読むだけで現代文を理解するシリーズは社会科学系のテーマに突入しています。今日は、平等になるといわれのない差別が起こるという、一見すると非常に奇妙な部分を説明します。
法学部系、社会科学系を受験するとなると、どうしてもこういうテーマから逃げるわけには行きませんね。特に現代は、EUやTPPのようなグローバリゼイション、自由貿易の動きと、トランプさんやイギリスのEU離脱のようなナショナリズム的、保護主義貿易の動きが同時に起こっているわけで、どうしてこんなことが起こるのだろう、という部分が理解できない人も多いのではないでしょうか。
法学部などの現代文はこうしたメカニズムを説明するようなものが出題されることがあるんですね。その時に、知っているかどうか、というのは、すごく重要なテーマになっていくわけです。
というわけで、やや難しいテーマですが、その解説です。
で、最初に断っておきたいんですけど、わかりやすく書くために、多少の誤解があったとしても、ばちんと言い切るような原理を説明しています。実際にはさまざまな要素があるわけですが、その原理の説明ということで、多少、不正確な部分が出ることは許してくださいね。
前回は、グローバルになるからこそ、多様性によって、伝統と根拠がゆらぎ、民族や歴史、そして言語という幻想的な根拠が必要になってナショナリズムが進む、という話でした。
今日は、平等になるといわれのない根拠が生まれてくる、という話です。
- 近代日本は、明治時代に身分制度を廃止する。そしてそれが差別を生む。
- 自由競争をしていくと、なぜ差別が容認されるのか?
- 「分配」することは、「自由」「平等」に反するのか?
- 環境問題は未来世代との契約になる…
近代日本は、明治時代に身分制度を廃止する。そしてそれが差別を生む。
「近代」という言葉を聞いたときに、いかに具体的なイメージができるかというのは、現代文を読むうえでとても大切なことです。15世紀、17世紀、20世紀などなど、ここに意味がない文章なんてあるわけがありません。
こういうものを意味のない記号のように読むのはダメです。イメージをしないと。日本でいえば、近代は、明治時代。あるいは高度成長期と書かれることもあるでしょう。ヨーロッパでいうと、ルネサンス以降と書かれたり、産業革命以降と書かれたりします。
すごくシンプルなイメージで言えば、物事が宗教から、科学に移っていく。そこには論理と理性があって、自由と平等が実現されていくわけですね。
街のイメージでいえば、都市が生まれ、そこに人があつまり、しがらみを離れて、自由な暮らしが始まる。それ以前で言えば、ムラの中で、しがらみがあって、身分制度があって、自由がない社会の中で、なんだか決められた人生を生きている、というようなことでしょうか。
日本の場合は、江戸時代から明治時代をイメージするとわかりやすい。
士農工商、えた・ひにん、というあれですね。それが、民権運動ができて、自由で平等な社会へと変わっていく…というのがなんとなく知っているイメージだと思うんですね。
だとすると、近代は、「差別」がなくなり、「自由」が実現するというように考えられるわけですが、実際はそうでない、というのが、難関大学への進学を考えるあなたには必要な知識なんですね。
さて、原理を説明していきましょう。
明治以前、明らかに身分制度が残っていました。現代では、「士農工商という身分制度はなかった」というようなことが言われていますし、また、身分間の移動ができた、なんていう話にもなってはいますが、少なくとも現代のような自由はなかったわけですし、「えた・ひにん」というひどい差別を受けていた人たちがいたことも事実です。そもそもそれが世襲になりますし。
好きな人と結婚する、というようなことも決して当たり前ではなかったわけですね。
ですから、明治になって、こうした身分制度がなくなっていき、皆に平等な権利を与えようという動きが起こってくるわけです。
これで、世の中は、自由で平等になりました。
…本当でしょうか。
たとえば、昨日まで、まったく教育を受けていない人たちがいます。自由に仕事につける、同じ教室に入れる、といったところで、どうでしょうか。
まして、財産を持っていない、伝統としての家業も持っていない、スキルも受け継いでいない…。
どうやって、自由に生きていけるでしょうか。
教室を想像しましょう。昨日まで、まったく教育を受けていない子どもが教室に、たとえば、小学校6年生に入ってきます。
成績はどうなるでしょうか。どんなところに進学するでしょうか。
昨日まで、家庭教師つけて、そして、今もお金があるから自由に家庭教育を行える生徒と対等に教育を受けていると言えるでしょうか。
さて、それでも、最初は、「理解」があるかもしれません。それはもちろん「差別が残っている」ということでもあるでしょう。しかし、そういう生徒が卒業して社会に出て親になって子どもが生まれてくるころはどうでしょうか。
すでに卒業目前となって、ようやく教育の権利を得て、そして社会に放り出されます。読み書きも自由にできず、そんな状況で職業が自由に選べ、そして豊かな生活を送ることは非常に難しいでしょう。その状況で子どもが生まれ、教育をしてあげたくても、なかなか思うようには行かず…場合によっては、子どもに働いてもらう、なんていうことも当たり前に起こるはずです。
こういう状況に置かれれば、人は、「環境」というものを考えざるをえません。しかし、最初はみんながその「環境」を知っている。言葉悪くいえば、「差別」の対象として、そりゃそうだよなぐらいに思っている。でも、徐々に、時間が経つにつれ、「平等な環境は与えられているのに、いつまで経ってもあいつらはできなくて、貧乏だ」というような感覚になっていく。
これが問題なんですね。
時間が経っていくと、「自由で平等な環境」があるような気がしている。でも、さかのぼってみれば、もともとの土地とか家柄とか、そうした身分制度のようなものから抜け出せない人たちがいっぱいいるわけです。
持っている人は、持っているものを最大限に使って、今の地位になったのに、「自由で平等な競争」を勝ち抜いたことになったわけです。もともと、何かが足りなかった人は、そのおかげでハンデがあるような状況なのに、「自由で平等な競争」を勝ち抜く能力や努力が足りない人とみなされていくわけです。
想像してみてください。あなたの家がなんらかの事情で、財産や環境を失い、高校や大学に通うどころではなくなる。働いたり、介護をしたり、そんなことに若くして追われる。当然、学校の勉強どころではなくなり、進学はできなくなる。そうした状況で、社会人としての生活が始まっていき、そして子どもが生まれる…。
もちろん、「それでも本人次第だ」という声にも一理はありますが、少なくとも「自由で平等な競争」に対しては、文句のひとつもいいたくないですか?百歩譲って、そこを抜け出せなかったのが、本人の努力であったとして(そうは思いませんが)、少なくともその子どもに環境が整っていないことは、その子どもの「自由で平等な競争」が保証されていないことになりませんか?
現代でも、貧困の問題や民族の問題は、こうした論理で正当化されているわけです。
日本の歴史を振り返ると、今のことがらは「部落差別」という形で現れました。自由で平等な競争が保証され、みんなが教育を受ける権利を持っているのに、部落出身者はいつまでも、成績が悪く、収入もステイタスも得られない。どうも、「人種」が違うんじゃないか…。部落出身者は、自由で平等にしても落ちこぼれるんだから、「もともとそういう人なのだ。そして、その人たちの子どもはきっとそういう子どもになるんだ」というような問題にすりかえられていくわけです。
部落差別にはもちろん、様々な形態があるでしょうが、この理屈によって、「血」の問題にされてしまう。幻想的な概念を作るに至るわけですね。
実際に自由で平等な競争がないにも関わらず、そうなった以上、変わらないのはもともとなんだ、という厄介な差別の領域に入っていくわけです。
実は、こうした危険性は、現代になっても何も変わっていない。現代文の分野では、「民族」というのは幻想の概念であることが鮮明になりつつ、その幻想的に作られた民族という分類で、差別を行っていくことになるわけです。
それは、場合によっては、国家という属性を民族のさしかえ、同じ国民の中でも「遺伝」とか「生まれつき」というような言葉で差別を生んでいくわけです。
自由競争をしていくと、なぜ差別が容認されるのか?
アメリカに目を向けてみましょう。アメリカという国は、もともとが移民ですから、そもそも、「本当の日本人」とか「日本民族」とかいうことができないわけで、そういう意味では本来差別から遠いところにあるべきだし、そういう根拠を作れないわけです。フランスだったら、「本当のフランス人(幻想ですけどね)」がいて、そこに移民が入ってくるわけだから、その概念が幻想であったとしても、なんとなくそういう概念が根拠になるのはわかるわけですね。
でも、アメリカの場合、みんな移民なんだから、みんな自由に平等で機会が与えられていくわけですね。
そうすると、まず、「平等に競争の機会を与えている国」ということが前提とされているわけです。そういう中で国が作られていくと、当然、富める者、貧しい者ができてくるわけですね。
でも、そういう中で当然、「自由で平等に競争の機会を与えている国」であることは疑いがないわけですから、その差は、どこかに原因として求められていくわけです。
富んでいる者は白人が多く、貧しい者には黒人が多い。そうなると、人種として白人の方が優れているのではないか、というような思想にもつながっていくわけです。
わかると思いますが、これは歴史的な経緯によるわけですね。最初から持っていた者と、何も持たずに使われた者。その前提を無視して、「自由に平等に競争している」ということになるから、なんだか「人種的な能力」に原因があるように、思い込まされているわけです。
これはスポーツなどにもあることで、もともと人種差別が先にあり、そのことによって、対等な機会が与えられていなかっただけで、その歴史が積み重なった結果、現在の状況があるのに、現代では表面上の差別は昔ほどではなくなっていますから、その原因が体質とか遺伝的な形質で、「〇〇には向かない」などというようにくくられているわけです。水泳などがそうですね。
日本の部落差別も、白人優位の思想も、現代で起こる貧困に関する議論も、たいていの場合、もともとの状況の積み重ねがあるはずなのに、現代の表面上の「機会均等」をもとに、すでに「そんな差別的状況はない」として、結果としてその人の「努力不足」「能力不足」というような指摘とともに、新たな差別の状況を生んでいくわけです。
「分配」することは、「自由」「平等」に反するのか?
さて、このように考えていくと、「平等」という考え方も結構大変な概念なんですね。たとえば、私たちには「自由」があるとします。(あるのが当たり前でしょ!と思うかもしれませんが、これを当たり前にするとどうなるかを考えたいのです。)
そうなると、当然、私たちには、「自由」に稼ぐ権利があるわけですね。「平等」にチャンスが与えられている中で、それを最大限に生かして、稼ぐも稼がないも「自由」なわけです。
ある意味で言えば、自分たちが自分の能力を使って財産を作っていくというのは、「権利」であるわけですね。というか、それを禁じられたとすれば、確かに不当な感じがしますよね。
しかし、これが完全な自由ということになっていくと、自分が自分の能力を使って稼いだ財産を、たとえば国に巻き上げられて、それを貧しい者に分配するというのは、「悪」ということになりませんか?
社会的に弱者がいて、それを救う…それが「平等」な社会なんじゃないの?と思うわけですが、でも、理屈だけで考えると、こういうことになるわけですね。
アメリカでは、ある意味でいうと、社会保障の制度が遅れています。(遅れる、というかいらないといってることになるんですけど)それも、簡単にいえば、自己責任ということですし、逆に言えば、分配することは自由の侵害と考えているということなんですね。オバマケアというのは、社会保障を整える方向の動きだったんですが、今は止める方向に行っていますね。
つまり、医療や介護も含めて、自分のことは自分ですべきであり、国という名のもとに、自由が侵害されるのはおかしい、ということでもあるんです。
ちなみにフォローしておくと、国が救う制度を持たないということは、自己責任で放り出された人を救う仕組みとして、ボランティアであるとか寄付とかっていう感覚はすごく進んでいます。個人が放り出され、それを国というどこかがなんとかしてくれるわけでない以上、放り出された個人に手をさしのべる土壌があります。日本なんかだと、偽善だの、自己満足だの、つまらない議論が始まるわけですが、誰かが救わない以上、目の前にいる人を救うのは当たり前になっていくわけです。
しかし、個人の財産を国に差し出して、なんとかしてもらうという感覚はない。
それが「平等」なんです。えっと思っても、そうなんですね。
で、実際に、いくらなんでもそれは…と思っても、実は私たちは同じような議論をいくらでもしています。
たとえば、生活保護の問題。「最低限」って何?って議論に始まり、そのお金でパチンコやってるだの、お酒を飲んでるだのがやり玉にあがります。貧困の問題をとりあげると、キャラクターのペンを持ってるだの、映画を観ただの、そんなことも批判の対象となる。
たとえば、年金の問題。払ったお金が戻ってこないなら、払わない方が得だ、あるいは払わないのも当たり前だ、というような議論。
たとえば、公的サービスの問題。税金を払っているんだから、それ相応の(相応かどうかがそもそも大きな問題なんですが)サービスを受けて当然だというような議論。
すべてのベースに、自分たちが払ったものは、損しないように戻ってくるべき、という前提があります。あるいは、援助はすべきだけど、まずは他人に頼る前に、自分でなんとかすべきなんだから、最低限にとどめましょうっていうような、できるだけ損したくない、自分のことは自分でやってくれ、という前提です。
年金問題だって、そもそも、「働けない人を働ける人が面倒見る」ということですから、働ければ働けるほど損をする、というのが社会保障の仕組みなんですね。
さて、こうやって考えて見ると、「分配」をどう考えるか、というのは、その前提となる「平等な競争」が本当にそうなのか、と考えるところで大きな差があることがわかります。
これは、国家の内部の話だけではなく、国際関係においてもある話です。先進国がすでに得た権利をもとに、常に有利な状況で経済が進んでいくわけです。環境問題などにしても、自分たちはすでに発展させた状況で、排出量を削減することを議論しつつ、途上国にはこれ以上、排出をさせない、というのがはたして平等なのかという問題もはらんでいるわけです。
しかし、すでに平等な競争の中で得た権利ですから、そこに正当性がある以上、現在の平等からすれば、一律に我慢すべきというのが、先進国の論理ですね。
環境問題は未来世代との契約になる…
こうした考え方を進めていくと、環境問題などは、解決すべき問題でさえなくなっていきます。
なぜならば、私たちは、私たちの自由の中で生活をしているからです。私たちが仮に、未来世代のために何かを我慢するとします。しかし、それは私たちの自由を侵食しているわけですね。でも、その自由のために、何かの問題を引き起こしているとするならば、当然それは、自由と平等の考え方の中で、制約が必要になるわけです。
しかし、問題となるのは、それが未来世代であるということ。たとえば、今、私が暮らしている中で、何かの環境問題を私自身が原因と特定できる形で引き起こし、その結果、特定の誰かが不利益を被ったとするなら、私は補償する義務を負います。それが自由と平等の世の中です。
しかし、未来世代であるとするなら、それは取引になるのか?百歩譲って、未来世代に環境問題が重くのしかかったとしても、その未来世代は私たちに何かを返してくれるのか。つまり、契約という言い方を変えて、同意という言葉に代えたとするなら、いつどこで、未来世代と同意する場が作れるのか。
そして、そもそも、因果関係は明確でないこと。地球の資源が有限であるとして、なぜ、私たちは未来世代のためにそれを残さないといけないのか。あるいは残す義務があるとして、どの程度、どの世代まで残す義務があるのか。
個人の自由と平等を考えると、そもそもその答えは存在しないわけです。だからこそ、リベラルをとことんつきつめると、環境問題などと言うのは、利己主義の中でのみ解決できる問題にすりかえられていくことになります。
こうした文章は、東大をはじめとして、慶応あたりでも出題されています。しかし、両方とも、その前提を疑うことが求められていると私は思います。
この論理は、全て、人間は個人であり、個人には自由があり、少なくとも現在において平等な機会が与えられている、というところから始まるわけです。
しかし、実際には、この状況に行き着くまでに、そもそもの環境の差があり、その環境は歴史的に築かれたものであり、他者や社会の中で自己が存在しているという考え方が欠如しているわけです。
さきほどの未来世代との契約という点を考えたとき、決定的に欠けているのは、未来世代は私たちに何かを返しはしないけれど、私たちは過去の世代に何かを返したのか、ということです。それは過去の世代が意図的に私たちに何かを残したのではないかもしれないけれど、それでも過去の世代の積み上げた歴史の上に私たちはいて、だとすれば、私たちはどこにそれを返すのか、という話なんですね。
これは、国家内の弱者についても、南北問題のような途上国に対する援助の話についても同じ事がいえるわけです。
これが「分配」の議論です。
もちろん、行き過ぎてしまえば、社会主義、共産主義のような形になり、それがいけないというわけでないにしても、歴史を見る限り、自己責任が消えていくことの問題点は確かにでてくるわけですが、だからといって、個人と自由が全ての前提になることもやはり問題のような気が私にはします。
というか、東大にしても、慶応にしても、このあたりの問題意識はしっかり持っています。今日の話の前半の「平等が差別を生む」というのは早稲田の法学部が好きなテーマですね。このあたりは、また大学別のところで詳しく書きたいですが、東大の現代文は、「他者が自己を作り、自己が他者を作る」ということを手をかえ品をかえ書かれているということだと思っています。だから、環境問題で未来世代との契約ができないでしょ!という文章を読ませても、設問は批判的視点を要求している。
だから、トップの大学を受けるなら、この感覚、こうした「個人」の「自由」と「平等」を自明の論理として、他者との関係を付録のように扱うことに対する批判を持つことが重要なんですね。