国語の真似びは、このあと実践的なシリーズに特化していく予定です。大学別シリーズ、今回は慶応大学経済学部の問題傾向をとりあげます。
前回、慶応大学の小論文の全体傾向について説明しました。
ここからは具体的な学部の傾向説明に入っていきます。
第一回は「経済学部」です。
- 経済学部は「オーソドックス」だけど、「指示が細かい」
- 傾向1 経済学的な知識が必要とされる。
- 傾向2 「学び」や「対話」についての考えが問われる。
- 傾向3 2のような考えを「具体的な例で実践する」
- 全体的な傾向:社会の仕組みの中で、経済や学びについての考えを、具体的に自分なりに考える力を聞いている。
経済学部は「オーソドックス」だけど、「指示が細かい」
経済学部の問題は、問題文もそれほど長くなく、法学部や文学部のように専門性に特化したわけでもありません。まして総合政策とか環境情報とかになると、複数の資料や文章を読みこなすことが要求されてきますから、「入門編」として、まず経済学部をやらされることも多いのではないでしょうか。
ただ、思っている以上に、面倒くさい、というか、思考の型が問題文によって与えられているのが、経済学部の特徴です。
たとえば、2013年度の問題を見てみましょう。
問題自体は、原発再稼働に関するふたつの新聞社の社説をとりあげているものです。再稼働を評価するものとそうでないものですね。
Aでは、この二つの社説で見解が同じ部分と見解が異なる部分を指摘させます。
そして、Bですが、問題は次のようなものです。
「原子力発電所の再稼働問題を例にして、仮にその賛否についてのあなたの意見に対し、異なる意見を持つ友人から批判を浴びたとしたなら、どのようにしてあなたはその対立を乗り越えようと考えるか。あなたの意見の内容と、それと異なる意見の内容(どのような意味で異なるかに言及すること)、および対立の乗り越え方について400字以内で具体的に述べなさい」
さて、あなたはどのような文章を書きますか?ちょっと考えてみてください。
これが経済学部の一番の胆なんです。オーソドックスで「なんだか書けそうだ」と思わせます。ところが、問題の指示をしっかり守らないと大変なことになるんですね。
この問題の場合、書くべきことは「私はこうやって対立を乗り越える」ということです。決して、「相手を説得する論理を書け」ではないんです。
正確に言うと、要求されていることは3つ。
- あなたの意見の内容
- それに対する異なる意見の内容の予測
- そこで起こった対立をどう乗り越えるか、そのやり方、方法
こういうことですね。1と2は、なんとなくやる。
で、それが終わると、過去採点したすべての生徒の答案は、
- なぜ自分が正しいか
- 相手のどこが間違っているか
- 相手の欠点を補う提案
という展開になっていきます。
もう一度問題を見てみましょう。問題は「対立をどう乗り越えるか」です。
仮に、「自分がこういうところで正しい。相手のこういうところが正しいことはわかるが、こういうところを考えると自分の方が正しい」ということが、「対立の乗り越え方」は、「自分が正しいので、どんなに相手が理があったとしても、一歩も譲らず、自分の考えを押し通す」というものだといえます。
もう一度、考えましょう。原発の話を忘れて、どうやって対立を乗り越えるかを考えましょう。
- 自分が正しいので、全面的に自分の考えを通す。
- 相手に勝てないので、自分が正しいと思っても、全面的に相手の意見にしたがっていく。
- 妥協できるところは妥協して、自分が本当にとりたいところをとっていく。
- 話し合いを続けて、折り合えるところを探し続ける。(いくら話し合いをしても、全面的に自分が説得したいなら、最初だし、勝てないからあきらめるなら2番目。ここでは、折り合えるところを探すということは、妥協するということです。)
このぐらいのどれかなんですね。
で、こうやって書くとどれが正解かって、3番目、4番目しかないんです。だからこそ、ここでは「対話」が求められます。何が同じで、何が違っていて…。
たとえば、文化祭が秋にあるとして、これを春にしたいという意見が出たとして、賛成と反対ははたして、二分でいいのでしょうか。
たとえば、
- 賛成。だって、ちゃんとやりたいから、受験勉強に影響が出ないように早くやりたい。
- 反対。ちゃんとやりたいから、春だとクラスもよくわからないし、部活も最後の大会前だからできなくなる。
- 賛成。文化祭はできるだけ参加したくないから、4月にちゃちゃっと終わったら楽。夏休み使ってやるなんてかったるい。
- 反対。秋にあれば、受験勉強言い訳にして参加しなくて済むけど、春になったら断る理由がなくなる。ちゃんとやりたいから春って面倒くさい。
みたいな意見があるとして、本当に賛成同士組んでいいんでしょうか。「ちゃんとやりたいグループ」と「やりたくないグループ」がありますよね。
こういう中身を見ないと、議論て危ないよね、ってことです。
さっきの2013年の問題の場合、Aで、同じことと異なることの指摘がされています。端的に言えば、両方とも「再稼働は必要」「そして安全性の確認は重要」ということで、異なっているのは、「先に再稼働」「安全性の確認の後、再稼働」というその部分だけです。
もちろん、自分の意見が「原発は禁止・廃止。しかもそれで経済活動が滞ったとしても仕方がない」というものであるなら、妥協の余地がないのですが、そうでないなら、いくらでも妥協の余地はあるし、次善の案の提案もできるし、あるいはその案の検討の仕組みも作ることができます。
仮に、「今すぐ原発廃止。経済活動の停滞やむなし」であったとしても、予想される「経済の停滞」について、どのような代案を出すかということを考えていかないと、「他人の意見に耳を傾けず、ひたすら自分が正しいと突き進む」という乗り越え方になってしまいますから、やはり問題があることはなんとなくわかるでしょう。
こうした「指示」の徹底が、経済学部の特徴です。直近の2019年、2018年も、指示が細かい。この指示によって、3ブロックで書くんだな、4ブロックで書くんだなというのが明確にわかるし、もっといえば、その指示通りに書けば、はずすことはないともいえるわけですね。
2018年の場合、
「市場型社会におけるフェアな分配規範とはどのようなものか。また、なぜそのような規範が発生するのか、問題文に沿って説明しなさい。さらに、フェアな分配規範が定着するためには、社会の仕組みとして何が必要だと思いますか。論理的に300字以内で述べなさい。」
というものです。
書くべきことは、
- 市場型社会におけるフェアな分配規範
- その規範が発生する理由~問題文に沿って
- フェアな分配規範が定着するために必要な社会の仕組み
ですね。
ということは文章構成は次のようになります。
- 私が考える市場型社会におけるフェアな分配規範とは、次のようなものである。
- その規範が発生するのは、(本文に~とあるように)こういう理由からである。
- 現代において、その規範が定着するためには、~という仕組みが必要である。
- それは、次のような理由からである。
こんな感じですね。字数が300とか400とかですから、あとはここに入る言葉を埋めていけば、ほぼ終わりで、余計なことを書く余裕はほとんどありません。
そういう意識で捉えると、経済学部の問題は小論文の練習にはもってこいだと思います。
傾向1 経済学的な知識が必要とされる。
さて、それではどういう出題が多くなるでしょうか。今度は文章のテーマの分析です。最初にあげておきたいのは、経済の専門的知識が必要となる問題です。
やや古くなりますが、2009年、2010年あたりの出題でしょう。実は、似たようなテーマ、傾向が2年続く、というのもなんとなく感じ取っていることで、余計なことを書くと、作問チームが2年で変わっているんじゃないか、なんていう邪推をしたくなることです。
でも、こういうのはあまり意味のない予想で、同じ出題者だとしても、テーマを変える可能性もありますから、全体的傾向で準備するしかないですよね。
さて、2009年は年功制と能力給についての文章を読ませました。年功制にも、一定の能力評価が入っていることを前提に、完全な能力給がどういう問題をもたらすかを論じた文章です。そのうえで、Bの出題は以下のようなものでした。
「中学校教諭の給与は「年功制」が主流であるが、これを「能力給」におきかえた場合、どのようなことが起こると考えられるか。課題文のみにとらわれず、良くなる点と悪くなる点の双方に触れながら、能力給の是非についてのあなたの考えを400字以内で書きなさい」
解答方針は、
- 能力給の是非
- 中学校教諭を能力給にした場合に、良くなる点
- 悪くなる点
というようなことになるでしょう。
この問題の場合、書き方として大きくずれるというようなことは起こりませんが、論点が大きくずれていくことが考えられます。
多くの答案が書いてくるのが、
- 良い点…先生のモチベーションがあがり、成績があがる
- 悪い点…成績だけが教育ではない。先生がいい生徒ばかりを教えたがる。いい先生というのはいろいろな観点があり、ひとつに決められるものではない。
こんな感じのことを書いてくるんですね。
これ、まったく問題文を理解していません。
問題文からすれば、
- 良い点…個々の先生が指導力の改善につとめる可能性が高い
- 悪い点…ノウハウを個人の中にとどめて、チームとしての共有がなくなる
という点から考えていかなければいけないわけです。
さきほどの解答方針の何が間違っているのでしょうか。
たとえば、「教育は成績だけではない」という批判があるとします。だとすれば、評価軸を複数にすればよいだけです。たとえば、いじめがなくなるとか、クラブ活動の成果とか、学校行事とか…。
クラブは強さだけじゃないって?だから、それを評価すればいいんです。アンケートとって、楽しくやっているかとか、出席率がどうかとか。
最初からちゃんとやる人だけを先生がとりあいするって?じゃあ、成長率で評価すればいい。いじめが多いクラスに入って、減らした人が、最初から少ないクラスより高い評価がくだるようにすればいい。
アンケートじゃ人気取りになる?成績至上主義になる?じゃあ、複数の基準を入れればよいだけの話。
こんなことがもし、言語化できないなら、そもそもいい教育が言語化できないってことですよね?よく言うんですけど、百歩譲って、生徒にとっていろんないい先生がいるっていうのが真実だとして、じゃあ、どんな先生でも優劣はなくて、みんないい先生なんでしょうか。
評価はできる。正確でなくても、評価はできる。多様で複合的にすれば、よりよい評価になる。でも、それで能力給を入れると問題が起きる。それは?
問題文からすれば、ノウハウの共有がなくなることですね。
しかし、それだけなら「中学校教諭」にする必要はなく、「企業」でもいいはずなんですね。よりその方が、能力が測れるのに企業全体としてマイナスが出るってことになりますから。
「中学校教諭」としたのは、市場ではなく、公教育、行政サービスであることを考えさせる目的があると思われます。
たとえば、能力の高い人に、高い給料を払います。そうすると、クラス間格差を承認したことになりませんか?いい先生のクラスと悪い先生のクラスの格差があるということです。
民間企業なら、安かろう、悪かろうでも、選択かもしれませんが、公教育の場合どうでしょうか。
まして、ある市町村が高い給料でいい先生を集めたとして、その代償として悪い給料でしか教えられない市町村との格差をどうとらえればいいでしょうか。
これが、公=行政サービスを考えることです。裏側には市場による競争がよりよいものをもたらす、給料もそのひとつですが、競争によって、よりよいものが生まれるわけです。しかし、こと公になると、差があることが問題、ということになるわけです。
ベテランの先生もいれば、新任の先生もいる。差があるのは当たり前。でも、このクラス間格差をできるだけ埋めるようにする必要が行政にはあるわけです。だからこそ、差があれば給与が変わるようなことを入れて、ノウハウの共有がはかれなくなるのは大問題なんですね。そもそもが差を嫌っているわけです。
2010年は、二酸化炭素の排出権取引で、そもそもAで、市場原理を入れた方が行政がトップダウンでやるよりも、うまく行く理由を説明しなければいけませんでした。この問題ですでに、市場原理を理解していなければいけません。
つまり、「うち、新しいシステム入れたから、余裕出来たから売っちゃうよ」という提案を受けた企業は、「えっ、なんで?じゃあ、うちでもっといいシステム入れたらどうなるの?」とか、「いれちゃったから、もっと安く売っちゃうよ」とか始まるわけですね。自分の企業の無駄を見直し、よりよくしていくインセンティヴが働くわけです。国とか行政主導でやると、「いや、無理っす。もっとかかりますから。」と言い訳するわけですから、市場原理を取り入れるとどれだけ、動くかわかるでしょう。
この段階でもかなり経済的な理屈がわかっている必要があるんですが、やっぱりBです。こんな問題でした。
「市場を用いる方法は、他の環境問題にも適用できるだろう。しかし、環境問題の中には、市場による方法では原理的に解決が難しいものも存在すると思われる。そのような環境問題の例をひとつあげ、なぜ市場による方法では解決が難しいのか200字以内で説明しなさい」
というものです。途方にくれますね。
「原理」とあるから、原理で考えればいいんです。市場で解決できない。それはどういうものか。原理を考えてみます。
- たとえば、市場と真っ向から対立するもの。たとえば、市場というのは消費を前提にするわけだから、消費を抑制するようなものは市場での解決のしようがない。
- 市場で解決できるのは、因果関係が明確であるもの。たとえば、現代の大気汚染ひとつとってみても、原因が国内企業なのか、海外にあるのか、よくわからないものについては、市場原理を導入しようにも、責任を負わせられない。つまり、国際的な複合要因でできているものや、多様な原因があってまだその原因が明確になっていないようなものについて、責任を負わせられない。
- 因果関係という意味で言えば、加害と被害の関係が不明瞭なものも難しい。たとえば、加害がはっきりして、被害がはっきりしていれば、ここに賠償なり、取引なり、市場が形成されていくが、たとえば被害を受けるのが未来世代であったりすると、ここに被害と加害の取引が成立しなくなる。
というような感じ。なんとなくわかったでしょうか。これ、実はさっきと同じようなもので、市場原理自体を理解した上で、そういう因果関係が不明なものは、行政や場合によっては国際協力の中でやっていかないと、インセンティヴが働かないというようなものに近いんですね。
こういうのが、経済学の専門的な出題です。
最近でいえば、2019年が市場型社会におけるフェアな分配でしたし、2016年の自由主義と未来世代との契約、なんていうのも、これに類する話です。2016年なんていうのはトランプさんの話とかを「わかってる?」っていう感じの出題でした。東大でも、この環境問題と未来世代との契約の話は2000年から出始めているので、理解している人とそうでない人の差がかなりついているような気もしますね。
傾向2 「学び」や「対話」についての考えが問われる。
さて、慶応の経済では、まったく経済のように見えないタイプの問題もよく出題されます。学びの姿勢とか、対話のあり方とか、そういう感じの出題ともいえるだろうと思います。
たとえば、2017年は「ソクラテス的議論ができる人間」についてですし、2015年は大学での教育は知識を授けることかどうかを考えさせました。
2012年は「霜柱の研究」という話で、どうやって課題を見つけ、どうやって確認していくかという学びのあり方についての問題。2011年は、大学が教養教育ばかりで、社会に出てから役に立たないよねという文章読ませといて、むしろ、大学の教養教育が今の社会重要だって書けないとまずいような、やらしい問題を出してきました。
基本的には、
- 自分と違う他者と恐れず議論し、妥協しつつ、ひとつの結論にいくこと。
- ただ知識を学ぶのでなく、実践的に問題を見つけ、仮説を立て、検証していくことの重要さ。
- そうした実践とともに、専門だけでなく一般教養や社会常識を身につけて、学際的に学問に取り組んでいくこと。
- 経済でいうなら、経済だけ、数字だけでなく、そこから零れ落ちるものに目を向け、逆に他分野のものを経済的に見ていくことの重要さ。
というあたり。簡潔にいうなら、因果関係を明確にして、科学的実証的に取り組むことの重要性とともに、そこだけではかれない部分があることを自覚し、他分野の異なる意見を持った人と対話し、あるいは受け入れる一般教養をもって、社会に根差していくことの重要さ、ということになるでしょうか。
これらの出題でも、最初に書いたように、指示が具体的ですので、文章を読んで賛成、反対を書くわけでなく、しっかりと自分の頭で指示を受けて考えて書く、ということが要求されています。
傾向3 2のような考えを「具体的な例で実践する」
そして、それを具体的に実践してみせなさい、というのも、経済学部で多く出て来る出題パターンです。
さきほどの2018年のフェアな分配規範も、「じゃあ、社会の仕組みでいったら何が必要?どんなこと起こってる?」とくるわけですからね。
2017年のソクラテス議論をする人材も、「じゃあ、会社はどういう仕組みが必要?」ってくるわけです。
2014年はイノベーションと社会の話でしたが、積み上げ方とジャンプアップ型の二つの例をあげて、それが社会にどう影響したかを書かなければいけません。
古くなってきますが、2008年には、町に動物園がいるかどうかを考えて、どんな動物園を作るか狙いをはっきりさせて、町の人を説得するような問題が出たりするわけですね。
というわけで、2番目と3番目は同じと言えば同じ。理論がわかればよくて、理想を理論的に語るのが2番目だとすれば、3番目は「じゃあ、やってみせて、この例で。」というタイプの問題だというのが私の分類です。
でも、別に同じでもいいんです。狙いさえわかってもらえれば。
全体的な傾向:社会の仕組みの中で、経済や学びについての考えを、具体的に自分なりに考える力を聞いている。
というわけで、経済学部は、いずれにせよ、社会の仕組みの中で、経済とか学びとかについて、自分なりに考え、具体的に思いを巡らせる力を要求しています。
字数は短いので、それがしっかりできればそれで終わりともいえるんですが、逆にいえば、無限に展開できるわけでなく、「ああ、たぶんこういうことを書いてほしいんだろうな」という正解がさもあるかのような作りになっているともいえます。
私はその意味で、非常に小論文の勉強としてはいいと思います。
なぜなら私は小論文とは知識だと思っているからです。
でも、「筆者の文章まとめて、賛成・反対決めて、理由書けばいいんだよ。で、何書いてもいいんだ。大事なのは論理と構成だから」的な指導であるとするなら、経済学部はやめた方がいいです。
だって、指示がうるさいから。
でも、これこそが小論文の本質的な流れなんですよ。