国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

おもしろい古文の世界~昔話って古文のこと。本当の昔話の話その1 こぶとりじいさん

古文常識シリーズは少々脱線して、日本の昔話のお話です。

「おもしろい古文の話」は古文常識シリーズです。今日はみなさんがよく知っている昔話の話です。

ここまで、基本的な話から始まって、

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現在は、徐々に古文のお話を通じて、古文常識を知るシリーズに入っております。

前回は夢の話。

 

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で、今回は昔話です。

 

昔話って古典ですよね?

古典といって、なぜ難しくなってしまうかというと、「古典=名作=難しい」というような感じではないでしょうか。

しかし、考えてみれば、私たちが知っている昔話というのは、まさに「古典」であって、むずかしいどころか、子どもが読むような、とても簡単でおもしろいものです。そう考えてみれば、古典を読まない理由が、「古典なんて、子ども向けだよね?簡単すぎておもしろくない」ならいいんですけど、「古典て難しいよね」では、とても悲しい気がします。

中学校とか高校とかでおそらく出会っているのが、「竹取物語」ですよね?もちろん、これは「かぐや姫」です。

これって、「源氏物語」以前の物語で、もちろん、中国の影響というのがとても大きいでしょうから、どう評価するかって問題はありますけど、すごいことですよね。

だって、源氏物語以前というのは、

  • 作り物語=竹取、宇津保、落窪
  • 歌物語=大和、伊勢、平中

ですね。これ以外は、本当はあったかもしれないけれど、少なくとも今は読めない。伝わっていない。

その一角が、昔話の「竹取物語」なんです。しかも、宇津保物語についていえば、前半の、俊陰が唐に琴の秘曲を授かりに行き、中盤、その俊陰の娘とその子が、木のうつほで暮らして、その後は、「あて宮」という女性を、この子含めてみんなでとりあう…そして、あて宮は帝と結婚する…ってこれ、竹取と同じじゃん!ということになるわけです。

だから、実は昔話って馬鹿にできない、まさに「古典」なんですね。

次の時代に入ると、「宇治拾遺物語」などの説話集に、こうした昔話がいっぱい入ってきます。芥川龍之介の物語の原点が、このあたりにたくさん見ることができるように、実は知っている物語が多い。今日紹介する「こぶとりじいさん」もここ。

江戸時代に入っていくと、何と言っても「御伽草子」です。一寸法師、浦島太郎、ものぐさ太郎、鉢かづきなど…広い意味では、こうした話全体を呼ぶようになります。いわゆる「おとぎ話」ということですね。

だから、昔話といえば、まさに古典であるわけです。

というわけで、今日は「こぶとりじいさん」「鬼に瘤取らるること」をやってみたいと思います。

 

こぶとりじいさん~鬼に瘤取らるること

これは宇治拾遺物語に入っているものです。大きな筋は、本当に私たちが知っている通りですので、そんなに矛盾のあることではありません。

 これも昔、右の顔に大なる瘤ある翁ありけり。大柑子の程なり。人に交るに及ばねば、薪をとりて世を過ぐる程に、山ヘ行きぬ。雨風はしたなくて、帰るに及ばで、山の中に心にもあらずとまりぬ。また木こりもなかりけり。恐ろしさすべき方なし。木のうつほのありけるにはひ入りて、目も合はず屈まり居たる程に、遥より人の音多くして、とどめき来る音す。いかにも山の中にただ一人居たるに、人のけはひのしければ、少しいき出づる心地して、見出しければ、大方やうやうさまざまなる者ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌にかき、大方目一つある者あり、口なき者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども、百人ばかりひしめき集りて、火を天の目のごとくにともして、我が居たるうつほ木の前に居まはりぬ。大方いとど物覚えず。
 宗あると見ゆる鬼横座に居たり。うらうヘに二ならびに居並みたる鬼、数を知らず。その姿おのおの言ひ尽し難し。酒参らせ、遊ぶ有様、この世の人のする定なり。たびたび土器始りて、宗との鬼殊の外に酔ひたる様なり。末より若き鬼一人立ちて、折敷をかざして、何といふにか、くどきくせせる事をいひて、横座の鬼の前に練り出でてくどくめり。横座の鬼盃を左の手に持ちて、笑みこだれたるさま、ただこの世の人のごとし。舞うて入りぬ。次第に下より舞ふ。悪しく、よく舞ふもあり。あさましと見る程に、横座に居たる鬼のいふやう、「今宵の御遊こそいつにもすぐれたれ。
ただし、さも珍しからん奏を見ばや」などいふに、この翁物の憑きたりけるにや、また然るべく神仏の思はせ給ひけるにや、あはれ走り出でて舞はばやと思ふを、一度は思ひ返しつ。それに何となく、鬼どもがうち揚げたる拍子のよげに聞えければ、さもあれ、ただ走り出でて舞ひてん、死なばさてありなんと思ひとりて、木のうつほより、鳥帽子は鼻に垂れかけたる翁の、腰に斧といふ木伐る物さして、横座の鬼の居たる前に躍り出でたり。この鬼ども躍りあがりて、「こは何ぞ」と騒ぎ合へり。翁伸びあがり、屈まりて、舞ふべき限り、すぢりもぢり、ゑい声を出して、一庭を走りまはり舞ふ。横座の鬼より始めて、集り居たる鬼どもあさみ興ず。
 横座の鬼の曰く、「多くの年比この遊をしつれども、いまだかかる者にこそあはざりつれ。今よりこの翁、かやうの御遊に必ず参れ」といふ。翁申すやう、「沙次に及び候はず、参り候べし。この度にはかにて、納の手も忘れ候ひにたり。かやうに御覧にかなひ候はば、静かにつかうまつり候はん」といふ。横座の鬼、「いみじく申したり。必ず参るべきなり」といふ。奥の座の三番に居たる鬼、「この翁はかくは申し候ヘども、参らぬ事も候はんずらんと覚え侯に、質をや取らるべく候らん」といふ。横座の鬼、「然るべし、然るべし」といひて、「何をか取るべき」と、おのおの言ひ沙汰するに、横座の鬼のいふやう、「かの翁が面にある瘤をや取るべき。瘤は福の物なれば、それをや惜み思ふらん」といふに、翁がいふやう、「ただ目鼻をば召すとも、この瘤は許し給ひ候はん。年比持ちて候物を、故なく召されん、すぢなき事に候ひなん」といへば、横座の鬼、「かう惜み申すものなり。ただそれを取るべし」といヘば、鬼寄りて、「さは取るぞ」とてねぢて引くに、大方痛き事なし。
さて、「必ずこの度の御遊に参るべし」とて、暁に鳥など鳴きぬれば、鬼ども帰りぬ。翁顔を探るに、年比ありし瘤跡なく、かいのごひたるやうにつやつやなかりければ、木こらん事も忘れて、家に帰りぬ。妻の姥、「こはいかなりつる事ぞ」と問へば、しかじかと語る。「あさましき事や」といふ。
 隣にある翁、左の顔に大なる瘤ありけるが、この翁、瘤の失せたるを見て、「こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ。いづこなる医師の取り申したるぞ。我に伝ヘ給ヘ。この瘤取らん」といひければ、「これは医師の取りたるにもあらず。しかじかの事ありて、鬼の取りたるなり」といひければ、「我その定にして取らん」とて、事の次第をこまかに問ひければ、教ヘつ。この翁いふままにして、その木のうつほに入りて待ちければ、まことに聞くやうにして、鬼ども出で来たり。居まはりて、酒飲み遊びて、「いづら翁は参りたるか」といひければ、この翁恐ろしと思ひながら、揺ぎ出でたれば、鬼ども、「ここに翁参りて候」と申せば、横座の鬼、「こち参れ、とく舞へ」といへば、さきの翁よりは天骨もなく、おろおろ奏でたりければ、横座の鬼、「この度はわろく舞うたり。かへすがヘすわろし。その取りたりし質の瘤返し賜べ」といひければ、末つなより鬼出で来て、「質の瘤返し賜ぶぞ」とて、今片方の顔に投げつけたりければ、うらうへに瘤つきたる翁にこそなりたりけれ。物羨みはせまじき事なりとか。

この教材は、中学生相手にやっていました。話がわかっているので、なんとなく読めてしまうし、中学生ぐらいのときは、音読して古文的な言い回しを沁み込ませていく方が大事だからです。

なので、ざっと読んでみてください。意外とわかりますから。

第一段落は、翁が鬼と出会うまでですね。「右の顔に大なる瘤ある翁ありけり」とはじまります。で、その大きさは「大柑子」、大きなみかんぐらいと書かれています。

で、この人が山で雨の中、しょうがないので、「木のうつほ」に入るわけです。そうするとたくさんの人がやってくる音がして、見てみると、それが鬼だった、いつの間にか鬼に囲まれていたわけですね。

第二段落では、鬼の宴会の様子が描かれます。とにかくたくさん鬼がいますが、宴会の様子は「この世の人のごとし」ですね。で、この宴会の拍子につられて、このおじいさんが飛び出してしまう。むしろ、おどろいたのは鬼の方という感じ。

第三段落、喜んだ鬼は、「こういう遊びのときには必ず参れ」というわけです。といっても来ないかもしれないから、「質」をとろうということになる。ここで、おじいさんが、「この瘤は許し給ひ候はん」ということによって、むしろ瘤こそを質に取ろうということになるわけです。

第四段落は、隣の翁が同じように左に大きな瘤をもっていて、瘤がなくなったのを見て、事情を聞いて真似をします。

第五段落、同じようにしたものの、踊りがうまくなく、鬼はもう来なくてよいと質であった瘤を返してしまいます。両方に瘤がついてしまう。

こんな感じで、お話は終わり。

ぜひ、ちゃんと読んでみてくださいね。

 

教訓の近代性~いいおじいさんと意地悪なおじいさん

さて、読んでみて決定的に気付くことがありますよね?

それは、おじいさん二人の違いがあいまいであるということです。これは気付いてもらえたかな?

私たちが知っている昔話の典型は、「いいおじいさん」と「悪いおじいさん」ですよね。やさしくて、人のいいおじいさんと、意地悪で悪いことを平気でする、強欲なおじいさん。この二人がなぜか隣に住んでいるわけです。

で、因果応報というか、最後にやさしい、いいおじいさんが報われ、悪い、意地悪なおじいさんは罰を受ける結末になるわけですね。

ところがその設定がない。

これも昔、右の顔に大なる瘤ある翁ありけり。大柑子の程なり。人に交るに及ばねば、薪をとりて世を過ぐる程に、山ヘ行きぬ。

 これがいわゆる、いいおじいさんについての描写。むしろ、「人に交るに及ばねば」と、人づきあいがなかったようにも読めます。

隣にある翁、左の顔に大なる瘤ありけるが、この翁、瘤の失せたるを見て、「こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ。いづこなる医師の取り申したるぞ。我に伝ヘ給ヘ。この瘤取らん」といひければ、「これは医師の取りたるにもあらず。しかじかの事ありて、鬼の取りたるなり」といひければ、「我その定にして取らん」とて、事の次第をこまかに問ひければ、教ヘつ。

こちらが、悪いおじいさんの方。隣に住んでいて、左に瘤がある以外は、台詞のみ。これがすべてです。

ところが私たちの知っている「こぶとりじいさん」には、いいとか悪いとかがある。その報いが結局出て来る。さっきも書きましたが、因果応報です。

これが教訓になっている。

そういうのが、近代ということかもしれません。

そうなんです。昔話の結末って教訓になっていて、それはどの話でも「日頃の行い」になるわけです。それが合理的かどうかはわかりませんが、合理的な因果性なんですね。

今回の場合、教訓は何か?

昔、鴻上さんのお芝居を見にいったときにこのネタ使って「ダンスレッスンは欠かさずに!」ってやってたような記憶があるんですけど、まあ、読めなくはないですよね。前のおじいさんはダンスがうまくて瘤がなくなり、後のおじいさんはダンスが下手で瘤がつけられちゃうわけですから。

でも、この文章の場合は、

「物羨みはせまじき事なりとか。」

で終わります。言われてみれば、後のおじいさんの、

この翁、瘤の失せたるを見て、「こはいかにして瘤は失せ給ひたるぞ。いづこなる医師の取り申したるぞ。我に伝ヘ給ヘ。この瘤取らん」といひければ、「これは医師の取りたるにもあらず。しかじかの事ありて、鬼の取りたるなり」といひければ、「我その定にして取らん」とて、

で始まるわけですから、「人をうらやましがるとろくなことにはならないよ」という教訓もわからなくはないですね。

ただ、じゃあ、人をうらやましいと思うことはそんなにいけないことで、それを諌めるためにこの文章はあるのか、と言われれば、そういうわけでもないでしょう。

私はある種の、非合理性がむしろ「物語」たるゆえんではないかと思っています。世の中には合理的でないことがたくさんあるわけです。

むしろ、その方が普通。

合理的であることはいいかもしれないけれど、そうでない理不尽さが人生にはあって、だからこそ、物語の世界は、そうした理不尽さを提示することで、ぼくらにそんなことを教えてくれているような気がします。

考えてみると、近代を生きるぼくらは、合理的な結末を求めているわけですよね。だから、そうでないことがつらい。ただ辛いだけでなく、納得のできないつらさをそこに重ねてしまうんですね。

 

アニメ化したときのおおいなる矛盾~だからといって非合理的?

さて、この昔話シリーズでは、「映像化」をしていきながら、気づいていないことを検証していきたいと思います。

この「鬼に瘤取らるる事」では、次の場所が気になります。

雨風はしたなくて、帰るに及ばで、山の中に心にもあらずとまりぬ。また木こりもなかりけり。恐ろしさすべき方なし。木のうつほのありけるにはひ入りて、目も合はず屈まり居たる程に、遥より人の音多くして、とどめき来る音す。いかにも山の中にただ一人居たるに、人のけはひのしければ、少しいき出づる心地して、見出しければ、大方やうやうさまざまなる者ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌にかき、大方目一つある者あり、口なき者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども、百人ばかりひしめき集りて、火を天の目のごとくにともして、我が居たるうつほ木の前に居まはりぬ。

 さて、この場面、なんかおかしいんですけど、気が付きますか?

映像化するとわかるんですけどね…。

じゃあ、わけてやっていきましょうか?

 雨風はしたなくて、帰るに及ばで、山の中に心にもあらずとまりぬ。また木こりもなかりけり。恐ろしさすべき方なし。木のうつほのありけるにはひ入りて、

 これ、どんな映像になっていますか?ロケ地というか、背景というか、です。

明らかに山の中、ですよね。

だから、うっそうとした森をイメージしませんか?そこで雨が降ってくる。どうしようもなくて、その中の一本の木に穴があいていて、そこに入り込むわけです。

ところが、次のシーン。

 遥より人の音多くして、とどめき来る音す。いかにも山の中にただ一人居たるに、人のけはひのしければ、少しいき出づる心地して、見出しければ、大方やうやうさまざまなる者ども、赤き色には青き物を着、黒き色には赤き物を褌にかき、大方目一つある者あり、口なき者など、大方いかにもいふべきにあらぬ者ども、百人ばかりひしめき集りて、火を天の目のごとくにともして、我が居たるうつほ木の前に居まはりぬ。

 自分がいるうつほ木の周りにたくさんの鬼たちが取り囲んで宴会をしているわけです。

おかしいですよね?

えっ、気づきません?

だって、さっきまで、うっそうとした山の森の中、だったはず。

でも、ここは明らかに広場。

つまり、おじいさんは、山の中の森の中を歩きながら、突然、広場のような場所に出て、その真ん中に立っている木を見つけ、そこに向かって歩いていく。大雨の中。

なんかおかしい。

こう考えるよりは、さっきまでうっそうとした森が、ふと気づくと広場になっているという方が自然ではないでしょうか。

じゃあ、これは…って考えると、この木のうつほが、異界への通路である、というのはどうでしょう。

そういえば、

  宗あると見ゆる鬼横座に居たり。うらうヘに二ならびに居並みたる鬼、数を知らず。その姿おのおの言ひ尽し難し。酒参らせ、遊ぶ有様、この世の人のする定なり。たびたび土器始りて、宗との鬼殊の外に酔ひたる様なり。末より若き鬼一人立ちて、折敷をかざして、何といふにか、くどきくせせる事をいひて、横座の鬼の前に練り出でてくどくめり。横座の鬼盃を左の手に持ちて、笑みこだれたるさま、ただこの世の人のごとし

 ここで2回も「この世の人」という表現が使われます。これは、この鬼たちは「この世のものではない」が「この世の人」と同じように宴会をしているという表現です。

もちろん、現実世界に鬼はいませんから、「この世のものではない」という表現はわかりますが、もっとストレートに、「ここは異世界だ」ととることもありうると思うんですね。

そうなってくると、「この世」の対義語が頭をよぎります。そうです。「あの世」ですね。そういえば、鬼って死者とか霊魂とかでもありました。

「百鬼夜行」という言葉は聞いたことがあると思いますけど、当然化け物ではあるんですが、お化けって、あっちの世界のことですよね。

そう考えると、翁が、

 この翁物の憑きたりけるにや、また然るべく神仏の思はせ給ひけるにや、あはれ走り出でて舞はばやと思ふを、一度は思ひ返しつ。それに何となく、鬼どもがうち揚げたる拍子のよげに聞えければ、さもあれ、ただ走り出でて舞ひてん、死なばさてありなんと思ひとりて、木のうつほより、鳥帽子は鼻に垂れかけたる翁の、腰に斧といふ木伐る物さして、横座の鬼の居たる前に躍り出でたり。

 というのは、「木のうつほ」から「死者の世界」に飛び出す勇気とも考えられなくはない。「一度は思ひ返しつ。」というのも、当然怖いからやめるんですけど、別に鬼が怖いだけなら、行ったっていいのかもしれない。実際、行くわけだし。

でも、一度思いとどまるのは、それだけ、「本来行ってはいけない」という認識があるといえます。その内容は「死なばさてありなん」ですね。「死なば」は未然形+「ば」ですから、「死ぬのなら」です。「ありなん」は連用形+「なん」だから、「きっと~だろう」。つまり、「死ぬのならきっとそういうことなのだろう。」と。

ここを飛び出すことは、死の覚悟であり、だから一度は思い返す。

もちろん、鬼って怖いし、何されるかわからないし…でもいいんですけど、ここが死者の世界だと考えると、飛び出したら、実際戻ってこれるかわからないし…なんて考えることもできますよね。

顔かくしてるんですけど、それもたぶん、この世界につれこまれないようにしている、覚えられないようにしている、なんていうのもわからなくはない。ただの鬼ではなく、幽霊的に考えると、ついてこられるといやですもんね。

それでも、踊りたいってどうなんだろうとも思いますけど。

そんな風に読みこんでいくと、おじいさん、かなりのチャレンジャーですけど、後のおじいさんもそれ以上のチャレンジャーです。

いくら瘤がなくなってほしいからって、死者の世界に入り込もうとするなんて…。そりゃあ、「物羨みはせまじきことなり」というのもわかります。

昔話だと、この世に、私たちの世界と鬼たちの世界があるような区分けに見えるんですけど、こんな風に、木のうつほを入口出口にして、二つの世界を行き来する、なんていう風に考えた方が、なんかわかるような気がするんですね。

 

なんか昔話って、話を知っているから、ついつい、知っている話で読みますけど、古文そのものを読むっていうのも結構、おもしろいですよね?