国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

「舞姫」森鴎外 豊太郎の「恨み」は憎む心 出発点と鴎外の遺書 「それから」「こころ」と漱石

ようやく「舞姫」はまとめになります。もしかしたら、長くなるかもしれませんが、「恨み」と相沢を憎む心、出発点としての「舞姫」から鴎外の遺書、そして漱石の生き方と作品とを対照させてまとめます。

前回、「舞姫」が帰る前提の物語だというところまで書きました。そこから相沢を憎む心の正体に迫ります。そして、そういう出発点から森鴎外の小説家の人生が始まり、それとは対照的な漱石の人生と、そして「こころ」をもとにして、近代という時代を考えて見たいと思います。

 

豊太郎を無理矢理帰らせるために、豊太郎が失ったものとは?相沢を「憎む心」とは何か?

前回、「舞姫」の無理のあるラストは、豊太郎をなんとか帰らせるためではないかということを考察しました。

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そして、もうひとつ、「弱き心」というのは、実は優柔不断な決められない心のことではなく、いやしい女などに心を動かされることなのではないかと書きました。

事実、鴎外自身が、「もし意識不明にならず、もしエリスが狂女とならずにいたなら、豊太郎は残ったかもしれないし、あるいは申し訳が立たずに自殺したかもしれない」と石橋忍月に反論したことも紹介しました。

それを踏まえて、今日は「恨み」と「憎む心」を考えます。

手記を書き始めた豊太郎には「恨み」があります。物語を読み終えてみれば、これは、エリスがあのような形になったこと、あるいはこうして日本に帰ってきていること、こうした恨みであるということになるでしょう。それを消えるとは思わないけれど、何とか消したいと思って文章にしたものは、最終的に、親友であるところの相沢を「憎む心」にいたるわけです。

どうして、これが友を憎むことになるのでしょうか。

みなさんの一番多い疑問は、「どうして自分のやったことを友達のせいにするのか」というようなことです。

この間の「弱き心」の内実は、実は相沢の価値観からすれば、「家と国のような重要なものに比べて、女なんかに心を奪われる弱い心」なのではないかと書きました。つまり、現代の私たちが、「エリスを選ぶべきでしょ!」と主張しても、相沢からすれば、それは「弱き心」なのではないでしょうか。いくら、あなた方が強い心で愛を選択したとしても。

つまり、豊太郎が憎んでいるのは、「愛」というものに価値をおかない、あるいは個人の自由というものを無視するような生き方であるのかもしれません。

でも、それだけなら、エリスを選べばよかった。みなさんの言うとおり、大臣と日本に帰るなんて言わなければよかっただけの話です。

みなさんと違うのは、まず、この二つの間で揺れていること。どちらかを選ばなければいけない、なんてことは現代では少ない。基本的には、両方選びます。この場合の両方は、あくまでも「仕事」と「恋愛」です。そして、それは自分が決めること。当たり前です。個人の生き方の問題ですから。

しかし、豊太郎の場合は、「仕事」と「恋愛」でなく、「家・国」と「個人」です。どちらを選ぶかでさえないんです。だって、「選べない」か「選ぶ」かですから。

母の遺書によって縛られ、官長によって縛られ、大臣によって縛られる。そして、相沢によっても。縛られていないと思っている現代のぼくたちは、よくわからない。なんで自分で決めないんだろう。弱い心の持ち主だなあ、という感じ。

豊太郎は、自分の意志を封じ込めるか、それとも自分の意志にしたがっていきるか、という選択だったんです。この二つで迷う。

でも。

じつは、この迷いさえも、許されなかった。なぜなら、意識不明になっている間に、相沢が話をし、そしてエリスが狂女となって、何もかも終わっていた。つまり、選ぶことさえできなかったんです。

本当は彼自身が、どんな形であれ、向き合い、そして、決められたはずなんです。どんな無様な結論であれ、自分で決めることができたはずなんです。

しかし、相沢的な価値観は、現実には、そのことさえもさせなかった。決めることさえできずに決まっていたわけです。

個人の自由というか「個人」という言葉が当然の私たちにはここが理解できない。豊太郎は、自分で決めたい、自分として生きたい、自分は…と思いながら、家や国と向き合い、悩みながら結論を出そうとして、じつは自分でそれを選ぶことさえ許されなかった。

これが、相沢を憎む心ではないかと私は思うのです。

現代の私たちは「家」や「国」を背負っているのか?

 

こういうことが現代の私たちに理解できないのは、当然、家や国を背負っていないからです。

仮に、夫とか親とか子とか、そういうものを背負っていたとしても、同時に個人というものは、そんなものよりも強く根っこにあって、自分を犠牲にするか、役割を演じるか、期待に応えるか、そういうことさえも、自分の意志、つまり、個人という根っこによって決定するわけです。

現代でも、他者のために身を投げ出すか、あるいは自分を中心に、自分のことを考えて生きるかというような問題は当然あります。

社会保障や福祉やボランティアなどです。もちろん、子育てや介護もそうでしょう。でも、それさえも、自分が決める。自分の意志として、自己表現として、自分の生き方は自分が決める。あるいは、自分が生きたいように生きられない社会環境に対して、憤ることもあるかもしれません。でも、その「憤る」ことさえ、「自分が決めるはずなのに」という前提があるから、できることなのです。

豊太郎は、この前提がない。もっと当たり前のように、家や国に縛られる。もちろん、それは苦しいのだけれど、憤るところまでいかない。だから、怒らないし、最後まで「憎む心」にいかないんです。

それが現代の個人として生きることが当然のぼくらからすれば、「弱い」と見えるわけです。

でも、相沢が言っているのはそうではなくて、「家や国が大事なのに、愛なんかを選ぶのが弱い」んです。

あれ、ちょっと気が付きましたか?

この手記を書くことによって、豊太郎は相沢を憎みます。それは、個人として生きることが当然なのに、個人として生きられないときに「憤り」を感じる現代の私たちにちょっと通じるものがあります。

むしろ、豊太郎は、このことによって、私たちのような個人の輪郭をはっきりつかんだのかもしれません。ただし、個人としては彼は生きない。国のために、家のために、愛をエリスを捨てて生きる道の中で、押し殺した個人が彼の中ではじめて息づいたのです。

 

「こころ」の先生とKは何を背負っていたのか?

この感じ、ちょっと思い出しません?そうです。「こころ」の先生とKです。

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彼らは、ある意味では逆なのですが、個人として生きる常識の中を生きています。だから、養子になっても自分の生き方を貫くし、好きな人は自分が決め、その人と結婚するのが当たり前だと思っています。つまり、豊太郎が到達したものは最初からもっているといってもいいかもしれません。

けれども、問題を抱えた。

なぜなら、彼らは現代人にはない「倫理観」を持っていたからでした。

個人として生きれば、ある程度他者が犠牲になるのは当たり前です。三角関係という言葉がありますが、誰かが誰かを選べば、誰かははじかれるんです。

片思いばかりの人は、常に三角関係なんですよ。自分に三角関係なんていうドラマみたいなことはないのではなく。だって、三角関係って、AさんをB君とC君が好きで、Aさんはどっちかが好きなんでしょう?常に一組の両思いと一人の片思い、なんです。まさか、BくんはAさんが好き、でもAさんはC君が好き、だけどC君はBくんが好き…なんて思ってないですよね?まあ、現代ではこれも成立しますが…。

こうした中で傷つくのは常に、はじかれた人です。得る人からすれば、現代の欲望は、「他者が欲するもの」であり、他者は常に「自分の欲望のために、必要としながら排除される存在」であるといえます。現代では、戦いに敗れた人が退場していくわけです。

しかし、「こころ」では、勝者が退場する。これは、「倫理観」。つまり、他者をおしのけることに抵抗があるわけです。なぜなら、自分の一部が社会や家や国やそういうものとつながっている以上、個人として生きることに罪悪感を感じるからです。

そうです。みなさんが考えていた「舞姫」のラスト。つまり「エリスを選んでドイツで暮らす」という結末は、見事に漱石が描いてくれています。

鴎外も書いていました。エリスを選んだら、豊太郎はおそらく自殺をするんです。なぜなら、母や友や大臣に申し訳が立たないからです。

これ、理解できますか?雰囲気はわかっても、私たちなら実は、そんなラストは書けませんね。下手すればハッピーエンドを書きかねないんです。

そう考えてみると、「舞姫」と「こころ」はきれいに対照をえがいています。

社会と個人のはざまで、社会を選ばせ、個人を捨てさせ、そういう思いを持って、「生きる」ことをはじめる出発点としての「舞姫」

社会と個人のはざまで、背負う家がない人間が躊躇なく個人として生き、社会的な道徳観に苛まれ、「生きる」ことを終わらせる到達点としての「こころ」

という図式です。

 

出発点としての「舞姫」~家長としての鴎外の遺書

「舞姫」は処女作です。個人として目覚めさせながら、その個人を押し殺させて、家や国のために生きるという決意が書かれます。奥底にひめた憎しみとともに。

これが森鴎外の出発点とも私には思えます。

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家長としての鴎外の出発点。

森鴎外は家長です。長男として森家を背負います。だから、彼は自由には生きられません。詩人、小説家として、素晴らしい成果を彼はあげていきますが、彼は最後まで陸軍軍医です。森家を捨てて、名誉を捨てて生きることはできません。

でも、もしかしたら、彼の心の奥底には、本当は生きたいように生きるという願望と憎しみがあるのかもしれません。

さて、有名すぎる鴎外の遺書です。

余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス  大正十一年七月六日
        森 林太郎 言
(拇印)
        賀古 鶴所 書

  森 林太郎
      男     於莵

       
友人
         総代
   賀古鶴所
            
以上

何かと現実の鴎外の人生と比べられることの多い「舞姫」ですが、ここまで見た通り、完全なフィクションです。エリーゼが追いかけてこようが、賀古鶴所が相沢のモデルであろうが、フィクションでしかありません。ただ、描いた思いは真実です。

鴎外は遺書で、「石見人森林太郎」として死ぬことを望みます。陸軍軍医としての式典や肩書、そういったものは全て辞退する、墓には「森林太郎の墓」のほか一字も彫ってはならぬ、と書き記します。しかもかなり強い口調で。

「舞姫」を読むと私は思います。

そりゃそうだよな。個人としての思いを胸に秘めながら、我慢して、家のため、母のため、国のために、押し殺すって決めたんだから。死ぬときぐらい、ただの自分として死にたいって思うよな。

それは想像もできないような我慢と忍耐で、すごいことだと思うんです。

到達点としての「こころ」~捨てられた漱石の最期

漱石は、末子として生まれ、すぐに養子に出されます。要らない子とさえ言えるでしょう。そして、挫折に挫折を重ねる。英文学者にもなれず、都落ちし、背負うものもないから、勝手に生きて、個人として生きるけど、成功もなく、しがらみもなく、そういう人生のように見えます。

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「こころ」当初のタイトル「先生の遺書」は、漱石の到達点。

当然のように、漱石は主人公に、思いのままに行動させます。「それから」の代助は、物語の前提としてはあきらめていますが、物語の中であきらめたはずの人妻、親友の妻の三千代に、結局はあきらめきれず思い通りに行動します。しかし、人妻を奪い取るということは、当時の社会から許されることではなく、働かざるを得なくなる。それが「それから」のラストであり、また「門」では、そういう過去を抱えた二人が人目をさけるようにひっそりと生きる姿が描かれます。

「こころ」は読んだ通りです。人妻を奪い取るのでなく、三角関係の中で奪い取るだけで、問題はより深く現代との違いをつきつけます。「それから」が共感できても「こころ」でなぜ先生が死ぬかはわからない。なんだか古臭い人間が時代遅れのように死ぬ物語に見えますが、そうではないというのはずっと書いてきたつもりです。

もし、家を捨てて思い通りに生きたら…鴎外は思いをはせたかもしれませんが、漱石が描くのは結局不幸です。社会に生きるべき、その道徳観から、結局は自分が許せなくなる。

漱石は、おそらく最後に地位を築き、しかし文壇での地位を得るためには、ここを頂点として、そのあと自然主義文学者に評価されます。「道草」であり、「明暗」ですね。ここで、おそらく自分を封印した。しかし、そこまで彼が描いたのは、背負わなかったからこそ、個人の意思決定ができ、そしてその意思決定がもたらす苦しみだったわけです。

その漱石は、Kが眠っているところの雑司ケ谷霊園、池袋のサンシャインシティの裏ですが、そこに結構立派な墓石とともに眠っています。

なんだか、最初から最後まで対照的だけど、実はまったく同じテーマを書いているんじゃないかっていうのが本当に興味深い。

二人の文豪は、進むも退くも地獄だよ、と教えてくれている気がします。

 

「近代」と「個人」をどう見るのか?

教えてくれる、と書きました。

当時の人でさえ、おそらくこのメッセージはわからなかったのだと思います。

「舞姫」に対し、石橋忍月は、愛をとるべきなんだと叫びました。

「こころ」では、若い「私」に、わからないだろうけど血を浴びせかけるんだと漱石は書きました。

だから、個人というものが当たり前の価値で、社会や国との結びつきを失った私たちは理解することができません。

理解できなければ不幸ではないのか?片方に、個人的な思考を手に入れてしまえば、迷わず、突き進むことができるのか?

そうではないと二人の文豪は言っている気がします。漱石の「現代日本の開化」ではないですが、気付いていないだけで、実は何も変わらない。

先生が何をおそれてひっそり暮らしているか理解していない若い「私」と何も変わらないんです。

私たちはどんなに、個人として生きようとしても、その個人の欲望や意志は、実は他者によってつくられています。そして私たちは他者の他者としての自己を生きています。なんだか東大の現代文ポリシーみたいになってきました。これもやらないとなあ…

戻ります。

他者に自分が形作られて、他者の他者として存在しているとするなら、能天気に生きている「こころ」の「私」みたいなものであって、いつか私たちはたたずむしかないのではないか…

たとえば震災があったら。たとえば老いていったら。たとえば貧困におちいったら。たとえば病者になったら。たとえば子どもであったら。

でも、私たちは、他者には、自己の個人としての自由を主張し、他者の他者としての自分には思いをはせられない…。

現代だからこそ、こういう作品をきちんと読む価値があると思うんですが…。

「こころ」を三角関係で、恋愛だけで理解し、「舞姫」で豊太郎に文句を言って、「仕事か愛か」議論するような授業だとするなら、大変だなあと思うしだいです。

 

というわけで、ひとまず終わり。

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