「舞姫」は前回に、ようやくヒロイン、エリスが登場しました。今回は、そのエリスとの交際が始まり、免官、母の死…と、ジェットコースターさながら、怒涛の展開となっていきますが、そこに隠された謎に迫ります。
前回に、ヒロインが登場したと思えば、今回は、目まぐるしい展開となります。そのあたりを、偶然の悲劇が重なるとみるのか、何らかの因果関係を見ていくのか、そんなことが今日のテーマです。運命のいたずらか、それとも何かの必然か…。あなたはどう考えますか?
それでは本文です。青空文庫のリンクはこちら。
前回はこちら。
エリスとの交際はどうして始まるのか?
さて、前回のところで、豊太郎はエリスを救います。手元にお金はなかったから時計を渡すんですね。でも、どうしてこれで交際が始まるんでしょう?仲良くなったから?だって、この二人初対面ですからね。自己紹介もろくにしてないはずです。貸したから返して、それで付き合う?豊太郎、あげてますね。読めてますか?
我が隠しには二三「マルク」の銀貨あれど、それにて足るべくもあらねば、余は時計をはづして机の上に置きぬ。「これにて一時の急を
凌 ぎ玉へ。質屋の使のモンビシユウ街三番地にて太田と尋ね来 ん折には価を取らすべきに。」
これ、すごい方法ですね。渡しているのは、時計です。で、これを質屋に持っていって、お金に換えることができます。現代では質屋はほとんど中古品買い取りみたいな扱いですが、本来は「質」ですから、お金もっていけば返してくれる。もちろん、売ったときより、高く買わないといけないですけどね。
だから、豊太郎は、自分の住所と名字を告げて、そこに質屋に来るように言え、と言っているんですね。自分時計を渡すけど、時計は大事だから買い戻す。だから、自分の家に来るように質屋に伝えなさい。
格好いいですね。これで、スマートに自分の名前と住所を伝えることができました。だからこそエリスはお礼を言いに行く。これで二人の交際がなんとなく始まるわけですね。
嗚呼、何等の悪因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我
僑居 に来 し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日 兀坐 する我読書の下 に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交 漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼等は速了 にも、余を以 て色を舞姫の群に漁 するものとしたり。われ等二人 の間にはまだ痴 なる歓楽のみ存したりしを。
ただ、問題も書かれていますね。だんだんと進んでいく交際は、「同郷人」に「まで(さへ=までも、ですよ)」知られた…。そして彼らは、「舞姫」つまり踊り子の中に「色を漁る」、女漁り、という形でしょう。イメージで言えば、夜の町でホステスとかと遊んでる、あるいは風俗とかにいりびたっている、とか、そんな感じでしょう。
豊太郎の弁明は、「まだ幼稚な喜びだけあった」というものです。まだ大人のつきあいはしていない、子どもの交際みたいなものだ、ということでしょうか。
悲劇1 周囲の嫉みと免官
でも、これで、悲劇が進むには十分です。前々回、「冤罪」とか「無量の艱難」とか書いていましたよね。
これは次のような結果になります。
その名を
斥 さんは憚 あれど、同郷人の中に事を好む人ありて、余が屡 芝居に出入して、女優と交るといふことを、官長の許 に報じつ。さらぬだに余が頗 る学問の岐路 に走るを知りて憎み思ひし官長は、遂に旨を公使館に伝へて、我官を免じ、我職を解いたり。公使がこの命を伝ふる時余に謂 ひしは、御身 若し即時に郷に帰らば、路用を給すべけれど、若し猶こゝに在らんには、公の助をば仰ぐべからずとのことなりき。
このことは、官長に報告されます。官長も前々回のところで触れましたが、豊太郎君が反抗して、対立していましたよね?というわけで、官長は大使館にこれを報告して、免官=クビにされてしまうわけです。
大体、何をしに来ていたか忘れてはいけません。豊太郎は、おそらく国費で、官僚として仕事をしにきている。しかし、豊太郎くんはその仕事さえ、最近は自分の思うとおりやって、細かいコトなんていいんだ、みたいな感じになっている。
官長は、だから、日本にいますよ。日本にいて仕事頼むけど、やってくれないって話ですから。当然、官長は本当のことはよく知りません。でも、報告が入ってしまう。「あいつ、女遊びばっかりですよ」って。
ともかくも、免官=クビになる。
そして、条件は、
「すぐに帰国するなら、帰国費用は出す。でも、ドイツに残るなら、帰国のための費用やその後の費用は一切出さない」
というものでした。
悲劇2 母の死~それは本当に偶然か?
そして、もうひとつ、大きな事件が起きます。
余は一週日の猶予を請ひて、とやかうと思ひ煩ふうち、我生涯にて
尤 も悲痛を覚えさせたる二通の書状に接しぬ。この二通は殆ど同時にいだしゝものなれど、一は母の自筆、一は親族なる某 が、母の死を、我がまたなく慕ふ母の死を報じたる書 なりき。余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の運 を妨ぐればなり。
ちょうどこの時、豊太郎の手元に2通の手紙が届きます。1通目は、母の自筆の手紙、そして、もう1通は母の死を知らせる手紙です。
この2通はほぼ同時に出されたもので、そして、母の書いた手紙の内容は、書かれていません。書こうとすると、涙が迫ってきて、書くことができなくなると、彼は書いています。
…いやあ、怒濤の展開です。前回、ようやくヒロインが出て来たと思ったら、次の回でこれです。すごいジェットコースターぶりです。
これ、二回にわけても、すごい展開じゃないですか?
ヒロイン登場→豊太郎クビになる→母死ぬ
ぐらいでも、十分、展開できます。ねえ、もうちょっとひっぱてもよくないですか?
でもね、冷静に考えてみると、こんなことが偶然起こるんでしょうか?
いや、豊太郎の免官は必然ですね。ここには、まあ、多少の無理があるかもしれませんが、それは必然です。エリスと出会わなければ、これは今のところ起こらないわけですから、エリスとの出会いによって、必然的に起こる結果ですね。だから「悪因」なんて書くわけです。
でも、母の死は、できすぎた偶然以外ありません。しかも、ここにはまだ二つの偶然があります。
- 2通の手紙が同時に届く偶然。つまり、母が手紙を出した直後に死ぬ、という偶然。
- 免官になったと同時に母が死ぬという偶然。
この二つの偶然。もちろん、偶然でもいいんですけど、これを必然と考えるなら、どういうことが導き出されるか考えてみたいと思います。
2通の手紙が偶然でないとすれば、母の手紙はどんな内容なのか?
まずは、ここからやっていきましょう。もしこれが偶然だとするなら、豊太郎にお母さんが手紙を書いた直後に、突然の事故、あるいは病気で、急に亡くなるということになります。
さすがにこれは無理がありますね。
では、これを「必然」、なんらかの原因があると考えるなら、どういうことが考えられるでしょうか。
それは、お母さんが自分の死を悟って、最後のメッセージを残した、ということにならないでしょうか。だからこそ、書いた直後に死を知らせる手紙が届く。
そうですね。まずはこれを「遺書」ととらえる必要があります。
遺書であるとするなら、ここにはどんなメッセージがあるか?
母一人子一人の家庭。武士の家に生まれ、太田家を背負わされている豊太郎。「模糊たる功名の念」なんていう言葉がそれを表していましたよね?だからこそ、「五十を越えし母に別るるもさまで悲しと思はず」となるわけです。
豊太郎の気持ちではなく、むしろ、母親を代表とする、家の期待を背負ってきたというのが、ここまでの読みですね。
だとすれば、ここには、かなり痛切な「豊太郎への期待」が込められていたのではないかと推測できます。ちょっとさきから引っ張ります。
公使に約せし日も近づき、我
命 はせまりぬ。このまゝにて郷にかへらば、学成らずして汚名を負ひたる身の浮ぶ瀬あらじ。さればとて留まらんには、学資を得べき手だてなし。
豊太郎は、このあとこんな風に書いています。「このまま日本に帰れば、汚名返上できない。でも、残るには金がない。」
これって、残りたい前提ではないですか?帰ればいいだけの話。百歩譲って、やりたいことがある、自我に目覚めた豊太郎くんだとして、縛っていた母親は死に、クビになり、やりたいことやればいいだけですよね?歴史、文学に心よせてるんだから。
でも、彼は残りたい。しかも汚名返上のために。
う~ん、やっぱりおかしい。
これ、どう考えてみても、母の遺書によって、しばられていると思えてきます。
母の死が偶然でないとすれば、どんなことが考えられるか?
では、この母の遺書には、何が書かれていたのか?
家の期待、太田家を背負うものとしての期待、そんなことが書かれていたことは間違いないでしょう。でも、もう少し、辛辣な言葉が書かれていた可能性はないのでしょうか?これも少し先からひっぱります。
此時余を助けしは今我同行の一人なる相沢謙吉なり。彼は東京に在りて、既に天方伯の秘書官たりしが、余が免官の官報に出でしを見て、某新聞紙の
編輯長 に説きて、余を社の通信員となし、伯林 に留まりて政治学芸の事などを報道せしむることとなしつ。
このあとの重要人物、相沢謙吉くんの登場です。内容は次回とさせていただきますが、ここで重要な記述は、「余が免官の官報に出でしを見て」という表現です。相沢謙吉は、この時、日本にいます。彼は、豊太郎のピンチを、「官報」で知る。そして、手をさしのべるわけです。
このことから考えれば、おそらく、豊太郎のお母さんも、免官を知っていたと考えるべきではないでしょうか。
そう考えると、「何やってるの!あんた。太田家をどうするつもり!」という、叱咤激励がここにあるのではないかと考えることができそうですね。
だいぶ、手紙の中身がわかってきました。
遺書であり、免官を知った母の、叱咤であり…。
確かに豊太郎は、その最後のメッセージでドイツで汚名返上の機会を待つ、ということになりそう。
ここまでまとめると、お母さんは、突発的な事故などでなく、たとえば、かなり自分の死期を悟るような、末期の状態と考えることができます。
そして、最後に、豊太郎を叱咤する…。
…偶然すぎません?このタイミング。これを偶然でないと考えるなら…。
そうですね。必然にするなら、お母さんは自死ではないのでしょうか。
お母さんは、官報で免官を知る。怒りに震え、お母さんは死をもって、豊太郎を正しい道に戻らせようとする。武士の家に嫁いだ妻ですね。
…もちろん、これは推測なのかもしれません。
でも、少なくとも、豊太郎は、
余は母の書中の言をこゝに反覆するに堪へず、涙の迫り来て筆の
運 を妨ぐればなり。
と書いているわけで、それは2年経った今でも、書けないほど悲しみを呼ぶ内容であることは間違いない。つまり、母の最期のメッセージ、豊太郎に意味を持たせるものとして、豊太郎がなんとかここに残って名誉挽回しようとするものとして、役割を果たしていくわけです。
母のメッセージによって、まことの我に目覚めた豊太郎は、もう一度強烈に、家や国に縛られることになるわけです。