国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

「舞姫」豊太郎の「恨み」に迫る8 ロシアでの活躍とエリスの手紙

「舞姫」は豊太郎を日本へと引き戻す動きが強くなっています。豊太郎自身はそれを嫌っているところもあるようですが、その動きを見ていくのが今日のポイントです。

前回のところで、相沢から日本に戻るための指針が示されました。豊太郎としては、まだ、そのことがいいかどうかわからないものの、その流れにまずはのってみることになるわけですね。徐々に徐々に、豊太郎が日本に戻るための流れができてくるわけです。

では、青空文庫です。

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で、今日扱うのはこちら。

 飜訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比ちかごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。
 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦あす魯西亜ロシアに向ひて出発すべし。したがひてべきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟とつさかん、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、そのし難きに心づきても、しひて当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。
 此日は飜訳のしろに、旅費さへ添へてたまはりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでのつひえをば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血のさがなりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。
 鉄路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし。身に合せて借りたる黒き礼服、新に買求めたるゴタ板の魯廷ろていの貴族譜、二三種の辞書などを、小「カバン」に入れたるのみ。流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護うしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がりいだしやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。
 魯国行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人ぜつじんたる任務つとめ忽地たちまちに余をらつし去りて、青雲の上におとしたり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞ゐねうせしは、巴里絶頂の驕奢けうしやを、氷雪のうちに移したる王城の粧飾さうしよくことさらに黄蝋わうらふしよくを幾つ共なくともしたるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤てうるたくみを尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。
 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎にふみを寄せしかばえ忘れざりき。余が立ちし日には、いつになく独りにて燈火に向はん事の心憂さに、知る人のもとにて夜に入るまでもの語りし、疲るゝを待ちて家に還り、直ちにいねつ。次のあした目醒めし時は、猶独り跡に残りしことを夢にはあらずやと思ひぬ。起き出でし時の心細さ、かゝる思ひをば、生計たつきに苦みて、けふの日の食なかりし折にもせざりき。これ彼が第一の書のあらましなり。
 又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深きそこひをば今ぞ知りぬる。君は故里ふるさとに頼もしきやからなしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めではまじ。それも※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはでひんがしに還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処いづくよりか得ん。いかなる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。たもとを分つはたゞ一瞬の苦艱くげんなりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令よしやいかなることありとも、我をばゆめな棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わがひんがしに往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管ひたすら君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。
 嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわがにぶき心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人ひとの事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
 大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えておもひ到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上のとりの如くなりしが、今は※(二の字点、1-2-22)やゝこれを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々しか/″\といひしは、大臣のかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
 嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。さきにこれをあやつりしは、わがなにがし省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。

 

相沢の忠告のその後~大臣の信用とエリスと別れるということ

相沢の忠告は、大きく分けて、「大臣の信用を得よ」、「エリスと別れろ」の二つです。もとより、豊太郎はエリスと別れる気は、すくなくとも決めたという意味では、ありませんが、このふたつがどのように動くかを見ていきましょう。

大臣の信用

頼まれた翻訳は一晩で終わります。さすが天才豊太郎くんですね。信用は確実に得ていきます。

 飜訳は一夜になし果てつ。「カイゼルホオフ」へ通ふことはこれより漸く繁くなりもて行く程に、初めは伯の言葉も用事のみなりしが、後には近比ちかごろ故郷にてありしことなどを挙げて余が意見を問ひ、折に触れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。

翻訳が終わったら、すぐ次の仕事を頼まれたのでしょう。カイゼルホオフへ通うことが多くなっていきます。大臣の言葉も幼児だけでなく、意見を求めることも出て来る。果ては、他人の失敗、つまり悪口まで豊太郎に言い出します。よほど信用しなければなかなか他人の失敗を共有することはできないでしょう。

そうこうしているうちに、話は次の段階に進みます。

 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦あす魯西亜ロシアに向ひて出発すべし。したがひてべきか、」と問ふ。余は数日間、かの公務に遑なき相沢を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に従はざらむ。」余は我恥を表はさん。此答はいち早く決断して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟とつさかん、その答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、そのし難きに心づきても、しひて当時の心虚なりしを掩ひ隠し、耐忍してこれを実行すること屡々なり。

大臣のロシア行きの随行を打診されます。ロシアについていく。すごいことです。大臣の信用をしっかり得たといえるでしょう。

しかし、ここで少し気になりませんか?豊太郎はこの問いかけを承諾したことに対して、なんだか、かなり言い訳をしているみたいなんですね。なんで、言い訳が必要なんでしょうか?

「いかで命に従はざらん」は、「恥」なんですね。とっさに「答えの範囲をよくも量らず」すぐにOKしてしまうんだと。信頼している人だと、どんな答えなのか、その意味も考えずとりあえずOKして、後でできないと思っても、我慢してやることがあるんだと…。

なんでロシアに行くことが、そんなに問題なんでしょうか?それは、ロシアに行くことは、ロシアに行くという答えだけではないからですね。

今、豊太郎に課せられているミッションは、大臣の信用を得ることとエリスと別れること。豊太郎はまだ、その答えを決めてはいません。

行きついたとしても満足があるとは限らない。そういっていました。捨てがたきはエリスが愛、でしたね。

だからこそ、豊太郎はまだ、どうするか決めていない。エリスを捨てて日本に帰るのか、それとも出世をあきらめこのままここにいるか、です。

よく考えれば、です。このロシアに行くということは、当然、エリスを捨てて日本に帰る選択にまた一歩つながることになります。

だから、豊太郎は言い訳をするんです。よく考えてなかった。もっというなら、エリスを捨てるって決めたわけじゃないんだ、と。

エリスとの関係

 さあ、一方エリスとの関係はどうなるか?今も書きましたが、エリスを捨てるなんて、決断はまだまだしていません。しかし、この状況で、エリスの置かれている状況が変化してきます。

 此日は飜訳のしろに、旅費さへ添へてたまはりしを持て帰りて、飜訳の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亜より帰り来んまでのつひえをば支へつべし。彼は医者に見せしに常ならぬ身なりといふ。貧血のさがなりしゆゑ、幾月か心づかでありけん。座頭よりは休むことのあまりに久しければ籍を除きぬと言ひおこせつ。まだ一月ばかりなるに、かく厳しきは故あればなるべし。旅立の事にはいたく心を悩ますとも見えず。偽りなき我心を厚く信じたれば。

エリスの妊娠がはっきりしてきます。「幾月か心づかでありけむ」というのは、「何カ月か気付かなかった」ということですが、これは明治二十一年の冬に「つわり」を疑ったことを考えれば、やや矛盾する表現です。もちろん、あのときは「冗談」だと思っていたという解釈もできなくはないですが、やはり無理がありますね。

さて、ともかくも妊娠がはっきりします。そのことで、クビになってしまうんですね。まだ一カ月しか休んでないのに、こんなに厳しいのは理由があるのだ、と豊太郎は書きます。

わかりますか?座頭は、あのシャウムベルヒですからね。恨んでるんです。エリスのこと。

豊太郎が日本に帰る道に、無意識のうちにのってしまった一方で、エリスは

  • 子どもができる
  • クビになり、収入がなくなる
  • 豊太郎が唯一の頼りになる

というむしろ逆の動きになっていくんですね。

 

 ロシア行き

こういう状況の中で、豊太郎はロシアに行きます。だから、エリスが心配で仕方がない。

流石に心細きことのみ多きこの程なれば、出で行く跡に残らんも物憂かるべく、又停車場にて涙こぼしなどしたらんには影護うしろめたかるべければとて、翌朝早くエリスをば母につけて知る人がりいだしやりつ。余は旅装整へて戸を鎖し、鍵をば入口に住む靴屋の主人に預けて出でぬ。

エリスからすれば唯一の頼りの豊太郎がいなくなるわけですから、泣きくずれてしまうことも予想されます。だから、もう先に知っている人のところに母とともに行かせる。

さて、豊太郎君の活躍は以下の通り。

 魯国行につきては、何事をか叙すべき。わが舌人ぜつじんたる任務つとめ忽地たちまちに余をらつし去りて、青雲の上におとしたり。余が大臣の一行に随ひて、ペエテルブルクに在りし間に余を囲繞ゐねうせしは、巴里絶頂の驕奢けうしやを、氷雪のうちに移したる王城の粧飾さうしよくことさらに黄蝋わうらふしよくを幾つ共なくともしたるに、幾星の勲章、幾枝の「エポレツト」が映射する光、彫鏤てうるたくみを尽したる「カミン」の火に寒さを忘れて使ふ宮女の扇の閃きなどにて、この間仏蘭西語を最も円滑に使ふものはわれなるがゆゑに、賓主の間に周旋して事を弁ずるものもまた多くは余なりき。

舌人=通訳ですが、ものすごい活躍ぶりですね。「氷雪のうちに移したる王城」と書いてありますが、その描写は、要は貴族社会、社交界、セレブのパーティです。ここでフランス語をもっとも話せる豊太郎が、一番、賓主に対して話すことになる。まさに、日本を背負う男、太田豊太郎の面目躍如ですね。

 

エリスからの手紙

しかし、こうした間も豊太郎はエリスのことを忘れませんでした。いや、忘れることができませんでした。

 この間余はエリスを忘れざりき、否、彼は日毎にふみを寄せしかばえ忘れざりき。

エリスは毎日手紙を書いていたんですね。LINEやメールならわからなくもないし、携帯電話ならわからなくもないけど、明治の手紙の時代ですからね。結構おそろしいです。

ドイツからロシアに手紙がどのくらいで届くんだ、というつっこみはありますが、まあ、気にしないことにしましょう。届かないはずだ、と言っても、届いたと書いてあるわけだし、実際には届かないんだとしても、物語としては届いているわけですから。

一通目はおいておいて、「又程経てのふみ」について、考えてみます。

 又程経てのふみは頗る思ひせまりて書きたる如くなりき。文をば否といふ字にて起したり。否、君を思ふ心の深きそこひをば今ぞ知りぬる。君は故里ふるさとに頼もしきやからなしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めではまじ。それも※(「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1-84-56)かなはでひんがしに還り玉はんとならば、親と共に往かんは易けれど、か程に多き路用を何処いづくよりか得ん。いかなる業をなしても此地に留りて、君が世に出で玉はん日をこそ待ためと常には思ひしが、暫しの旅とて立出で玉ひしより此二十日ばかり、別離の思は日にけに茂りゆくのみ。たもとを分つはたゞ一瞬の苦艱くげんなりと思ひしは迷なりけり。我身の常ならぬが漸くにしるくなれる、それさへあるに、縦令よしやいかなることありとも、我をばゆめな棄て玉ひそ。母とはいたく争ひぬ。されど我身の過ぎし頃には似で思ひ定めたるを見て心折れぬ。わがひんがしに往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる。書きおくり玉ひし如く、大臣の君に重く用ゐられ玉はゞ、我路用の金は兎も角もなりなん。今は只管ひたすら君がベルリンにかへり玉はん日を待つのみ。

 結構すごい手紙です。

手紙が「否」から始まるとありますが、英語で言えば、「No」でしょう。もうだめ~とはじまるって結構すごい演出です。

彼女がまず、感じることは、自分が豊太郎なしでは生きていけないこと、そして、豊太郎が自分から離れようとしているのではないか、ということです。豊太郎は、さっきも書きましたが、大臣とロシアに行くという返事はよく考えてないんだ、なんていうわけですが、エリスの方はそれを敏感に感じ取るわけです。

で、提案が始まります。

豊太郎の抱える課題を解決する提案をする、大プレゼン大会のようなものですね。

  1. あなたは日本に親族がいないといっている。(たった一人の肉親のお母さん、なくなったのよね)だから、ドイツにいい生活のつてがあるなら、残らないはずがない。私の愛もあるし。
  2. でも、それでもあなたが、日本に帰るというなら、日本にいくための旅費が問題になる。豊太郎さん、私、子ども、そしてお母さん。心配よね。
  3. でもね、私、あなたとは別れないのね。どんなことをしても私別れないのね。でも、あなたと別れてから、別れることになるんじゃないかなって思うのね。
  4. 私の妊娠が「ようやく」はっきりしたの。それ「まで」あるんだから(私の愛だけじゃなくてね)私のことを決して捨てないでね。
  5. 話戻すわ。お母さんね、ステッチンあたりに遠い親類がいるから、そこに預けることにしたの。結構抵抗されたんだけど、私が昔と違って、もう折れないって、もう無理って思ったみたい。だから、安心して。日本に行く旅費は私と、生まれてれば子供だけだから。そのくらいなら大丈夫でしょう。
  6. あとはあなたがかえってくるだけよ。

すごいでしょ?全部、先読みして、打てる手は全部打ったわけです。その合間にはさむ、子供いるんだから捨てられないわよ、っていうのが、すごいですよね。

さあ、全部手を打ちました。エリスが考える最善の手です。では、豊太郎はどう思うんでしょうか。

 

エリスの手紙を読んではじめて気がついたこと

 豊太郎は書きます。

 嗚呼、余は此書を見て始めて我地位を明視し得たり。恥かしきはわがにぶき心なり。余は我身一つの進退につきても、また我身に係らぬ他人ひとの事につきても、決断ありと自ら心に誇りしが、此決断は順境にのみありて、逆境にはあらず。我と人との関係を照さんとするときは、頼みし胸中の鏡は曇りたり。
 大臣は既に我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが尽したる職分をのみ見き。余はこれに未来の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えておもひ到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶ほ冷然たりし。先に友の勧めしときは、大臣の信用は屋上のとりの如くなりしが、今は※(二の字点、1-2-22)やゝこれを得たるかと思はるゝに、相沢がこの頃の言葉の端に、本国に帰りて後も倶にかくてあらば云々しか/″\といひしは、大臣のかくのたまひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が軽卒にも彼に向ひてエリスとの関係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
 嗚呼、独逸に来し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の糸は解くに由なし。さきにこれをあやつりしは、わがなにがし省の官長にて、今はこの糸、あなあはれ、天方伯の手中に在り。

このエリスの手紙を見て「はじめて我が地位を明視し得たり」です。この手紙ではじめて自分の立場がわかったと。

じゃあ、何がわかったか?

このあと、豊太郎は長々としているの言い訳です。

大臣は私を信頼している。私は「近眼」で、見ていたのは自分の仕事、役割だけ。そこに未来の望みをつなぐことは、神も知っているだろうけど、まったく考えていなかったと。

なんですかね。この言い訳。

豊太郎が言いたいのは、自分は大臣に頼まれたことをやっていただけで、それが帰国とか出世とかにつながるとは考えていなかったということ。だから、近眼なんですね。先を見ているわけではないから。

もちろん、そうなれば出世して帰国することは当たり前かもしれない。考えればわかるかもしれない。

でも、そんなこと考えてやっていたわけではない。自分を信頼してくれる人がいる。その人が自分に仕事や役割を与える。それをやっているだけで、その先のためにやっているわけではない。

もっと豊太郎よりに説明するなら、エリスを捨てるという未来がわかって働いていたわけではない。まだ決めてないんだ、ということですね。

でも、エリスからの手紙で気がついたんです。あ、おれ、帰るんだって。そういう方向に今いるんだって。で、気がついたんです。これ、エリスと別れないといけないんだって。

だって、無理ですもん。連れて帰るの。大臣に相沢は、あの話、エリスと別れるっていうあの話をしたに違いない。だから、こうなってるんだって。

というわけで、豊太郎くんの心は「冷然」としていただろうか、いやそんなわけはないんです。

よく考えてみれば、豊太郎くんは個人の意思とか、自由とか、そんなものはもったと思って、実はまったくそうなっていない。官長であり、大臣であり。結局豊太郎くんは個人の意思や主体性、自由になんて生きていないんだ、そんなことに気がつくわけです。

ともかくも、豊太郎くんは自分の置かれている状況に気がつきました。

ここからは、ひとつひとつの行動に意味が出てくる、言い訳ができなくなってくるわけです。