少し具体的な根拠を求めてきます。
それが「民族」という概念です。つまり、みんな日本人だけど、本当の日本人と、本当は外国人、というような分け方です。先ほど書いた、国際結婚や移民、帰化など、そういう人たちは、本当は日本人ではない、というようなことにするわけですね。
しかし、この「民族」という概念は非常に幻想的なものです。遺伝的に調べていくと、地球上にいる全ての人類は、アフリカの東海岸にいた1人の遺伝子から広まったものです。移動して、移動して、こうして全ての人類になったわけで、特に国家に根ざしているような民族の分け方は、ほぼ後付けで作られたもので、生物学的な説明はすることができません。遺伝子やDNAでは、日本か朝鮮か中国かということはわからないということです。
しかし、国家の中が、みな日本人となった以上、細かい分類が必要とされ、さも科学的であるかのような「民族」という概念が必要となるわけです。
国家というものは、そういう幻想性に支えられていきます。そのもうひとつの概念が国語であり、歴史です。同じ国語を持ち、同じ歴史を持つということ。これらも、民族同様、幻想の概念です。国語というものは、本来、国内でも違う言葉を話していたわけですが、近代国民国家である以上、同じ言葉を整備する必要が生じ、「正しい国語」が作られるわけです。帰化する人々などは、そういうものは実は持たされています。しかし、だからといって、同じ国民として認められるかというのは、別問題で、多様で異質なものにみえる以上、「純粋な日本人」とか「本当の日本人」とかそういう概念が生まれてくるわけですね。日本なんかは、そもそもが島国だから、それ以外を排除します。
フランスあたりだと、フランス人のためのフランスなんていう言葉とともに、移民も~系、~系とわけていって、受け入れられるかそうでないかを更に分類している感じになっていきますよね。
ここまでいろいろ書いてきましたが、こういう動きがナショナリズム、ですよね。そして、差別。じゃあ、どうしてこういう動きがでるかというと、アイデンティティというか、伝統というか文化というか歴史というか、そういうものが揺さぶられるからです。
その大元はグローバリズム。みんなが自由が平等だからこそ、ナショナリズムが呼び込まれていくわけです。
ナショナリズムとグローバリズムは表裏一体。大きい国ほど、敵が必要となり、「民族」の概念が必要になる
というわけで、ナショナリズムとグローバリズムは、実は表裏一体です。全く違う思想なのに、裏表なんですね。
たとえば、国を離れて、ネット空間というのは、個人も企業も、ひとつの点のような存在となって、自由と平等が保たれる場ですよね。そういう場ほど、むしろ「ネトウヨ」のように、差別的な言動が増えていくというのも同じ原理であるような気がします。
自由で、それぞれが個人として、よりどころがないからこそ、拠り所を必要としてしまう。
そんな感じです。
国家の話に戻ります。つまり、大きな国であればあるほど、外側に敵を必要としていきます。そして、内部に多様性を持てば持つほど、民族という根拠が必要となります。
アメリカが戦争をすればするほど、アメリカ国内の団結が強まり、大統領の支持率が上がり、中国のような国の内部で、団結を揺るがすような事態が起これば起こるほど、半日的な動きが強まっていくのも、こういう原理で説明ができます。
そして、こういう国だからこそ、民族のような概念が植え付けられ、その植え付けられた民族という概念が一人歩きして、一方で細かい独立運動のようなものが起こってくるわけです。
現代の世界を見渡せば、グローバル化や大きな経済圏を作る動きが出れば出るほど、一方で、他を排除するような動きも出て来ます。国境に壁を作ったり、EUを離脱したり、そうでなくても、ナショナリズムは強まります。でも、そうなれば、当然、そこにブレーキをかける動きも出て来ます。なぜなら、表裏一体だからであり、原理は自由と平等だからです。
そして、そういう大きなひとまとまりの動きと共に、民族の違いに目を向け、独立しようとしたり、いがみあったり…ということもずっと続いているわけです。
近代の自由と平等は民族という概念を必要とし、いまだにその枠組みで、いろいろなものごとが解釈されていきます。幻想の概念が正当性をもって存在し、その幻想性を根拠に戦争をはじめとする様々な事態が起こっているわけですね。
それでは、次回は、平等が実現すると、民族の優劣が問われる、差別が起こる、という話を説明したいと思います。