読むだけで現代文の学習をするシリーズの3回目。今日は、言語について考えます。言語と私の関係、そして、翻訳の不可能性の話です。
ここまで、まずは「私」そのものを考えました。
で、そこから「私と身体」へ。
そして、今日は言語の問題を考えます。言語というと、何だか文学的な話題に感じますが、これも当然、「私=自己」の問題です。「私」を成り立たせるものについて考えていくことが現代文の大きなテーマです。
だから、今回の「言語」もいかに言語によって自己が規定されているかということです。
- 出題される学部系統
- 記号としての言語
- 固定した意味と変化する意味~ラングとパロール
- 言語の意味は、その都度、新しい意味になっていく。
- 言語が文化を規定する。言語がモノより先にある。
- 翻訳ということの不可能性
出題される学部系統
まずは、文学部系統です。慶応の文学部の小論文はこれがわかってなければほぼ終わりといってもいいかもしれません。
そして、小論文ということなら、最近は国公立後期がどんどんなくなったおかげで消えていますが、情報系統です。AIのおかげで急に人気系統になっていますが、何かを認識するということは「意味」の読み取りだからです。僕らが様々な物事をどのように認識しているかは、言語の認識とほぼ同じで、ここがわからなければ、コンピュータにものを認識させることもできないということです。
「翻訳」がテーマになると、文学部のほか、国際系、いえ、全学部の出題が想定されます。だってグローバル化ですから。
記号としての言語
まず言語について考えると「記号」という言葉が出て来ます。
「言語は記号である」ということですね。
ここでいう「言語は記号である」とは次の二つのことによります。
- 言語は何らかの意味を持っているということ。例えば「名前」として機能するということ。
- その意味は「文脈」によって変わること。意味は決して固定ではなく、使われ方で決まり、言葉同士の関係によってはじめて決まるということ。
この二つから始まって、言語以外の文化に対しても、言語と同じような機能があると考えていくのが記号論と呼ばれる考え方の基本です。
つまり、
「文化、たとえば、仕草や服装やありとあらゆるさまざまなことが、言語と同じような形で認識されているから、まずは言語がどのような形で認識されているかを把握する必要がある」
ということです。
固定した意味と変化する意味~ラングとパロール
まず、言語というものを先のように考えると、言葉はモノと対応する意味を持っているということになります。
何かを表す言葉は常に、一定の意味を持っているわけで、それがその都度違う意味を持ったら困りますよね。
「イス」という言葉はイスを表すのであって、机ではない。
「おはよう」という言葉は「おはよう」を表すのであって「こんばんは」ではない。
「嫌い」という言葉は嫌いという意味を持っていて「好き」ではない。
こうやって書くと当たり前に思えますが、当然こういうことが起きるわけですね。言葉はそう簡単に意味が変わってもらっては困るわけです。
言語は、まず、固定した意味を持っています。
しかし、常にそうかと言われれば、そうではありません。
「えっ、そんなことあるのか」って?
たとえば、「イスとって」という言葉は、本当にイスですか?
たとえば、「イス」の写真やキーホルダをとってきたら、正しいですか?正しいときもあれば、正しくないこともありますよね。
たとえば、「イス」という言葉が「何か座るもの」を意味しているなら、「イスのキーホルダー」は不正解で、「イス」の代わりになりうる、ビールケースやちょっとした台が正解になることもあります。たとえば、教室で使う、みんなと同じ「イス」を表していれば、「ベンチ」を持ってきたり、あるいは「イス」であっても校長室のイスを持ってきたりしては不正解になりますよね。
そうなんです。意外と難しい。
意味は、文脈によって変わるんです。
「おはよう」だって、遅刻して午後に教室に入った生徒に向かって言えば、嫌みです。
「嫌い」だって、ラブラブの2人が使えば、「大好き」ってことです。
言葉の理解は難しい。文脈が入ってくるんですね。
前者を難しい言い方をするとラング、後者をパロール、なんて言ったりします。このあたりはいろんな解釈も入ってくるので、今の説明では不正確なんですけど、まあ、そんなことわからなくても大丈夫。
意味が変わらないから、言葉は機能して、それでも言葉の意味は変わるということさえ、わかってもらえれば。
で、記号論は、そのラングとしての言語を対象にすることが多いんですけど、ラングが大事だから、ということよりは、状況によって意味って変わるよね、っていうことをやりだすときりがないから、まずは、どうして、イスはイスなのか、おはようはおはようなのかを考えないと、意味が変わるなんてところは手に負えないっていうことなんですね。
さて、文化で考えてみます。
たとえば、制服があるとしますよね。その制服は「女子高生」であること、とか、「〇〇高校の生徒」であること、を意味します。でも、文脈を考えると、たとえば、おじさんが着ていれば決して「女子高生だ」とか「〇〇高校の生徒だ」とか、思ったりはせず、「おかしい人だ」とか「演劇だ」とか、そういう意味になるわけです。
文化も言葉と同じだ、ということはわかりますよね?
言語の意味は、その都度、新しい意味になっていく。
こうして、言語の意味というものは、その都度、その都度、問われ続けていく「関係」であるということがわかってきます。
意味は、不変固定なものではなく、時代や場所や文化によって変わっていく、ということですね。
最初は「おしゃれなもの」をイメージしていたあるブランド名が、みんなに受け入れられていくうちに、そうでなくなる。最先端をあらわしていたコトバが、いつの間にかダサいコトバになっていく。そんなことはいくらでも体験してきたことですね。
若者文化、若者のコトバが、あっという間に違う意味を持っていくなんていうことは、言葉が「関係」の中にあるからです。
しかし、私たちは、ある関係の中に当たり前のように存在してしまっていますから、当たり前のことがどうして当たり前なのかを問うことはとても難しいことです。ある言葉は当たり前のようにある意味を表していて、なぜその意味になるかを考えることはできません。
ここで、問題となってくるのは私たちの「当り前=常識」です。この常識を問い直すためには、「常識でないもの」を考えるとわかりやすいかもしれません。
池上嘉彦さんが使っていた例ですが、子どもがゆうやけを指して「お空がオレンジジュースになっちゃったよ」と、言います。私たちは、これを詩的に感じます。夕焼けをオレンジジュースと表現することは「当り前」でないからです。夕焼けは「夕焼け」である常識を生きているから、そうでない言語表現を詩的に感じるわけですね。
でも、その言葉を毎回使っていると、それは常識に変化します。たとえば、「雪のような肌」「ダイヤモンドの瞳」「一万ドルの夜景」など、使い古された比喩は、すでに常識となってしまい、詩的な「ずれ」を起こさなくなってしまいます。
つまり、言葉の意味をとらえると、いうことは、言葉の意味を成り立たせる文化的背景を知る、ということなのですが、その文化的背景は、生き物のように常に変化しているわけです。
日本とアメリカでは違うでしょうが、日本の中の地域でも違うし、年代でも違う。それどころか、同じ人でさえ、今日と明日ではもっている常識が変化することもある。
そういう「関係」の中で、私たちは言葉の意味をとらえようとしているのです。
言語が文化を規定する。言語がモノより先にある。
さて、このように考えてみたところで、言語がモノにつけられた名前である、ということ自体はまだ、変わらないでしょうか。
コトバがいずれにせよ、意味を持つ、という以上、言葉がモノや行為や感情につけられた名前であることは間違いない。ただ、その意味やイメージが時代や場所で変わるっていうことですよね、と。
いや、本当にそうでしょうか。
そもそも、意味が変わるということは、コトバそのものが関係の中で、変化しているということですから。
では、少し考えてみましょう。
たとえば、あなたの目の前に黒板があります。その黒板は何色ですか?
黒?ほんとうに?黒ですか?
緑?ほんとうに?緑ではないと思いますよ。
深緑?いやいや。深緑って、深緑ですよ、黒板の色とは違います。
目の前に白い紙を何枚か集めてください。
その色は?
当然「白」ですね。
でも、同じですか?白といっても微妙な違いがありますよね。でも、同じ白なんです。
わかってきましたか?コトバになっていないものは表現できないんです。僕たちは持っている色の名前で、世界を区分けしています。
たとえば、緑なら、緑・黄緑・深緑・薄緑・青緑ぐらいまでは共通できますかね。でも、さっきの黒板色じゃないけど、この言葉しかもっていなければ、あの色はこのどれかにしないといけないんです。
青は、水色と紺ぐらいかな。赤は紫・エンジ・オレンジ・ピンク・茶色ぐらいで区分けされます。
アメリカで「オレンジのタクシーがくる」と言われて、待っていても来ないからフロントに聞きに行ったら、「最初からいる」と。そうしたら、そのタクシーは「エンジ色」だったそうです。アメリカには「エンジ」って言う言葉がなくて、オレンジがエンジまで含んでいる、ということでしょう。
私たちは言葉になっていないものを認識することはできないんです。
フランス人は「肩こり」という言葉がないから、肩が凝らないし、牛肉と言われればおいしいけど、猫だよ、と言われれば気持ち悪い。うなぎは食べられるけど、へびは気持ち悪い。
切れる子どもたちは、「切れる」というコトバがあるから、その切れることができるようになっているし、感情を表現できないから、きれるしかない。
なんてことが、上の話でまとめています。
そう、考えてみると、私たちは、言葉で与えられた区分けで世界を見ている。分節化、なんて言葉を使いますが、それぞれの言語の枠組みで、感情を作り、物事を認識している、ということになります。
コトバは、物につけられた名前、記号ではなく、言葉によって、そのモノがモノとして存在していく、その原点なんですね。
これが「言語が文化を規定する」ということです。
翻訳ということの不可能性
このように考えると、私という存在は、無意識に使っている言語によって規定されている、支配されている、と言えます。
いつの間にか使っている言葉によって、物の見方や考え方、もっというと認識できるか、できないか、ということまで決まってしまっているんです。
「もったいない」という言葉が外国語にない、というのは聞いたことがあるんじゃないでしょうか。つまり、そういう言葉がない、ということは、そういう考え方がない、ということです。
私たちは、逆に、「もったいない」という言葉がある文化を生きた結果、そういう考え方を手に入れているということです。
古典と現代文の境目は、明治時代ですね。
個人や社会や自由や平等や、そういうコトバは、古文のテキストにはひとつも出てきません。それはそういう言葉が日本にはなかったからです。
そういう言葉が日本にはない、ということは、そういう考え方がない、ということです。私たちには想像もできないですよね?
個人の自由とか、平等とか、そういうことが考え方として、ない、ということ。
アメリカにはその言葉があった。日本にはない。だから、訳語として作られた。作られて使われれば、常識として根付いて存在する。そうなると、「ない」ということがどういうことかわからない。
モノだってそうです。たとえば、勝手に「鉛筆」が存在して、あとから「鉛筆」という名前がつく、なんていうことはありえない。そういうものをつくろうとしている時に、それは仮の名前かもしれないけれど、必ず、言葉にされていて、それから、物が作られているはずなんです。自然界に存在するのでないかぎり。
自然界に存在するものだって、言葉によって区分けされます。たとえば、「虫」とか「昆虫」っていったりしますけど、動物に対して虫かもしれませんが、クモとか、ムカデとかはどう分類するかって、生物の試験なら、昆虫じゃないですよね。
でも、日常的には、「虫」という言葉ですませる以上、クモやムカデだって同じ虫ですよね。
いろいろ考えてきましたが、私たちの考え方や感情さえも、言葉によって支配されているんです。無意識のコトバによって、見えるものと見えないものがある。違うはずなのに同じになったり、ある言葉では同じものが、ある文化では区分けされたりする…。
そう考えてみると「翻訳」というのは、言葉を置き換えるような単純なものではなく、もしかしたら、そもそも不可能なものなのではないか、とさえ思えてきませんか?
というわけで、長くなってしまったので、次回は、翻訳の話を中心に続きを書きます。