授業で扱った教材を読んでいくシリーズです。源氏物語、若紫に入ります。
ここまで、古文読解シリーズはいくつか展開してきました。
高1教材の土佐日記
伊勢物語 つくも髪 これは私が授業でやっているだけで載っていないですね。
大鏡の花山院の出家
枕草子 中納言参り給ひて
源氏物語 桐壺
こんな感じでやってまいりました。
というわけで、今日は若紫です。
まずは本文をしっかり読もう!一気に最後まで読む!登場人物は何人?そして場所の関係は?
それでは、本文です。
まずは、最後までしっかり読んで、「わかるところ」を探しましょう。「わからない」ところは無視します。辞書や参考書は使ってはだめです。
登場人物や何が起こったか、場所とかもイメージできるといいですね。
日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光朝臣とのぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見給ふ。
清げなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
「何ごとぞや。童べと腹立ち給へるか。」とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ。」とて立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし。
尼君、「いで、あな幼や。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く。」とて、「こちや。」と言へばついゐたり。
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと、目とまり給ふ。さるは、限りなう心を尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れるが、まもらるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる。
尼君、髪をかき撫でつつ、「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかで世におはせむとすらむ。」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
またゐたる大人、「げに。」とうち泣きて、
初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに、僧都あなたより来て、「こなたはあらはにや侍らむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の、瘧病みまじなひにものし給ひけるを、ただ今なむ聞きつけ侍る。いみじう忍び給ひければ、知り侍らで、ここに侍りながら、御とぶらひにも詣でざりける。」とのたまへば、「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ。」とて簾下ろしつ。「この世にののしり給ふ光源氏、かかるついでに見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢伸ぶる人の御ありさまなり。いで御消息聞こえむ。」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。
あはれなる人を見つるかな。かかれば、このすき者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児かな、何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばやと思ふ心深うつきぬ。
(若紫)
さあ、どんなことがわかりましたか?わからないところはどこですか?
とはいえ、何度も繰り返しますが、「わからない」は無視したい。このテクニックを身につけてほしい。「わかる」ところだけをつないで、イメージしたいんですね。
私もそうですが、そう簡単に一行目からドミノ倒しのように、全部わかっていく…なんてことは起きないんですよ。
じゃあ、ちょっとわかるところをチェックしてみましょう。
日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光朝臣とのぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見給ふ。
清げなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
「何ごとぞや。童べと腹立ち給へるか。」とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ。」とて立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし。
尼君、「いで、あな幼や。言ふかひなうものし給ふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く。」とて、「こちや。」と言へばついゐたり。
つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと、目とまり給ふ。さるは、限りなう心を尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れるが、まもらるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる。
尼君、髪をかき撫でつつ、「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかで世におはせむとすらむ。」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
またゐたる大人、「げに。」とうち泣きて、
初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ
と聞こゆるほどに、僧都あなたより来て、「こなたはあらはにや侍らむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の、瘧病みまじなひにものし給ひけるを、ただ今なむ聞きつけ侍る。いみじう忍び給ひければ、知り侍らで、ここに侍りながら、御とぶらひにも詣でざりける。」とのたまへば、「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ。」とて簾下ろしつ。「この世にののしり給ふ光源氏、かかるついでに見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢伸ぶる人の御ありさまなり。いで御消息聞こえむ。」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。
あはれなる人を見つるかな。かかれば、このすき者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児かな、何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばやと思ふ心深うつきぬ。
(若紫)
こんな感じでしょうか。
ざっくりと色分けしました。わかることが整理できますか?
登場人物~尼、清げなる大人、子…そして光源氏
まず、登場人物として出て来るのは「尼」「尼君」ですね。
この人が間違いなくいる。この人を形容するのは、「うつくしげ」「今めきたる」など、おそらく容貌に関わる肯定的な印象。要はきれいってことですね。
さらに、「清げなる大人」が出てきます。この人たちについても「めやすし」など、かなりいい印象の言葉が使われていますね。
で、もうひとつが、子どもですね。「童はべ」がいるわけですが、どうもその中にかわいいのがいる。「生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり」ときますから、かなりわかりやすい。その後もこの子については、「つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし」とか、「うつくしかりつる児かな、何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」とか、かなり容貌、見た目が問題になっているのがわかります。
そしてもう一人、忘れてはならないのが、光源氏です。教科書の場合、前注のような形で、「のぞいている」と与えられていますが、冒頭に「惟光朝臣とのぞき給へば」と書いていますから、入試ならそこから理解しないといけません。
覗いてみたら、さっきのような世界があったわけです。
つい僕らは、作者が書いているものを源氏と同じように覗いている気分になってしまいますが、僕らは源氏も見る立場にいます。
正確に書くと、源氏の目と同じカット割や源氏を撮っているカット割を行き来するわけです。
あえて今回、色はつけませんでしたが、源氏を描写している場所がありました。
気付きました?
たとえば、最後なんて、どうも光源氏の気持ちのようですよね?こういうところ、何回か出て来たんですが、わからなかった人は、ここで、もう一度、そんな意識で読み直してみてください。
最後の登場人物は、僧都。これが「あなたより来て」とやってくる。ここで、簾が下りてしまうわけですね。
登場人物はどんな思いでいるのか?
さて、見ていると、気づいたと思いますが、取り立てて大きな事件が起きるわけではありません。
尼がいて、大人がいて、子どもがいる。それぞれ美しく雰囲気がよい。
では、実際何が起こって、どんな思いが描かれているのか?
まず、何が起こったか、といえば、せいぜい、歌を詠んでいるぐらい。
尼と大人でしょうね。そこに美しい子どもがいる。(「うつくし」は「かわいい」ですけど、とりあえず流します)
それ以外に事件があるとすれば、
「何ごとぞや。童べと腹立ち給へるか。」とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ。」とて立ちて行く。
という、このぐらい。
これが何なのかわからないとして、このことをきっかけにして歌を詠んでいく展開になるわけです。
そうなると、歌に詠まれている心情をおさえたい。
心情はわかると思いますが、「泣く」「悲しい」というぐらいが読み取れたでしょうか。
さっきのシーンのあとに「心憂く」とあり、その後、
尼君、髪をかき撫でつつ、「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかで世におはせむとすらむ。」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。
生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき
またゐたる大人、「げに。」とうち泣きて、
初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ
かなり「泣く」とか「消ゆ」というような語があるわけですね。そうなると、どうして悲しいか、なぜ泣いているのか、というあたりがポイントになります。「消ゆ」というあたりか「死ぬ」ことが連想できれば、かなり有望。
だとすると、「うしろめたし」とか「おくる」とか、どうも死を連想する言葉が多いことにも気づいてきます。
歌に、「初草」とか「若草」とか使われていますけど、これ、「歌ことば」ですね。
「若い女性」を指すんですけど、まあ、知らなくても想像できますか?
では、つないだら、全体どんな話なんでしょう?
まとめ~要は、子どもを心配する尼、それを見て「美しい」と思う光源氏
そうすると、事件らしい事件が起こるわけではなく、次のような話である、ということになります。
- 光源氏がのぞく。
- すると、そこには尼君と大人、そして美しい子どもがいる。それぞれに、雰囲気がよく美しい。
- 尼君は子どもの今後を心配している。自分が死んだあと、子どもがどうなるのか…。
- そこに僧都がやってくる。そしてシーンが終わる。
- 源氏は、この子供を美しいと思う。
とこんな感じでしょうか。
最後のところはやっていませんが、なぜ僧都がやってきて、このシーンが終わるのかも論理的に考えて、訳を考えるとすぐわかります。
では、次回は細かく単語や文法を追っていきましょう。