国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

源氏物語 若紫(北山の垣間見)を読む2~全体の解釈から部分の解釈へ 教科書教材実践 古文読解シリーズ

授業で扱った教材を読んでいくシリーズです。若紫、北山の垣間見を単語や文法に留意して解釈していきます。

さて、源氏物語の若紫を読みすすめています。

前回は、いつも通り、全体の解釈を行いました。 

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今日は続いて、細部の読解に入っていきたいと思います 

 

第一段落~覗き見をする源氏

最初の部分です。光源氏が惟光とのぞく、というところですね。尼君の様子が描かれている、というのが前回おさえた感じです。

 日もいと長きにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出で給ふ。人々は帰し給ひて、惟光朝臣とのぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏据ゑ奉りて行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見給ふ。

光源氏の敬意と視点

まず、チェックしたいのは、敬語ですね。この部分ではこれが問題となるのですが、とりあえずは、「給ふ」という尊敬語。つまり、主体は偉い人、ということですね。

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これが光源氏であることはつかめるはず。つまり、原則として光源氏には、「給ふ」がつく、ということでもあります。

一方、尼君に関しては、敬語が使われていません。このまま普通に考えれば、敬語が突然出てきたら、光源氏が疑わしい、ということにはなります。敬語があれば源氏、源氏なら敬語がある、と考えていく。

…ふつう、この方針で正しいんですけど、今回は先に答えを書いてしまうと、これではうまくいきません。その原因は、すでにここにも現れています。

簾少し上げて、花奉るめり

という、ここ。「めり」が使われています。「ようだ」と訳して、推定とよばれる助動詞ですね。「見あり」がつまったもので、主観性の強い推量。音の推量の「なり」「音あり」とセットにします。

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こいつ、あまり地の文では見かけないんです。どうしてでしょうか。

物語の作者が、「~のようだ」と、読者に語りかける必要がないからです。

もちろん、日記や評論などでは、ありうる表現なんですが、物語では必要ない。

しかし、ここでは、間違いなく、そこで尼は仏道修行、つまり念仏を唱えているはずなのに、なぜか、「めり」なんですね。

これ、作者ならいらない。確信があるはず。しかし、源氏と同じ気持ちでいるなら…。源氏からすれば「めり」です。つまり、この場面、源氏と同じ視線から書くことで、私たち読者を、源氏と同じようなところに置こうとしているわけです。

これ、どういうことかわかります?光源氏の目線が、作者の視線になるということは、光源氏に敬語を使わなくなっていく、ということなんですね。

最初は「見給ふ」と、光源氏が見たことに尊敬語をつけています。つまり、作者が別にいるところからスタートします。しかし、ここから、源氏の視線を通して、中の様子が描かれていくわけです。

最初は「簾少しあげて、花奉るめり」と書く。「簾少し上げて」つまり、全部はあげていない。だから、きっと隠れているところもある。はっきりとは見えない。だから推量の「めり」。花を差し上げているようだ、とまさに光源氏は思うわけで、そこに作者、そして私たちも同化していきます。

「西面にしも」とあります。「し」は強意の副助詞、なくてもつながるやつです。「も」も強意の係助詞です。だから、ここは二重の強調。こんなところにも、源氏の気持ちがあらわれていますよね。

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重要単語は美と病・死

前回のところでも書きましたが、このブロックで重要なのは、美とか病や死に関わる単語です。

「悩ましげに」とありますが、病ですね。「悩む」が病気になることです。

それが「~し」となって形容詞化。

さらに「~げなり」となって形容動詞化。

でも、最初の「悩む」から始まっています。病気で弱弱しく見えているのでしょう。

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「ゐたり」は「ゐる」+「たり」です。「ゐる」は「座る」ですから、「座っている」ですね。

「うつくし」はどう訳しましょうか?そのまま、「美しい」でもいいような気はしますが、語源の「慈しむ」からすれば、病で倒れそうな女性を、なんとか支えてあげたいような雰囲気でしょうか。「そぐ」という形からすれば、その「ちょっと弱弱しくて支えてあげたい」というのをうなじあたりに感じているということですかね。

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髪が長いより、そういうショートカットみたいなのも、今っぽくていいと。

ただ、現代の私たちはショートカットに、活発で元気なイメージを見ますが、当時は、弱弱しくて、憂いのある感じをみていたようですね。

「なかなか」も頻出単語。「かえって」と覚えておくのがいいでしょう。

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あとは「あて」上品であることも書かれていますね。ここに「痩せたれど」とつながっていきます。

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単純に「体つきはやせているけれど、顔つきはふくよかで」という見た目の逆接なのか、それとも「あてにやせているという様子からは、いわゆる恋愛対象的なところからはずれているけれど、顔つきは…」という、「色っぽくないけど、こっちは色っぽい」というようなことかはわからないです。すいません。

 

第二段落~「童べ」は何をしているのか?

ではつづけましょう。大人がでてきます。

 清げなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で入り遊ぶ。中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

 「何ごとぞや。童べと腹立ち給へるか。」とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ。」とて立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とぞ人言ふめるは、この子の後ろ見なるべし

光源氏を見ている視点から、徐々に光源氏の視点へ

まずは青く塗ったところですね。最初はわかりやすい。「~めり」が心中のものとして使われています。「~と見給ふ」となるわけですから、この主語、見ているのは光源氏。

ところが、ここの後半になると、「~めり。」「~べし。」と推定、推量の助動詞だけとなって、「~給ふ」が消えます。まさに、光源氏の心中。だって、作者はそうかどうか知っているんだから。

だから、だんだん、敬語が消えていきます。作者が光源氏になっていくかのような書きぶりですね。

登場するのは、かわいい少女

さて、この場面では少女が登場します。描写は、

中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなえたる着て走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。

ですね。

最初は、典型的な「~にや」「あらむ」のパターン。「や」は疑問。それをとってつなぐと「に」「あり」で「なり」になりますから、最初の「に」は断定の助動詞。

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「なえたる」は「萎えたる」でしょうから、「着慣れて体になじんでいる」ような感じです。

「似るべうもあらず」とありますが、「~う」に敏感になりましょう。古文ではア行活用がほとんどないし、「~ゆ」の単語は下二段ですから「~え・ず」という風になるので、「~う」とか「~いて」とかはほぼ音便。今回は「べく」ですね。

で「似るはずもないぐらい」「いみじく生ひ先見えてうつくしげなる容貌なり」とくるわけです。成長した先が見える、ということなんですが、「見ゆ」というのが受身動詞であることを考えると、ここは「自然と目に浮かぶ」というような自発がいいでしょう。単純に「見える」とやるのはおすすめしません。

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でもね、だからこそ、ここの「うつくしげなり」は、「守ってあげたい」に近い「かわいらしい」という感じでしょう。きっとこんな風になるんだろうなと想像させられる容貌。その後の、「扇を広げたる」ようなゆらゆらする感じも子どもっぽい感じです「ゆらゆら」っていうのは、髪がたっぷりある様子だっていうのは読んだことがあるんですが、だとすると後ろ髪なのかなあ。あとで、「かいあげたる額つき」ときますから、後ろ髪でしょうね。

 「赤くすりなして」は、「する」「なす」でしょうから、顔をこすって赤くしているっていうのが直訳風ですが、要はほっぺが赤い感じでしょうね。

事件は、「雀の子を犬君ちゃんが逃がしたこと」

しいて、最初につかむ事件は「雀の子」が逃げたことですね。

「何ごとぞや。童べと腹立ち給へるか。」とて、尼君の見上げたるに、少しおぼえたるところあれば、子なめりと見給ふ。「雀の子を犬君が逃がしつる、伏籠のうちに籠めたりつるものを。」とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、「例の、心なしの、かかるわざをしてさいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ。」とて立ちて行く。

子どもとケンカをしたのか、とこの美しい彼女は聞かれます。

「雀の子を犬君が逃がしつる、」と連体形で終わっていますね。「。」になっているケースもあるかもしれません。「~たの。」というような連体形で終わる感じとして見ておけばいいのではないでしょうか。連体形で終わるというのは、ある種余韻が残る形です。あとは、さらに「~を」「~が」を補う準体法というのがありますが、ここはつながらないですね。

それから、「ものを」が二回出ています。これは逆接。「~のに」と訳すところ。「ものの・ものを・ものから」は逆接です。

あとは「もこそ」があります。これ、危惧を表すんですよね。「~したら困るなあ」という感じ。「も」は強調の係助詞ですが、現代語でも「雨でも降るんじゃない?」みたいに使われる「も」は危惧のケースです。これが「こそ」とか「ぞ」とかと組み合わさると、危惧になるんです。よくテストに出ます。「みつくれ」は、ちょっと直すと「見つくる」という感じがイメージできます。現代語はだから「見つける」。終止形は?そうです。「見つく」ですね。烏が見つけたら大変だ、です。意味は通りますけど、こういうところで「烏に見つけられたら大変だ」のようなことをしないようにしましょう。ちょっとしたことですが、大事なんですね。

「心なし」は心がないんですから、性格が悪いというかどうしようもないというか。「心づきなし」は、心がつかないんですから、好ましくない、というところ。

ここ、どうしますか?

主格でとるなら、

「いつもの、どうしようもないのが、こんな風に怒られるようなことが、気に食わない」

同格でとるなら、

「いつもの、どうしようもないやつ、こんな風に怒られる子が気にいらない」

という感じ。

前だと文がふたつ続いていくのが気持ち悪いですね。そもそも自分が怒っているから、自分を怒っている状態にさせることが気に入らない、という風にとるのかなあ、と思います。調べると、前をとっている方が多そう。同格ではだめなのかなあ…

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「おぼゆ」は「似ている」

つづいて、「おぼゆ」です。先ほども出てきた受身動詞。「思ゆ」ですから、もともとは「思われる」ですね。

  1. 思われる 受身
  2. 自然と思う 自発 →感じる
  3. 似ている ←あの人を、自然と思う状態にさせる。
  4. おぼえている ←あの人を忘れられないように自然と思っている状態

という感じで理解していくとだいたいいけます。

今回は、一番、現代語でない「似ている」のところ。124はなんとか解釈できても、そこをつなぐ3が忘れがちです。

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つまり、尼とこの美しい少女は、少し似ているから「子であるようだ」と光源氏は見ているわけです。

こういうところの「見給ふ」は、忘れません。だって、本当は、この二人、親子じゃないですからね。でも、ここで、源氏は「親子かな?」と思う。私たちだって、この時点では、光源氏に引っ張られて、「親子かな?」と思いながら読み進めます。

 

第三段落・第四段落~尼君の苦悩と光源氏の気持ち

 尼君、「いで、あな幼や言ふかひなうものし給ふかな。おのがかく今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひ給ふほどよ。罪得ることぞと常に聞こゆるを、心憂く。」とて、「こちや。」と言へばついゐたり。

 つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かなと、目とまり給ふさるは、限りなう心を尽くし聞こゆる人に、いとよう似奉れるが、まもらるるなりけりと思ふにも、涙ぞ落つる

尼君の気持ちを解釈しよう

そんな尼君の気持ちですが、

おのがかく今日明日におぼゆる命」とか「心憂く。」とか出てきます。どうも、最初の「悩ましげ」というのもやはり、病で自分がいつ死ぬかわからない、ということを自覚しています。そんなことを「何ともお思いにならないで、雀を慕いなさる「程度」であることよ。罪を得ることですよと常に申し上げているのに、つらい」という感じでしょうか。

ここ、音便がいっぱいでてますね。

  • 言ふかひなう
  • ついゐたり
  • かいやりたる

というあたり。先ほども書きましたが、古文では、「~う」とか「~い」とか来たら音便を疑ってかまいません。

順番に

  • 言ふかひなく=言っても仕方がないくらいどうしようもない
  • つきゐたり=「ゐる」は「居る」で「座る」です。(居ても立ってもいられない)ですから、前が「つく」で「つき」になっています。「付く」でしょうね。「くっついて座っている」
  • かきやりたる=「やる」が取り出せますから、「かき」です。「掻く」でしょうね。

こんな感じ。

同じように、冒頭、「幼や」とあります。これ、形容詞の語幹だけを使う用法。こんな風に書くと難しく聞こえますが、私たち、やってますよ。

「むずっ!!」とか「きたなっ!!」とかです。現代語のままですね。だから、現代語にある形容詞だと理解できるんですけど、現代語から消えている語だと急にわからなくなってしまいます。だから、やっぱり知っておきましょう。

それを見ている光源氏

この章段を読んでいて、最初から書いていることですが、とても大事なのは、源氏の視点と作者の視点が重なりつつ、突然、またカメラが引いて、源氏自身を描き出すことです。

ここでは、まず、「目とまり給ふ」ときます。

「見る」ではありません。今までは「見給ふ」だったはずなのに…です。それと同じような表現が、「まもらるる」ですね。

「まもる」は「目」「守る」で、「見つめる」です。「守る」は「まもる」でなく「もる」です。子守とかです。

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ポイントは、それが「~るる」と受身の「る」がついていること。

受身、尊敬、可能、自発です。

見つめられてはいませんね。

自分に尊敬は使いませんね。

下に打消し語がないから可能は無理ですね。

そうです。「自然と見つめてしまう」と訳したい。それが「目とまり給ふ」と共通するところ。

それは、あの人に似ているからだ、と源氏が気付く場面です。あの人とは、藤壺。これ、源氏物語前半の大事な流れです。ちゃんと理解したい人はこちらで。

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いつの間にか、あの子に目がいってしまうのは、あの子があの人に似ているからだと気付きます。成長した姿が自然とわかる…とも書いてありましたよね。

だからこそ、源氏の目に涙が浮かぶのですが、ここ、「と思ふ」、「涙ぞ落つる」と、敬語がないんですね。だから、そう思う源氏に一度フォーカスしながら、ここで作者はまた源氏と重なっていきます。だからこそ、まさに、自分のことであるかのように尊敬語が落ちていくんですね。

 

第五段落~尼君の覚悟と歌の解釈

ようやく、このあたりから、尼君の事情を知ることになります。

 尼君、髪をかき撫でつつ、「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかで世におはせむとすらむ。」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ

  生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき

またゐたる大人、「げに。」とうち泣きて、

  初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ

と聞こゆるほどに、

尼君の事情と歌の解釈

では、まず、尼君の方の台詞を中心に追っていきましょう。

尼君、髪をかき撫でつつ、「けづることをうるさがり給へど、をかしの御髪や。いとはかなうものし給ふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。ただ今おのれ見捨て奉らば、いかで世におはせむとすらむ。」とて、いみじく泣くを

「けづる」は髪の手入れ、切ることですね。「うるさし」は不快グループです。

ここから死を連想させる「うしろめたし」に行きます。自分が死んだあと「先行きが不安だ」ということです。

「かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。」というのは、「これぐらいになると、大変、こうではない人もいるのに…」という直訳。「かからぬ」は「かく」「あらぬ」ですね。要は、「あなたぐらいの年齢になると、あなたみたいでない人もいるのにね」ということ。

それは、故姫君です。

「十ばかりにて殿に後れ給ひしほど、いみじうものは思ひ知り給へりしぞかし。」

「後る=おくる」は、死に遅れること。つまり、誰かが先に死んでしまうこと。だから「先立たれる」と訳しますね。その「ほど=時」には、「大変物事を思い知りなさっていましたよ」ということ。亡くなった姫君は、そのお父様に先立たれたとき、十分大人であった、とこういうことでしょう。

だいぶ人物関係が見えてきました。亡くなった姫がいる。とすると、この尼と美しい子どもは、祖母と孫。この亡くなった姫の子と見るのがいいでしょう。そのお父さんが亡くなったということですから、尼のだんなさんですね。

だから、もう、見てくれる人がいない。だからこそ、「私が見捨て申し上げたら」つまり「私が死んだら」、どうされるおつもりなのか、ということなんです。

歌に行きましょう。

  生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき

またゐたる大人、「げに。」とうち泣きて、

  初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ

と聞こゆるほどに、

歌は、

  1. 歌はメッセージ
  2. 歌は直前の内容を詠む
  3. つまり、直前の内容が歌のメッセージ

ということになります。

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今回の場合、先ほどの尼の台詞が歌の内容、メッセージです。つまり、

病気であるところの私が死んだら、あなたはどうするのか…

です。

一首目、これが尼君の歌ですね。

生ひ立たむありかも知らぬ若草をおくらす露ぞ消えむそらなき

そうすると、明らかに「若草」が少女で、だからどんな風に成長するか心配、ということでしょうし、その後の「おくらす」とか「消えむ」とかっていうのが、自分のことでしょう。死ぬに死ねない…という感じでしょうか。

で、居たる大人が、「げに」という以上、同じ内容と見ていいですよね。

初草の生ひゆく末も知らぬ間にいかでか露の消えむとすらむ

やっぱり「初草」が少女で、「露」が尼君。成長する様子を見ないで、死ぬなんて…何言っているんですか!…という感じでしょうかね。

「若草」とか「初草」とかは歌ことば。要は、こういう言葉はこれをあらわします…みたいな決め事です。「露」ははかないものとして、すぐ出て来ますね。

源氏の視点~作者と私たちと…

さて、この章段ではとにかく源氏の捉え方が大きなポイントです。

「~」とて、いみじく泣くを見給ふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏し目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ

まず、泣くのは誰ですか? 

この前のセリフは内容から、明らかに尼君で大丈夫ですね。とすれば、「とて、いみじく泣くを」とつながりますから、泣くのは尼君です。

それ「を見る」わけですから、ここは別人。

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しかも、ここは「~給ふ」となるわけですから、この章段で考えれば、源氏のはず。主要登場人物、尼も少女も敬語は使われていませんから。

となると、カメラはまた引いて、

「尼君が泣いているのを源氏が見なさっていることがわけもなく悲しい

と源氏の様子が入ってくるわけですね。じゃあ、悲しいのは誰なんだ…ってなりません?当然、これは作者に私たちが巻き込まれているわけです。

だって、源氏を見ているのは、作者と私たちしかいないわけですから。

そのあとは、少女の描写。

「めでたく見ゆ」には敬語がありませんが、これは当たり前。だって、受身動詞ですから。つまり少女が「見られている」ということ。これ、意外と入試で出ますからね。

だから、しいて尊敬語をつけるなら、「御覧ぜらる」の方でしょうね。

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ここではやっぱり、作者や私たちにも見られているわけで、敬語は忘れられていきます。

それにしても、源氏が、どんどんこの少女そのものに惹かれているのがわかります。当然、境遇への同情、共感はあったはず。源氏も家族には恵まれていないですからね。

そこから、あの人、藤壺に似ていると気づいてから、どんどん少女そのものに惹かれていくわけです。

 

第五段落続き~垣間見の終わり

さあ、この続きです。ここまでの復習を含めて、敬語に着目しながら読みましょう。

僧都あなたより来て、「こなたはあらはにや侍らむ。今日しも端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の、瘧病みまじなひにものし給ひけるを、ただ今なむ聞きつけ侍る。いみじう忍び給ひければ、知り侍らで、ここに侍りながら、御とぶらひにも詣でざりける。」とのたまへば、「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ。」とて簾下ろしつ。「この世にののしり給ふ光源氏、かかるついで見奉り給はむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の愁へ忘れ、齢伸ぶる人の御ありさまなり。いで御消息聞こえむ。」とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。

僧都が「あなた=向こう」からやってきました。そしてセリフ。会話文中ですから、まず、丁寧語の「侍り」がありますね。これは聞き手への敬意ですから、聞いているのは当然、尼君です。

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逆に言えば、まず、そもそも尼君への台詞と理解できて読むとだいぶわかりやすくなりますね。

古文というのは、こういう展開が多い。最後の「とのたまへば」で、誰が誰に言っているかをつかむんですね。今回は最初に「僧都」と書いてありますが、ないときはここで、「偉い人が偉くない人に」とわかります。

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会話文中ですから、偉いからどうかは無視。「気分」の敬語ですから。丁寧語のところを読んでね。

なので、最初の「おはします」は、尼君たちに言っているわけです。今日に限って、こんなに端にいらっしゃいますね、と。

そのあとは、源氏とありますから、これはわかる。では次の緑のところを訳しましょう。

知り侍らで、ここに侍りながら、御とぶらひにも詣でざりける。

このあとは尊敬語ではなく、丁寧語。丁寧語の「侍り」が入ると急に訳すのが苦手になる人がいますが、要は「取る」だけです。ないと思えばいい。ただの「です・ます・ございます」ですからね。( )に入れて無視しましょう。

知りませんで、ここにいながら…となりますから、これは自分。

で、「とぶらひ」に「御」がつくのは、偉い人が「とぶらふ」か、偉い人を「とぶらふ」か。まあ、源氏ですよね。

でも、「詣で」は「詣づ」で、謙譲語。初詣、ですよね。「参る」と一緒。

「参る」の反対が「まかる」、「詣づ」の反対が「まかづ」ですね。

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全部謙譲語ですから、「偉い人を」ですね。尊敬語はないから、「自分が」。さっき、尼に「おはします」と尊敬語をつけた感覚からすれば、自分です。

続きましょう。

「ののしる」は大騒ぎですが、そのイメージで広げれば大丈夫ですね。みんなが大騒ぎする感じ。「ついで」は「機会」です。こういう単語、ひとつわからなかったら、含む表全体を読んでくださいね。

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「見奉り給はむや。」と続きます。

ここには、謙譲語と尊敬語。「偉い人が」「偉い人に」ですね。源氏を見るのですから、見るのは、自分ではない。尼君です。

ところが「いで御消息聞こえむ。」とあるのは、謙譲語だけ。つまり、ここは自分です。意志で訳しましょう。「いで」は「さあ」という感動詞。

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最後は、「とて立つ音すれば、帰り給ひぬ。」です。

「音がするので」という表現があります。なんで音?

そうです。この間に、

「「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ。」とて簾下ろしつ。」

というのがありましたよね。

「人や見つらむ」をやっておきましょう。

まず、「や」だから疑問文。

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で、品詞分解。

  1. 動詞を見つけて、
  2. 活用から接続使ってあたりをつけて、
  3. 意味を考える=訳す

です。

まずは、「見る」ですから「見・ず、見・て、見る。見る・こと、見れ・ど、見よ」ですから、未然形か連用形。

「む・ず・むず・す・る・じ・まし・まほし」の中にはなさそうだから、

「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」の方、「つ」。

だとすると、残りは「らむ」。

「つ」は「つ・ぬ」で完了、進行形「ている」に対し、完了形は「てしまう」。

「らむ」は「らむ・けむ」で、現在推量。

というわけで、「人が見てしまっているだろうか」ですね。

だからこそ、簾を下ろした。

この段階で、見えなくなったんですね。だから、「音」です。

源氏からすれば、見えなくなるし、源氏に会いにいくと立つ音はするし、ここにいるわけにはいきませんね。「帰り給ふ」という尊敬語からすれば、僧都か源氏ですが、「~立つ音すれば」という流れからは明らかに源氏です。

 

最終段落~源氏の独白

となれば、最後の部分は、源氏の心中。

 あはれなる人を見つるかな。かかれば、このすき者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよと、をかしう思す。さても、いとうつくしかりつる児かな、何人ならむ、かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばやと思ふ心深うつきぬ。

 「このすき者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり

「好き者」の「好き」は、風流、みたいなことですが、私は「ファッショナブル」とイメージするといいと思います。要は、おしゃれで、女の子と遊ぶ感じ。

これ、頭中将をイメージしていると思うんですけど、正妻葵のお兄さんですね。ここから、女を見つけることを教わっている。「あいつら、こうやって歩き回って見つけるんだ…」という感じ。

「さるまじき人」ですから「そうでないような人」ですね。「まじ」はwill notですけど、名詞に続くから、「ないような」と打消婉曲がつながります。

でも、ここはそれが「少女のような美しい女性」にしないといけないので、言葉重視で訳すと、「そうでもないような微妙な女性」になっちゃいますからだめ。

「さるべき」を「素晴らしい」と訳す感覚があるとこうなっちゃいます。でも、「そうであるような」と考えれば、「予想するような」ととれますから、その打消とみれば、「予想外の」といけます。

こういうのは、語の訳と、ここまでの解釈との組み合わせです。どっちかだけではだめですね。

源氏は「かの人の御代はりに…」と考えます。藤壺です。「明け暮れの慰めにも見ばや」ということですが、「明け」は好きな人とともにいて、別れる瞬間。「暮れ」は、逆に好きな人に会いにいける瞬間。

だから、この二つのタイミングが、好きな人とともにいないことを意識する瞬間です。

明け暮れというと、「ずっと」という気もしますが、こと女性に関しては、今の説明の方が合っていると思います。

この寂しさを紛らわすためにそばにおいて「見ばや」。自己願望で「見たい」です。

「なむ」は他者願望・あつらえで、「見てほしい」ですね。

「と思ふ心深うつきぬ。」と終わります。「~う」は音便でしたね。深く。

最後わかりますか?

「~ぬ」「。」ですから、最後は完了の「ぬ」です。だとすると、連用形接続。だから、四段か、上二段です。

そうです。「つく」=「付く」でした。「尽く」=「尽きる」だと文法上は成立しますが、そういう心がなくなった…となりますから変です。

そういう心が、ここでついた…ということ。

これがこのシーンです。

このあとが気になる人は、

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でどうぞ。

 

今日は休校期間ということもあり、説明したいところをほぼ全部まとめました。ひとつずつ不安があったら、必ず、単語のページや文法のページを関連部分だけ全部読んでくれると練習になりますよ。

で、この教材ですけど、紫式部の物語を書くスキルを解説するには、もってこいなんですけど、おかげで、敬語の説明には不向きです。

なので、敬語を勉強したい人は、こちらをどうぞ。

身分のしがらみの中を生き抜いた、言語意識の高い、清少納言様です。橋本治先生のおかげで、なんだかミーハー位置づけになってしまいましたけど、本当はたぶん、才女丸出しの優等生ですからね。 

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