「舞姫」の3回目です。今日は、豊太郎が自我に目覚め、そして、「弱くふびんなる心」に気が付くところに迫っていきます。
今日が終われば、ようやくヒロインが登場し、物語がどんどん進みます。なので、なんとか今日まで、がんばってください。今日まで終われば、みなさんの好きな恋愛の展開、多少はおもしろくなってまいります。
本文はこちら。
ドイツに来て3年~「まことの我」に目覚める
こうして3年の月日が流れます。そうしていくうちに彼に変化が訪れます。
かくて
三年 ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包みても包みがたきは人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、人の神童なりなど褒 むるが嬉しさに怠らず学びし時より、官長の善き働き手を得たりと奨 ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時まで、たゞ所動的、器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久しくこの自由なる大学の風に当りたればにや、心の中なにとなく妥 ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあらはれて、きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。
という感じです。
要するに、父親の遺言、母親の教え、そういったものに従って真面目に勉強してきたわけです。そして、今度は、「官長」が、その役割を果たす。人に言われたことをまじめにこなしていく人物、豊太郎は「所動的、器械的の人物」と書きますが、それは、受動的=人の言うことを疑わずに、ただただこなしていく人物として生きてきたことに気付くんです。
「気付く」。つまり、今までは「気付いていなかった」。そういう人物になろう、そういう人物がいい人物だ、とかそういうレベルではなく、それが当たり前すぎて、気づくことがなかった。
しかし、今はそこに気付いた。
「まことの我」と書く所以ですね。「自分」が芽生えた。だから、逆に言えば、昨日までは「自分」がなかった。
自分のやりたいことや自分のしたいことや、要するに自分の意志がなかった。父親の遺言、母親、官長、そういった人たちの言葉がすべてなんですね。
しかし、豊太郎は目覚めてしまった。それは「昨日までの」自分が「我ならぬ我」として見えるほど。そして、彼はそれを「攻める」ことさえする。
悪なんです。母親や官長にしたがうことは。
そのぐらいの自己主張が始まります。
豊太郎の「まことの我」
さて、では、どんな自分が目を覚ましたんでしょうか?順番に追っていきましょう。
余は
私 に思ふやう、我母は余を活 きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々 たる問題にも、極めて丁寧 にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連 りに法制の細目に拘 ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所 にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗 を嚼 む境に入りぬ。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐 きて、人なみならぬ面 もちしたる男をいかでか喜ぶべき。
読めましたか?順番に見ていきますよ。
やりたいことが見つかった~歴史・文学
まずはやるべきことが見つかります。彼は法律の勉強をして、政治家になろうとしていたようでした。詳しくは前回ね。
ここで、彼は自分のやりたいことを見つけます。はじめてです。ここで得た「まことの我」の視点から、以前の彼を判断するわけですから、たとえば、「模糊たる功名の念」というような表現をするわけです。
なんとなくぼんやりとしていて、なんでもいいから名をあげたいという気持ち。
こんな感じです。自己批判です。やりたいことがなかった。だから、政治家とか法律とかいっていたけど、それがやりたいわけではなくて、なんとなく…ですね。
やりたい自分、ありたい自分、理想の自分、つまり「まことの我」に目覚めた豊太郎からすれば、許せない自分になっていきます。
官長の言いなりになるのが嫌になった~独立の思想
さて、これとほぼ同じような視点が「独立の思想」というやつです。さっきは「所動的器械的人物」という言葉がありました。
これも批判ですよね。
そうでない自分になったからこその、過去の自分への批判。
特に官長に対しては辛辣です。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。
と決めつけています。
さらにその前には、
今までは
瑣々 たる問題にも、極めて丁寧 にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連 りに法制の細目に拘 ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。
こんなのもあります。ここだと、確かに言い分はありますね。「細かい法律の条文にとらわれてはいけない。大事なのは法の精神だ。法の精神をとげるため、正しいことをするために法律があるのであって、細かい条文で、大きな法の精神を失ってはいけない」とでも主張しているんですよね。
まあ、言っていることは正しいです。その通り。でもね、法律っていうのは決まりですから、「破っても仕方ない。事情があるんだから」ってわけにはいかないわけで、だからこそ、法律勉強しなくちゃいけないわけじゃないですか。言ってることは正しいけど、それを実現するためにも「法制の細目」が大事なわけじゃないですか。
で、官長に意見しちゃってるわけで、目覚めた「まことの我」、結構手ごわいですよね。
ここでは、官長をやり玉にあげていて、母親は擁護ですね。たとえば、
余は
私 に思ふやう、我母は余を活 きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。
中身を度外視して、あえて書くなら、「ママは許すけど、官長は許せない」という風にも読める場所です。
もちろん、中身は読むべきで、これもまたあえて、「ママ」をつけたまま解釈すると、
「ママは賢いっていうことだけで、何をやれ、とは言わなかった。知識がたまっていくだけなら、たとえ、道具でも許せる」
「でも、官長は法律をやれっていう。それはぼくのやりたいことではない。それに、法律って、なんだか人を裁いたり、細かいことで人をしばって大切なことを見落とすことが多い。そんなの許せない。ぼく、法律はいやだ」
という感じかな。
もちろん、「ママ」はカットしてもいいですよ。両方道具だけど、害のないのが辞書で、実害が出るのが法律、ということかもしれません。
いずれにせよ、「まことの我」が顔を出してきたことは事実です。
「危ふきは余が当時の地位」~留学生仲間との関係
この「まことの我」はまだもうひとつ読まなければいけないんですが、その前に、この話題にいきましょう。
豊太郎は官長に嫌われたことで、地位が危うくなったと書いています。
独立の思想を
懐 きて、人なみならぬ面 もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆 へすに足らざりけんを、日比 伯林 の留学生の中 にて、或る勢力ある一群 と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑 し、又遂 に余を讒誣 するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。
これだけでは、自分の地位は覆されるわけではない、と豊太郎は書きます。読者からすれば、「なに?地位が覆されちゃうわけ?」とかなり、意味深に書かれているところですね。これから起こることを匂わせたわけです。
ところがです。そこには、もうひとつの要因がある。「留学生仲間」との関係が悪い。これが、もうひとつのポイントです。さきにここをつめてしまいます。
この交際の
疎 きがために、彼人々は唯余を嘲り、余を嫉むのみならで、又余を猜疑することゝなりぬ。これぞ余が冤罪 を身に負ひて、暫時の間に無量の艱難 を閲 し尽す媒 なりける。
この留学生仲間との関係が悪かったがために、豊太郎は「冤罪」をその身に負うことになる。罪を犯してないのに、濡れ衣を着せられて、そして、その地位がなくなる。そういうことがここでにおわされています。
豊太郎の「弱くふびんなる心」
さて、この留学生仲間との関係ですが、発端は、豊太郎が付き合いが悪いこと、です。
彼人々は余が
倶 に麦酒 の杯をも挙げず、球突きの棒 をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且 は嘲 り且は嫉 みたりけん。
要するに付き合いが悪い。しかもこれが超エリート。妬みもあれば、嘲りもあるでしょう、確かに。嫌われていると、「地位」が危なくなるわけではないんですが、これは次回以降の話でつながりが出てきます。だからこそさっき「暫時の間に無量の
さて、話をすすめます。豊太郎が、もうひとつ気付いた「まことの我」。それは「弱くふびんなる心」です。
嗚呼、此故よしは、我身だに知らざりしを、
怎 でか人に知らるべき。わが心はかの合歓 といふ木の葉に似て、物触 れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、学 の道をたどりしも、仕 の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能 くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯 だ一条 にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯 外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。故郷を立ちいづる前にも、我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき。嗚呼、彼も一時。舟の横浜を離るるまでは、天晴 豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に手巾 を濡らしつるを我れ乍 ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性なりける。此心は生れながらにやありけん、又早く父を失ひて母の手に育てられしによりてや生じけん。
彼 人々の嘲るはさることなり。されど嫉むはおろかならずや。この弱くふびんなる心を。
さっきの続きの部分です。
この理由は自分でさえ知らなかったのに、どうして人にしられようか、とはじまります。
私は、「弱くふびんなる心」の持ち主だと、気づきます。もしかしたら、気づいたのは、この時点ではないかもしれません。少なくとも、書いている豊太郎が、自分がこういう人物であると思っています。だから、この「ドイツに来て3年後」に気付いたわけではないかもしれません。
その意味では、最初に書いた「まことの我」とはまた違う。さっきの「まことの我」は、変化です。ドイツに来て変わった私。
これは、何も変わっていない。何かが変わったのではなく、見え方、認識が変わったという話。
前回のところですが、豊太郎は、「検束に慣れたる勉強力」なんて書いていましたよね?ここでは?
- かたくななる心と慾を制する力
- 勇気~
学 の道をたどりしも、仕 の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能 くしたるにあらず - 耐忍勉強の力
- 外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気
- 我が有為の人物なることを疑はず、又我心の能く耐へんことをも深く信じたりき
天晴 豪傑と思ひし身
という評価だったわけですね。ずっとそう思って生きてきた。
今から思えばそれは違う。
わが心はかの
合歓 といふ木の葉に似て、物触 れば縮みて避けんとす。我心は処女に似たり。余が幼き頃より長者の教を守りて、学 の道をたどりしも、仕 の道をあゆみしも、皆な勇気ありて能 くしたるにあらず、耐忍勉強の力と見えしも、皆な自ら欺き、人をさへ欺きつるにて、人のたどらせたる道を、唯 だ一条 にたどりしのみ。余所に心の乱れざりしは、外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあらず、唯 外物に恐れて自らわが手足を縛せしのみ。
怖くてできなかった。自分一人で世界に飛び込むのが怖くてできなかった。だから、ぼくは遊ばなかった。彼は、今、自分をそう振り返ります。
赤く白く
面 を塗りて、赫然 たる色の衣を纏 ひ、珈琲店 に坐して客を延 く女 を見ては、往きてこれに就かん勇気なく、高き帽を戴き、眼鏡に鼻を挾ませて、普魯西 にては貴族めきたる鼻音にて物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。
確かに勇気はいりますよ。これ、教科書だとちゃんと注釈つけてくれないところですね。前半は、明らかに商売女、娼婦でしょう。だって、客を引くんだから。
これと対置される「レエベマン」て?教科書では「道楽者」なんてふってますけど、ちょっと映像にしてくださいね。
高い帽子をかぶる。たぶん、シルクハットみたいな感じ。メガネが鼻にある。かなりおしゃれな感じになってきますね。次です。貴族っぽい鼻音でしゃべるんです。
「うわたすぃは~くぉんどぅお~あなとぅお~」みたいな感じ。だいぶ上品に男をしゃべらせると、なんだか下品な雰囲気漂いますよね?
わかりました?書きませんよ。そっち系の人です。娼婦とならんでるんですから、それの男版みたいな感じじゃないですか?
そりゃ勇気いります。優等生の豊太郎くんですから。ママのいうことを聞いて、先生の言うことを聞いて、まじめ一筋でやってきた豊太郎くんですから。
で、女遊びはできない、ビールは飲まない、ビリヤードはしない…で、仕事はする。エリートです。クラスにいたら、いやじゃないですか。
「文化祭やろうよ」「おれ勉強あるから」
「うちあげこない?」「勉強あるから」
「私とつきあって」「勉強あるから」
だいぶいやな奴。嫌われるのは当たり前。
でも、その原因は今、「忍耐」や「意志」ではなく、「弱い心」だと彼は認識しています。これはいったいいつからこうなったのかは気になりますね。いつ彼はこの認識をもったのか?
とはいえ、これで彼は孤立します。これが物語を動かしていくのです。
次回、いよいよヒロインが登場します。