今回は、古典文法の続編です。助動詞の細かい用法や間違いやすいところなどをチェックしていきましょう。
コロナ禍の中、ここのところ、「国語の真似び」は、Youtube動画を作ることに注力しておりました。よくいえば、基本的な説明がおおかた終わり、これからは実践的な授業のブログ、動画を作る段階に入ってきたな、ということではありますし、今後も古典の授業や古典単語の説明、文学史などを動画にして、補強していく計画です。
とはいえ、入試がせまってくると、説明していなかった助動詞の細かい部分も気になってくることだろうと思います。
というわけで、今回は古典文法の助動詞の2周目をやっていこうと思います。
基本編はこちら。
というわけで、上にある、使える助動詞の理解「細かく理解する」よりもさらに細かく展開していきます。
「細かい」とはいいますが、これまでのセンター試験、MARCHレベルあたりでは、このあたりまで十分出題されてきた、というレベルです。落としたら不合格なのかは、人によると思いますが、センター試験で出題されてきた、ということは、今後の共通テストでも十分、必要なレベルだと思います。
- 断定の助動詞「なり」の連用形
- 「す・さす」の復習~受身の用法
- 「る・らる」の補足説明と敬語
- 過去の助動詞「き」「けり」のポイント
- 完了の助動詞「ぬ」に、形容詞や「ず」はどうやってつく?
- 現在推量「らむ」と過去推量「けむ」の試験に出るポイント
- 「ているだろう」と訳すふたつの形
- 「まし」は反実仮想だけじゃない!知っておくポイント
基本的には、意味の箱を思い出していきましょう。
助動詞の意味の箱の順番に補足説明が必要な部分を書いていきますので、そもそも意味の箱がイメージできない人は、まずそこを復習してください。
断定の助動詞「なり」の連用形
最初は、断定の助動詞「なり」です。
語源的に「に」「あり」がつまって、「なり」になったということを説明しました。
したがって、疑問文や強調文になったときに、戻ろうとする癖がある。
たとえば、
「花なり」は、
疑問文 花にやあらむ。
とか
強調文 花にぞある。 花にこそあれ。
なんていう風になるわけです。
もともとが「なり」で断定ですから、あとは「係助詞+「あり」」という風に説明できるわけですが、この「に」を断定の助動詞「なり」としないと、突然断定の助動詞が消えてしまうような印象になります。
したがって、この「に」は「なり」の連用形になるわけです。連用形だっていうのは、そのあと「あり」にかかるからですね。「に」「あり」ですから、連用形。
「たり」の場合は、「と」「あり」ということになります。
さて、この説明、大事な説明なんですが、実はこういう説明であるがゆえに、「~にや」とかなったときに、必ず断定の助動詞「なり」とは言えないんです。
たとえば、
「学校にや。」
という例文を考えてみましょう。
省略されている語句が何かということでもあるんですが、それは質問によるんですね。
たとえば、「あなたが勉強しているのはどこか」と言われれば、
「学校にぞ。」の後に省略されているのは、「ある」で、「に」は断定の助動詞です。つなげると、「学校なり」で、答えは「学校だ」ですから。
しかし、「あなたの教科書はどこにありますか」と言われれば、
同じように「学校にぞある」と答えても、それは「学校」「に」「ある」とつながらないことがわかります。こうなるのなら、この「に」は格助詞の「に」。
もっと言えば、そもそも「あなたはどこに行きますか」という質問なら、
「学校にぞ。」の後に省略されるのは、「行かむ」ですから、格助詞の「に」であることがはっきりしますね。
「に」の識別で考えるとここにさらに「形容動詞」や完了「ぬ」が入ってきますから、そのあたりまで含めて考える必要があるんです。
「す・さす」の復習~受身の用法
つづいて、現代語グループに移って、「す・さす」です。
これらは、使役と尊敬。
単独の「す」は必ず使役。
尊敬となるのは「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」のみ、ですね。
この後者の逆は「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」は「二重尊敬」と「使役+尊敬」の場合がある、ということです。ここ、まずは基本ですので間違いのないように。
要するに、帝なんかだと、おそれおおすぎて、直接聞けない。つまり、帝が側近に話して、その側近から帝の言葉を聞く…なんていうイメージをするとよくわかります。
だから、正直言うと、使役+尊敬か二重尊敬かが明確に説明できないケースもあるんですね。
まず、これをもう一度頭の中にいれておきましょう。
実はこれ以外に出て来る用法が「受身」です。主に、軍記物なので出て来るんですが、「射させ」なんていうのが「射られ」とならないと通じない時があるんですね。
これは、殺される方が、矢を射る側に「射させた」ととることもできなくはないんですが、別にわざと殺されようとしているわけでもないし、訳すとなれば、「射られる」とやるしかない部分ですね。
「る・らる」の補足説明と敬語
さて、それでは先ほどの二重尊敬の話を頭の中に入れながら、もう一度、「る・らる」の意味判別を整理しましょう。
「る」「らる」は、受身、尊敬、可能、自発の4つの意味を持ちます。基本は「れる・られる」で訳出すること、です。
つまり、「食べられる」といっても、
- シマウマがライオンに食べられる。
- 帝がご飯を食べられる。
- 彼はラーメン十杯食べられる。
など、前後の文脈で変わる以上、簡単な見分けはなく、「文脈」が重要だっていうことになるわけです。
とはいえ、受験的にはもう少し手掛かりがあるんですね。
これも説明済みですが、
- 可能…平安時代では、下に打消しの言葉をともなう=例外あり
- 自発…思ふ・泣く・嘆く・見る、などの言葉にしかつかない
- 尊敬・受身…二重尊敬は「せ給ふ・させ給ふ・しめ給ふ」のみ。したがって、「れ給ふ・られ給ふ」は尊敬にならない=たいていは受身。
こんな感じです。
では、二周目の部分。
「思し召さる」「思ひ出でらる」の解釈はどうなるでしょうか?
これらについては、ざっくりとふたつの解釈が可能になります。
思う・思い出す+自発=自然とお思いになる・自然と思い出す
思う・思い出す+尊敬=お思いになる・思い出しなさる
実際に、これらの用例をどう解釈しているのかチェックしたのですが、両方の解釈をとりうる、と理解するのが一番無難なようです。
中には、
「直上のものに合わせて解釈する。上が尊敬の場合は尊敬、上に尊敬がない場合は自発」と説明しているものもありました。
この場合、
思し召さる=「る」の直上が、尊敬。したがって、尊敬。
思ひ出でらる=直上に尊敬がない。したがって、自発。
という解釈になります。
ただ、個人的には果たして、これでいいのかどうか…。まず、尊敬ととるか自発ととるかは、主体が偉い人、身分の高い人、他で敬語が使われているか、という解釈が必要ですから、まず、後者の例「思ひ出でらる」において、偉い人が主語であるなら尊敬ととる方が無難だと思います。他に尊敬語がないわけだから。
一方、前者「思し召さる」の場合、すでに「思し召す」と尊敬語があるわけですから、これはどちらでもとれると思います。個人的にはすでに二重尊敬をつかっている上に尊敬の「る」を足すのか…というところに疑問を感じますから、ここは自発でいいような気がするのですが、源氏物語や竹取物語の用例が使われて尊敬でとっている説明は多く見ます。
要するに、両方の解釈が成り立つということだと思うのですが、あくまでも私としては、一番しっくりくるのは、「平安時代までは自発、中世以降には尊敬の例も出て来る」というようなものです。
私としては、両方とも自発ととるべきではないかと思っています。どうなんでしょう?
過去の助動詞「き」「けり」のポイント
過去の助動詞の「き」「けり」については一度説明しました。
要は
- き…直接経験。回想シーンに使われる。
- けり…見ていないこと、経験していないこと、人から聞いたことなどに使われる。
ということです。
大鏡の道真の左遷のシーンでは、
この大臣、子どもあまたおはせしに、女君達は婿とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位どもおはせしを、それも皆方々に流されたまひてかなしきに、幼くおはしける男君・女君達慕ひ泣きておはしければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせたまひしぞかし。
と、まずは直接経験の「き」が使われます。これは、語り手にとって、自分が経験したことだからですね。しかし、このあと、大宰府に左遷されると、
筑紫におはします所の御門かためておはします。大弐の居所は遥かなれども、楼の上の瓦などの、心にもあらず御覧じやられけるに、またいと近く観音寺といふ寺のありければ、鐘の声を聞こし召して、作らしめたまへる詩ぞかし、
都府楼ハ纔ニ瓦ノ色ヲ看ル
観音寺ハ只鐘ノ声ヲ聴ク
これは、文集の、白居易の遺愛寺ノ鐘ハ欹テテ枕ヲ聴キ、香炉峯ノ雪ハ撥ゲテ簾ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめたまへりとこそ、昔の博士ども申しけれ。
突然「けり」に変わります。これは、語り手は京にいる以上、筑紫の出来事は伝聞であるということが根拠でしょう。
さらに次のように続きます。
また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京におはしましし時、九月の今宵、内裏にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせたまひける詩を、帝かしこく感じたまひて、御衣たまはりたまへりしを、筑紫に持て下らしめたまへりければ、御覧ずるに、いとどその折思し召し出でて、作らしめたまひける、
去年ノ今夜ハ清涼ニ侍リキ
秋思ノ詩篇ニ独リ腸ヲ断チキ
恩賜ノ御衣ハ今此ニ在リ
捧ゲ持チテ毎日余香ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申されき。
ここでは、「き・し」と「けり」の両方がありますね。
スタート、筑紫とあるところでは「けり」
直後、京と来たところで「き・し」です。
という風に考えると、最初の九月は筑紫に流された後、菊を見たとき。
そして、そこで、彼は京にいたときの九月を思い出す、ということです。今日での出来事は語り手からは確信があるので「き・し」です。
宴で、歌を詠んで、帝から御衣をもらった過去を、筑紫で思い出す。
だから、最初の「御覧じけるついでに」は、ずっととんで、「~をご覧ずれば」とつながっていくわけですね。
最後の人々は「き」ですから、京にいる、つまり、語り手の近くにいる人がほめたことになりますね。
絶対、経験しているはずなのに、「けり」の時は?
このように、「き」と「けり」は、かなり厳格に使い分けられていることがわかります。
しかし、まれに、「絶対、この人が経験していることのはずなのに、確信があるはずなのに『けり』を使っている」という場合があります。
こういう場合は、どう理解すればいいでしょうか。
こういう時には「詠嘆」と解釈してしまうのが楽ですね。はじめて気づいた驚きや詠嘆、まあ、要するに、語り手や作者の感想というか、思いというか、そんなものが入った場所だとみるとよいです。
もちろん、原則としては過去のことがらに関するものですから、「だったなあ」なんて言う風になるわけで、過去でも通じることが多いんですが。
完了の助動詞「ぬ」に、形容詞や「ず」はどうやってつく?
続いて、完了の助動詞の「ぬ」です。
この完了の助動詞「ぬ」は連用形接続ですよね?
では、形容詞や打消しの助動詞「ず」にはどうやってつくでしょうか?
正解は、
「美しかりぬ」
「咲かざりぬ」
です。
「うつくし」の連用形は、確かに「美しく」ですが、「美しく」「ぬ」とは言いませんね?
「咲かず」とした上で、連用形は確かに「咲かず」ですが、「咲かず」「ぬ」とは、やはり言いませんね?
それぞれ、
「美しく」「あり」「ぬ」=「美しかり」「ぬ」
「咲かず」「あり」「ぬ」=「咲か」「ざり」「ぬ」
と、くっつけるために、「あり」を借りてくるわけです。
形容詞では「カリ活用」、「ず」では「ザリ活用」なんていうこともあると思います。
これらは、「ぬ」だけでなく、「む」も「べし」も「き」も「けり」も、「たり」も、あるいは終助詞の「ばや」とか「なむ」とかもみんな一緒なんですね。
では、ここで問題。
「咲かずなむ」
は、何と訳しますか?
そうですね。「なむ」の識別の問題です。
- 花咲かなむ=未然形+なむ=他者願望=咲いてほしい
- 花咲きなむ=連用形+なむ=強意+推量=咲いてしまうだろう・きっと咲くだろう
- 花なむ咲く=種々の語=係助詞=花が咲く
- 花の下にて死なむ=ナ変動詞+む=死のう・死ぬだろう
こんなのが「なむ」の識別です。
ですから、「なむ」の上の活用形をしらべたくなります。
上は「ず」ですから、未然・連用・終止に「ず」の可能性があります。
「そうか。この段階で1か2だな」
というのが間違いです。
完了の助動詞の「ぬ」にせよ、終助詞の「なむ」にせよ、「ず」がつくなら、「咲かざり」「ぬ」ですね。「咲かずぬ」とは言わない。
つまり、この段階でむしろ、1と2が×なんです。
4の可能性はないから、3、つまり係助詞。
省略されているのが、「ある」です。
「咲かず」「なむ」「ある」
となります。「なむ」をとると、「咲かずある」ですから、「ず」は連用形。
訳は「咲かずにいる」というところでしょうか。
意外と間違う人が多いところで、また、意外と入試問題で見るパターンなので気をつけておきましょう。
現在推量「らむ」と過去推量「けむ」の試験に出るポイント
未来形に入ってきました。
「らむ」と「けむ」は、現在と過去、ですね。
WILL系の助動詞と考えると、
- 一人称が主語=~よう、~つもり=意志
- 三人称が主語=~だろう=推量
- 連体形(~こと、~とき)=~ような=婉曲
というのが、基本の訳で、ここに二人称=あなた、が加わる感じです。特に「らむ」は、現在意志、現在推量、現在婉曲というように訳せます。「けむ」は過去意志というのは現実ありえないと思いますが。
さて、ここに加える必要があるのが、原因推量です。
これは、一度説明していますが、「見ているのに現在推量している」という感じの時に使いたい。
たとえば、
久方の光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ
を、「散っているだろう」と訳すと、「花を見ていない」ようになってしまいます。でも、桜の歌を花を見ないで作ってはいないだろうと考えると、「見ている」けれど「推量」ということになります。
こんなときに、原因推量という感じにするんですね。「どうして散るのだろうか」というように訳すわけですね。
「いかにして」とか、そういう言葉が入ったとしても、原因推量としてとります。こういう言葉が前についてしまうと、「らむ」そのものは「ているだろう」で通じてしまうので、つい「現在推量」としてしまいたくなりますが、「~ば」、つまり「~ので」が前にあるときや、こういう疑問の言葉が入ったときなども「原因推量」でとってしまうほうが無難だと思います。
また、枕草子で出て来る「罪や得らむ」(説経の講師は顔よき、という中のフレーズです。)のように、ただの「推量」となるケースもあります。
「ているだろう」と訳すふたつの形
さて、今、現在推量をやりました。
「ているだろう」と訳すパターンですね。
もうひとつ「ているだろう」と訳すのが、存続の助動詞に「む」をつけるパターンです。
- 咲くらむ=咲く+らむ
- 咲きたらむ=咲く+たり+む
- 咲きたるべし=咲く+たり+べし
- 咲けらむ=咲く+り+む
- 咲けるべし=咲く+り+べし
赤で色をつけましたが、最初と最後から二番目が同じ「らむ」になります。訳も同じ。しかし、品詞分解すると成り立ちが違うことがわかりますね。
「らむ」は終止形接続ですから、違和感があれば、存続の「り」のパターンを思い出してください。
「まし」は反実仮想だけじゃない!知っておくポイント
さて、最後は「まし」です。
「まし」は反実仮想と言われますが、「反実」とあるように、
- ~せば~まし
- ~ましかば~まし
- ~ば~まし
というような、「もし~だったら」という、事実に反する部分がほしいわけです。そのときに、文末は「~まし=だろう」となるわけで、これが反実仮想です。
だから、端的に言えば、この前の部分がないときに、果たして反実仮想といえるのか?いえないよね?という問題が起きるわけですね。
その例が
- 行かまし
- 咲かまし
- 咲かまし
となるわけです。
まず、1例目ですが、主語が一人称、自分となった場合、そもそも「だろう」と訳すことができませんね。「~よう」「~つもり」と訳したいわけです。
そうなると、意志、「行こう」となるわけですが、「まし」には実現の不可能性がありますから、「行こうかしら」というようにためらいのニュアンスが入ります。
実際には、疑問文になるケースが多く、「我や行かまし」というように、より「行こうかなあ…」というのがわかりやすくなります。
これが「ためらいの意志」ですね。
続いて2と3です。前に「もし今が春なら」などというように、「~ば」にあたるものがあれば、反実仮想でいいんですが、それがないとすると、実現の不可能性が入って、「今、咲くわけはないけど、咲くだろう」的な感じになるわけです。
ちょっと変。
つまり、「(咲くわけはないけど)咲いたらいいなあ」という感じ。
これが、「実現不可能な願望」です。
そして最後の3は、「いや、そうじゃなくてこれは、『咲くだろう』って感じに訳さないと変だぞ」というとき。つまり、咲かないと思っているなら、2、実現不可能な願望ですが、「咲くだろう」と思っているとすると、2では訳せません。
これも、前に、「もし~だったら」に当たる部分を見つけたり、あるいはそういう文脈だと自信があれば、反実仮想に戻れるんですけど、それがみつからないけど、「咲くだろう」と思っているということになると、これはただの「推量」です。
ひっかけみたいですけど、中世以降に出てくる用法で、これ、立教で問題になっていました。やっかいなのは、間違い選択肢に「反実仮想」とか「意志」とか入っているんですよね。
面倒。
立教は、過去にも「らむ」の「原因推量」を「現在推量」選択肢に入れながら出題したりするんで、注意が必要な大学です。
というわけで、古典文法助動詞の細かい説明でした。
次は、助詞の問題になりそうなポイントを説明したいと思います。