国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

近代短歌への道 北原白秋「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕べ」を考える。

近代短歌シリーズ、「連作として近代短歌をとらえる」ということですすめてきました。今日は、北原白秋の「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕べ」です。これでいったん短歌は終了の予定です。

 

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕べ の解釈は?

さて、この歌の解釈をどうすればいいでしょうか?古典の文法的なことさえわかってくれれば、「な~そ」で「~するな」ですから、「鳴くな、鳴くな」ということですね。そうすれば情景は浮かびます。

ここで問題としたいのは、この歌はこれまで説明してきた「アララギ」か「明星」かどっちか、ということ。

写生的、情景的な歌か、浪漫的、心情的な歌か、といってもいいでしょう。

もちろん、文学史の教科書引っ張り出せば、あるいはその知識を使えば、簡単なわけですが、本来は歌そのものから判断しないと鑑賞とはいえないですよね?

というわけで北原白秋は有名な方ですから、知っている人も、なんとなく想像できちゃう方も、いったん忘れて、歌から判断してみません?

あなたはどっち?

アララギ 写生の歌と考える

アララギの歌と考えるのは、これが情景であるからですね。

確かに「な鳴きそ鳴きそ」というのは、作者の心情かもしれないけれど、それ以外は情景じゃないか!という形。

夕日が落ちていく草原、そこにいる鳥…。そこに作者がいるとしても、それ以上に、何かのドラマは作れない。

たとえば、石川啄木の「我を愛する歌」だったら、旅をして悲しんでいる作者が考えられるし、与謝野晶子だったら、鉄幹と二人でいる恋の情景が浮かぶ…。

でも、これだけで、何かドラマがあるようには思えない。だから、写生なんじゃないのか…

こんなところでしょうか。

明星 浪漫の歌と考える

一方、浪漫の歌と考えるのは、「雰囲気」のような気がします。

確かに、情景だっていうのはわかる。でも、夕日が落ちていく草原、そこにいる鳥…鳴かないで鳥さん…って、なんかロマンチック風じゃない?ということでしょう。

情景かもしれない。でも、ロマンチックな感じが漂う。

「鳴かないで」って漢字を変えれば「泣かないで」でしょう?

もし、そうなら、だいぶロマンチックなドラマがありそう…。

さあ、みなさんはどうですか?

歌集「桐の花」を読んでみる。

というわけで、毎度おなじみ青空文庫です。

北原白秋 桐の花

読みましたか?

読みませんか?どうしましょう?

読まない前提で、引いてしまうと、ものすごく長く引用することになります。

わかることは次のこと。

  • まず、歌集『桐の花』は「桐の花とカステラ」と名付けられた長いエッセー、あるいは前書きから始まっている。
  • そこでは、自分が短歌で何を表現したいかが書かれている。
  • そのあとに「銀笛哀慕調」と名付けられた短歌の連作が始まる。
  • 「銀笛哀慕調」は「Ⅰ春」「Ⅱ夏」「Ⅲ秋」「Ⅳ冬」の四部構成になっていて、それぞれが番号のついた複数の短歌で構成されている。
  • その「Ⅰ春」の一番最初に、この短歌が配置されている。

こんなところです。見た感じ、このタイトル「銀笛」は「フルート」をさしていて、そして、この雰囲気をみれば、クラシック音楽のように、「第一楽章春」というようなイメージがうかびますね。こんな構成になっているんです。

 

「桐の花とカステラ」のメッセージ

ここまで、来たところで、だいぶ印象として、ロマンチックな雰囲気が出てきているわけですが、「桐の花とカステラ」がかなり前書き的な内容である以上、これを読んでみる必要がありそうです。

とても長いので、全部載せることはあきらめます。なので、最初のリンクから読んでくださいね。

桐の花とカステラの時季となつた。私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛フルートの哀音を思ひ出す。五月がきて東京の西洋料理店レストラントの階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉つぽく見えてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。私にはそのばさばさしてどこか手さはりの渋いカステラがかかる場合何より好ましく味はれるのである。粉つぽい新らしさ、タツチのフレツシユな印象、実際さはつて見ても懐かしいではないか。同じ黄色な菓子でも飴のやうにすべつこいのはぬめぬめした油絵や水で洗ひあげたやうな水彩画と同様に近代人の繊細な感覚に快い反応を起しうる事は到底不可能である。
 新様の仏蘭西芸術のなつかしさはその品の高い鋭敏な新らしいタツチの面白さにある。一寸触つても指に付いてくる六月の棕梠の花粉のやうに、月夜の温室の薄い硝子のなかに、絶えず淡緑の細花を顫はせてゐるキンギン草のやうに、うら若い女の肌の弾力のある軟味に冷々とにじみいづる夏の日の冷めたい汗のやうに、近代人の神経は痛いほど常に顫へて居らねばならぬ。私はそんな風に感じたいのである。

とはじまります。さっき「銀笛」を「フルート」 だと書きました。ここが根拠です。きっとフルートなんだろうな、と。桐の花、カステラ、フルート…彼が愛するものを通して、彼が愛しているイメージが伝わってきます。

さて、このあと、白秋は「短歌」について説明します。

短歌は一箇の小さい緑の古宝玉である、古い悲哀時代のセンチメントのエツキスである。古いけれども棄てがたい、その完成した美くしい形は東洋人の二千年来の悲哀のさまざまな追憶おもひでに依てたとへがたない悲しい光沢をつけられてゐる。その面には玉虫のやうな光やつつましい杏仁水のやうな匂乃至一絃琴や古い日本の笛のやうな素朴な Lied のリズムがうごいてゐる。なつかしいではないか、若いロセツチが生命の家のよろこびを古いソンネツトの形式に寄せたやうに私も奔放自由なシムフオニーの新曲に自己の全感覚を響かすあとから、寥しい一絃の古琴を新らしい悲しい指さきでこころもちよく爪弾したところで少しも差支へはない筈だ。市井の俗人すらその忙がしい銀行事務の折々には一鉢のシネラリヤの花になにとはなきデリケエトな目ざしを送ることもあるではないか。私はそんな風に短歌の匂に親しみたいのである。

このイメージをもって、短歌とは何か、どうあるべきかを述べていきます。

 

ここでいったんカットさせてもらって、核心にせまります。カットされたところにも、銀笛や小鳥が登場するので、惜しいんですけど、核心にせまります。

 単なる純情詩の時代は過ぎた。私らはシムプルな情緒そのものを素朴な古人のやうに詠歎することに最早や少からぬ不満足を感ずる。赤子の如く凡てをフレツシユに感ずる心はまた品の高い文明人の渋いアートに醇化されねばならぬ。私は涙を惜しむ。何らの修飾なく声あげて泣く人の悲哀より一木一草の感覚にも静かに涙さしぐむ品格のゆかしさが一段と懐しいではないか。実際、思ふままのこころを挙げてうちつけに掻き口説くよりも、私はじつと握りしめた指さきの微細な触感にやるせない片恋の思をしみじみと通はせたいのである。
 鳴かぬ小鳥のさびしさ……それは私の歌を作るときの唯一無二の気分である。私には鳴いてる小鳥のしらべよりもその小鳥をそそのかして鳴かしめるまでにいたる周囲のなんとなき空気の捉へがたい色やにほひがなつかしいのだ、さらにまだ鳴きいでぬ小鳥鳴きやんだ小鳥の幽かな月光と草木の陰影のなかに、ほのかな遠くの※(「木+解」、第3水準1-86-22)の花の甘い臭に刺戟されてじつと自分の悲哀を凝視めながら、細くて赤い嘴を顫してゐる気分が何に代へても哀ふかく感じられる。私は如何なるものにも風情ある空気の微動が欲しい。そのなかに桐の花の色もちらつかせ、カステラの手さはりも匂はせたいのである。

 いかがでしょう?もう、あの歌、そのまんまですね。

鳴かぬ小鳥、細くて赤い嘴をふるわしている気分、自分の悲哀、その鳥を鳴かせている雰囲気、それが彼の書きたいことだと書かれています。

だとすれば、これは情景ではありません。想像でイメージで、それこそ、比喩のようなもの…

おしゃれなイメージを紡いで、女の子を口説こうとしている、まさにああいう雰囲気が、この短歌全体なんですね。

この、文章のあとに、「銀笛哀慕調」の「Ⅰ春」の最初に、あの歌が置かれる。

この文章を読んだ人は、疑いなく、この文章のメッセージとイメージをもって、あの歌を読むわけです。

というわけで、どうも、女の人を口説こうとする、なんでもかんでもおしゃれにして、女の子を自分の方を向かせるあの感じ…ロマンチック型以外の何物でもないですよね?

こういう短歌を、独立して一首として鑑賞することにどれほどの意味があるのか…

これは、たとえば、みなさんの好きなアーティストの曲を1曲も聞かずに、「この歌詞いいよね」っていって、1フレーズしか提示しないことに等しいかもしれない。

そのアーティストの名曲の数々を知っていて当たり前の人にとっては、そのアーティストのイメージの上に、その歌詞を理解することができるかもしれないけれど、そうでない人にとっては、その歌詞をどう消化すればいいか悩んでしまうようなことに似ています。

西野カナ、とくれば、はいはい、ああいう人ね。

ドリカム、とくれば、はいはい、こういう感じ。

サザン、とくれば、こんなイメージ。

と知っている上で歌詞を解釈できるけど、もし、知らないとすれば、1フレーズでは困りますよね?

もしかしたら、国語の教科書も、最初はみんなが名曲だって知っている前提でできていたのかもしれない。少しでも多くのアーティストを紹介するためにカットしても、よかったのかもしれない。名曲だっていう共通認識があったなら。

でも、もはや、「誰?」ってなっている前提で、1フレーズというのは無理があるのかもしれない。短歌や詩の鑑賞のありようは変わる時期にきているのかもしれませんね。

 

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