国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

読むだけ現代文! メディア・イズ・メッセージ メディアが「私」を作る その1

読むだけで現代文の学習を進めるシリーズ、今回のテーマは「メデイア」です。メディアはただの中継点でなく、メディアが私たちを作るのだという話です。

今日のテーマは、メディアです。言語と過去まで扱ったところで、これから徐々に社会科学的なテーマに入っていきます。

 

今日のテーマが出題される学部系統

今日のテーマは、センター試験などの全学部系統、立教とか東洋とかのラインです。学部でいうと、商学部、経営系統と文学部系統も比較的でやすいところだと思います。

比較的、どの学部でも扱いやすいテーマですので、頭に入れておいた方がいいと思います。

メディアとは何か~メディア・イズ・メッセージ

「メディア」というのは、「仲立ち」「媒介」「媒体」です。一番わかりやすいのは、「中継点」ということだと思います。

Aという場所からBという場所に、「情報」Xが、伝達されるわけですね。その情報Xを伝達するのが「メディア」です。たとえば、このブログによって、情報が伝達されるとすれば、このブログが「メディア」ということ。もっと書き進めると、これをたとえば授業であるとします。

そうすると、情報Xが、私からあなたへと伝達されるわけですね。その方法はたくさんある。たとえば

  • 現実の、リアルな授業を通して。
  • 参考書という形を通して。
  • ビデオ教材という形を通して。
  • ブログという形を通して。

などなど。音声だけか、映像か。録画か生中継か。テレビかネットか。など、同じようなメディアでも厳密にいえば、様々な違いがありますね。

これがメディアです。会って話すのも、メディアなら、こうしたブログもメディアです。

このように考えると、メディアというものには、価値がないように感じます。重要なのは情報であって、何を仲立ちとして、媒介として伝わるかということは、情報そのものに影響を与えないように感じるからです。

大事なのは情報。何で得るかは関係ない。

そういうことですね。

でも、マクルーハンという人が、そうではないと言いました。それが「メディア・イズ・メッセージ」という言葉に集約されます。「メディアこそが情報なのだ」ということでしょう。

もっというと「人間にとって重要なのは「何を見たか」ではなく、「何によって見たか」である」ということになります。情報そのものより、メディア、何を通してその情報を得たかが人間を決定していくということです。

 

メディアがどんな私たちをつくるのか?

ちょっとイメージできないですね。

例えていうなら、内容が道徳的か暴力的かということ以上に、本で読んだかテレビで見たかの方が、人間の形成に影響する、というようなことです。

にわかには信じられないですよね?

では、どんなことを言っているのか、実際にどんなことが考えられるのか考えて見ましょう。

活字印刷以前と活字印刷

まずは、活字がなかったころと活字印刷がある時代を比べてみましょう。これはかなり重要な視点ですね。

このあたりの感覚で言うと、中世から近世、近代という大きな違いになります。

たとえば、印刷技術がない、ということをイメージしてみましょう。印刷できないということはどうやって、書いたものを共有していたでしょうか。

そうです。書くしかありません。

写本ですね。

だから、大量に回るということがないんです。これはいろいろな意味で社会のありようを変えます。

印刷技術がないという以上、書くしかありません。でも、そもそも文字を書ける人が少ない。なぜなら、文字自体が出回らないからです。だから、書ける人が少ない。だから、字が出回らない。

これが印刷技術が出回った途端、どうなるかといえば、字が大量生産され、だからこそ、庶民レベルでも普通に字が読めるようになる。ということでもあるんです。

さて、いずれにせよ、活字印刷ができたことによって、大量の文章が世の中に回るようになります。それを受け取った人が読む、という今からすれば当たり前のことが起こるわけです。

逆にいえば、それ以前は字が読める人がいなかった。だから、本は、声に出して聞くもの、であったわけです。しかも、聞くのは「みんな」。字を読める人も決して多くはないし、写本である以上、その本も大量には出回らないから、その貴重な本を、誰かが朗詠し、みんながそれを聞く、というようなものになるわけです。

当然タイムリーなものではないし、読む時の、読み手の解釈によって、どのような作品になるかも変わってくるわけです。それを、聞き手は受け取る。演劇に近いかもしれませんが、そのリアルな、生の、直接の体験として、その場にいた人だけが受け取っていくわけですね。

それを活字と比べて考えてみましょう。

活字によって大量に本が出回るようになると、個人がそれぞれ本を持つことができるようになります。

すごくわかりやすくいえば、

「誰かの所へ行ってみんなと一緒に知識を得る」という形態から、

「自分の家で一人で知識を得る」という形態に変わるわけです。

これが近代の「個人」という発想を作るのに貢献したのではないか、というようなことです。だから、「メディアが自己を作る」ということです。

失われたのは、集団性だけではありません。声とか、読む人の表情とか、そういったものも失われます。抽象性が高くなる。具体的なイメージを助けるようなものが消えて、抽象的な概念で物事を理解するようになる。活字印刷の文字には、もちろん、フォントというようなイメージはありますが、少なくとも筆跡から「怒っている!」とか「かわいい」とか「病気なのかな?」とか「だらしない」とかそういう情報を読み取っていたことに比べれば、イメージが消えていくわけです。

単純に抽象化された概念だけを受け取るようになる。メディアが無色透明になっていく。伝える人の存在が消えて、概念だけが存在するような感じになる。

これが抽象的な概念で物事をとらえる思考法を助け、そして、その情報そのものが重要であるように感じさせるようになったというわけです。

活字以前の場合を考えれば、たとえばその情報に疑問があったとするなら、その場で質問をすることができます。授業と一緒ですね。先生が情報の発信者ではないにしても、中継者としての先生に、疑問点をきくことができます。

つまり、授業は、「双方向」「インタラクティヴ」であるということです。

ところが、活字印刷になれば、それは一方的に情報を受けるだけになるわけです。

 

活字印刷とテレビ

こうした活字印刷は、一度に大量の情報を、しかも大量の受け手に流すようになるわけです。しかも、本来、メディアとして中継しているはずの、情報の発信者の存在が消えている。で、一方通行です。

これは、主張というか、扇動というか、そういったものに適するメディアだということです。

イメージでわかりやすいのは、新聞とか教科書がわかりやすいでしょう。書かれていることは、「事実」であり、それが書かれていると思っているわけですが、実は僕らからは見えない透明な「書き手」がいるわけですね。

その人の目を通して、はじめてそれは書かれている。書き手の判断や意見や感想が、そこにはあるわけですが、実はぼくらはそれを意識していないわけです。まだ、「本」たとえば「小説」であれば、書き手を意識することもあるんですが、新聞とか教科書とかだと、書き手が透明になって消えて、「事実」として残る傾向にあるんです。

わかりやすいのは、太平洋戦争の大本営発表ですね。

実際は誰かの目を通して、誰かの主観で書かれたのに、それは事実であるかのように扱われていく。しかも同じ情報が大量に、みんなに同時に渡っていく。

これが扇動的なメディア、マクルーハンのいうところの、ホットなメディアというわけです。

ところが、20世紀に入ると、テレビが登場します。

テレビは、言語を越えます。誰かが解釈を与える前に、そのものがそのまま視聴者に届けられる。新聞なら日本語の新聞は日本人が解釈し、中国人向けには中国人が解釈を与えているわけだけれど、映像ならありのままを視聴者が判断できるわけです。

視覚や聴覚や場合によっては触覚のような身体感覚もふくめて、テレビは、全体的な感覚を復活させるわけです。

たとえば、活字であるならば、抽象化された言葉の意味だけが、必要とされるわけです。意識されるといってもいいですね。

でも、テレビだとすれば、演説の雰囲気、表情や服装などの視覚的な印象、言葉の抑揚、会場の盛り上がり…そういったすべてが、解釈に関わってくるわけです。

誰かが解釈を与える前に、まるでその場に参加しているかのような感覚で、自らが参加し、全感覚を使って、解釈をしていく。

マクルーハンは、これをクールなメディアとよび、このテレビによって、世界はまた再び部族的な共通感情を持つのだというわけです。

消えていた語り手の主観を疑い、自らが判断に参加していく。このことによって、メディアは双方向的な感覚を取り戻すということですね。

テレビからネットへ

でも、果たして、本当にそうか、と言われれば、それはそうではありません。

それはすぐに気付く話ですよね?

活字印刷には書き手がいて、ここに書き手の解釈が入り込む。でも、テレビは、言語の枠を越え、主観による解釈が入り込む前に、受け手に情報が入っていく。解釈をするのは、情報の受け手だと。これがマクルーハンのメディア論ですね。

テレビが活字に比べれば、リアルタイムで、そして、活字に比べれば捨象されにくい、というのは本当でしょう。でも、送り手の解釈がない、というのはどうでしょう?明らかに編集が存在します。カメラマンが何を写すか、何を切り取るか。そしてどう編集するか。

場合によっては、音楽やテロップという形の演出も存在すれば、そもそも映像をねつ造することだってできるわけです。

今の時代、テレビに編集があることなんて、誰でも知っています。

 確かに映像は真実に近いし、言語の壁も越えるし、そもそもインパクトがあるけれど、それはそれで、新たなフィクションを作っているわけですね。伝える側が作るストーリーがあるわけです。

そして、活字以上に、映像を発信するのは、「特定の誰か」であって、そして、私たちはその情報をひたすら受けるしかない。マクルーハンは視聴者に参加の余地があるといいましたが、実際には、編集された情報をひたすら受け取るしかないわけです。

そういうことを考えてみたとき、双方向になるメディアといえば、インターネット、Webですね。活字印刷以降、情報の受け手でしかなかった私たちが、ようやく情報の発信者になることを可能とするわけです。

私たちは、大手のテレビ局や新聞社と同じように、情報を発信することができる。たとえば、活字印刷で考えてみても、本になるかどうかというのは、出版社に権限がある。自費出版したところで、流通しなければ読んでもらうことはできません。

ところが、ネットであれば、まず流通させることができる。私たち、個人が全世界に向けて、情報を発信することが可能になったわけです。

 

ネットからSNSへ

この「ネット」というイメージはわかりにくいかもしれません。なぜなら、今は、そこからまた一歩も二歩も進んだからです。

大きな違いはSNSですね。機器としていえば、wifiとスマホでしょう。もともとはPCで回線をつないでアクセスしていたわけで。

そのとき、私たちは「ホームページ」というものを個人で作成できるようになりました。これで企業と対等になったと…。

今から考えれば、ものすごい幻想です。たとえば、個人ががんばってページを作るのと、企業がページを作るのとでは、まったく違う作業量です。

お金さえかければ、デザインもページ数も、そこからひろがるサービスも変わっていくわけです。たとえば、インターネットの掲示板から生まれたストーリーに、「電車男」というのがありましたね。若い人はわからないと思います。

インターネットの掲示板で、「電車男」を名乗る男性が出会った「エルメス」さんとの恋愛を相談して、周りの人たちが書き込んでアドバイスして、最終的にうまく言ったというもの。書籍化され、ドラマ、映画にもなっています。

こうしたことって、本当なんだろうか?確かに書き込みはリアルタイムで進行しましたが、誰かが役を割り振って、そのあらすじの通りに、役者が書き込んでいたのではないのか?そんな疑念だって生まれてきます。

そうなんです。テレビと同じ。より双方向性でリアル度が増すネットだって、向こう側にどんな作為があるかはわからないわけです。特にホームページだとするなら、企業と個人が対等にはなりません。

そして、スマホとWIFI、SNSになってようやく、個人の点と、企業の点がだいぶ等価になってきた…といいたいところですが、さっきのような疑念があるとするなら、その個人に見える「つぶやき」は果たして、本当に作為のない個人のつぶやきなのか?

たとえば、「食べログ」のやらせの問題にしても、amasonのレビューの問題にしても、あるいは、twitterから始まったと言われる「アラブの春」にしても、本当に背後に、作為はないのかと考えることが必要になっています。

ただ、間違いなく、個人はメディアになりました。

偽の情報をリツイートしても、問題のある動画を拡散しても、私たちは、私たちというメディアを通して情報を受け取ります。このように、個人が情報を受け渡す中継点としてのメディアになったということはまた、個人のありようや社会との関わり方が変わるということなのです。

近代では、ある意味で扇動された中で、その熱狂の一人として大衆の中の一人として、存在していました。でも、そこでは社会に対する個人であったり、政府や権力に対する個人という構図がまだあったのかもしれません。

でも、現代のメディアにおいては、個人はどんどんメディアそのものとして、融解してしまっている。情報を渡す存在としては、大きな役割を持ちながら、個人そのものは融けて消えていく。そして、そもそも、敵として向かうべき対象がどこにあるのかわからなくなっていく中で、はっきりとしたよりどころやはっきりとした敵を欲する傾向にあるといえるのかもしれません。

この項目はだいぶ長くなったので2回に分けることにします。

 

www.kokugo-manebi.tokyo

www.kokugo-manebi.tokyo

www.kokugo-manebi.tokyo

www.kokugo-manebi.tokyo

www.kokugo-manebi.tokyo

www.kokugo-manebi.tokyo

www.kokugo-manebi.tokyo