今日は太宰治「走れメロス」の解説です。「走れメロス」をちゃんと読んだら、何がわかるか?太宰はこの作品にどんな仕掛けをしたのか?
今日は、まず「残虐な王」にスポットをあてて、王の立場にたって、王を正当化しようと思います。
入試や模試で国語の成績をあげるのは大事なことですが、それだとどうしても、殺伐とした雰囲気が漂います。
そこで「国語の成績には興味ないし」という方でも楽しく読めるように、そして書いている私があまり功利的にならないように、という二つの意味で、みなさんが学校でやったであろう教科書定番教材をとりあげて、解説したいと思います。
定番教材(国語の先生はこういう言い方をします)については、基本的に反対派です。もっといい教材もあるし、定番教材ならではのステレオタイプな教え方ができあがってしまっているからです。
でも、こういう文章を書ける=日本人が共有する文書を持つ、という意味では悪くないし、だから、少しでも、その作品の本質に、紋切型読解でなく、きちんと読み解く作業から行ってもらえればな、と思います。若い先生方、よろしくお願いします。
というわけで、若い先生を含めて、授業の参考、指導案の参考になれば、なんて思ってるんですけど、先生、生徒含めて、こうした教科書の定番教材を解説してみたいと思います。
さて、最初に選んだのは、「走れメロス」です。実はmixiで2006年ごろに公開した日記なのですが、こちらに移行しようと思っております。
はじめに
学校には、いわゆる定番教材と呼ばれるものがあります。「舞姫」「こころ」「山月記」…しかし、定番教材というのは、先人のさまざまなアプローチがあり、それゆえ、さまざまな切り口でこだわりどころ、テーマが語られ、結果、それを信じてしまうと、とらえどころのない漠然とした教え方になってしまいます。
というわけで、近代文学畑出身の自分としては、あんな「指導書(先生用のあんちょこがあるのだ)」信じずに、自分でやればいいのに、思い切って、なんて思っていたりするのです。
つまり定番教材であればあるほど、思い込みに支配されて、冒険ができなくなる傾向があって、自分としてはそこを変えてやりたいなんて、いつも思っています。
というわけで、太宰の「走れメロス」。配当は、中学2年。「メロス」の大きな問題は、メロスのうさんくささにつきます。
「なんだ、これ」と思うんですね。
太宰が道徳を語るわけだないし。直感も文学的アプローチも、この作品の「うさんくささ」をかぎとります。
指導書作りに関わったことがあるので、わかるのですが、教科書を作る人たちは、思いのほか、作品選びのこだわりがないんです。特にこうした定番教材の場合、選ばれている理由は、何かしらのメッセージでなく、(もちろん、最初は選んだこだわりがあったのだろうけど)まさに「それが定番教材だから」という理由にすぎなくなっています。教科書を選ぶのは、学校の先生だから、学校の先生がとにかく「定番」を欲しているから、そうなるので、なんだか話が脱線したが、要するに、何をこの教材で教えるのかが、よく分からなくなってきたわけです。
走れメロス。友情?道徳?約束?太宰だよ。
近代文学をかじった私は思います。
これもやっぱり話題になるのだけれど、そのヒントはあの有名なラストシーン。メロスがいつのまにやら、素っ裸になっていて、頬を赤らめるラストシーン。一時期は、ここがカットされていたらしいあのシーン。
で、そのラストシーンの意味を解き明かすのは、残虐な王の分析から始まるのでした。
その前に、走れメロス本文をどうぞ。
ラストシーンと王様
ラストシーンの記憶がないという話もあるので、とりあえず、載せます。ちなみに太宰さまは没後50年を経過しておりますので、著作権はセーフ。
ひとりの少女が、緋(ひ)のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
なんだか意味深なんですよね。それとも照れ隠しかなあ。思わず友情書いちゃったけど、最後に照れがあって、こうしちゃったとか。
というわけで、まずは王様の把握からはじめましょう。ちなみに私の授業、特に小説編のキーワードは「言葉を映像にする力」としての「想像力」です。つい、読み飛ばしてしまうこんなところにこだわるところから始めましょう。必ずできると信じて考えてみてください。
メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。
これが「走れメロス」の書き出し。では、メロスが捕まる直前です。
老爺は、あたりをはばかる低声で、わずか答えた。
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏(じゅんら)の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
というようなわけで、メロスは王城に入り、捕まるわけですね。さて、ここで問題。
「王様にはたして、何があったのか」「何が王様をそうさせたのか」
学校の先生が質問しそうな言葉でいうと「王様の性格は?」ということなのですが、さあ、どうでしょう?興味のある人は考えてみてください。
王様の殺す順番を読み解く
王様の把握、ということがテーマです。簡単に言うと、「邪知暴虐」ってホント?ということです。「邪知暴虐」というのは、メロスが王様に与えた評価です。ですから、本当にそうかというのは分からない。
老爺のセリフを見てみましょう。
「おどろいた。国王は乱心か。」 というメロスに対して、「いいえ、乱心ではございませぬ。」が老爺の答え。
「乱心」でない?たくさん人を殺して?そんなことがあるのだろうか?何があったか分からないけれど、結果、王が狂ったのなら分かる。つまり、王は、現状でさえ、ある一定の正当性を持っているわけです。少なくとも、国民のひとりの老爺はそう思うわけです。
だからこそ、人質をとるのは、「派手な暮らし」をするものであり、それ以外の普通の暮らしをするものは、問題ない。「金持ち」ではなく、「派手な暮らし」。舞台設定は、民主主義、資本主義の現代とは思えない、絶対王政だと考えれば、かなり清廉な政治だといえるのではないでしょうか。
戻りましょう。老爺のレベルでさえ、そのことは理解できる。「乱心ではございませぬ。」というわけです。
まして、最初は「人を、信ずることができぬ」という状態であったはずがない。「人を信じていた」王が「人を信じられぬ」王に変わるのが、果たして何があったか、そんなにも清廉な政治を行う王が「人を信じられぬ」王に変わるためには、何か事件があったと考えざるを得ません。
ここで、あの殺す順番を考えてみましょう。
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお世嗣を。それから、妹さまを。それから、妹さまの御子さまを。それから、皇后さまを。それから、賢臣のアレキス様を。」
着目するべきところは、実はたったひとつ。「賢臣」アレキスの順番です。なぜ、アレキスはここで殺されるのか?何か事情があったはずです。言い方を変えれば、彼はここまで殺されなかったのです。なぜでしょう。
もちろん、最初から、暴君、邪知暴虐な王であるとするなら、恐怖のあまり、口を挟めないということは考えられます。怖くていえないけれど、これ以上は、と思ったら、殺された。ありそうな展開です。でも、最初から「暴君」ではなかったというのが、ここまでの皆さんの読みですね。
また、次の権力者候補とするなら、「賢臣」という言い方はよくない。「将軍」「大臣」そんな名称でなければ、伝わらないし、いずれにせよ、王様が最初から「暴君」でないのだから、彼は賢臣である以上、絶対に誤った王様の行動に忠告をするはずなのです。
けれど、彼は、あそこまで死ななかった。
もう分かりましたか。王の間違った行動は「皇后」を殺したことだけなのです。
だとすれば、この設定は、妹の婿を中心として、皇太子を王に押し上げる国王暗殺計画です。皇太子が殺される以上、皇太子が絡んでいる。そして、皇太子が王になるためには、王は死なねばなりません。
そして、皇太子は子どもではない。ある一定の年齢に達しているはずです。
言葉を映像にする力。あなたが映画を作るとすれば、キャストが必要です。私なら皇太子はちょっとかげのある感じの俳優ががいい。こんなチョイ役は失礼ですが。なぜなら、がきんちょであるなら、国王は皇太子を殺しません。悪いのは妹婿ですから。皇太子も犠牲者です。かといって、キムタクの年齢であれば、妹婿の謀略にはまるというのは、やや無理が生じそう。さらにその子どもがここに絡まないはずがない。先に孫を殺してもいいでしょう。とすると、年のころ、15から18才。国王の年齢は38~50ぐらい。これでも結構若い設定ですね。
妹婿は自分が権力を握るために、国王暗殺を、皇太子をそそのかす形でたくらむ。けれども、これが何らかの形で発覚しました。王は、妹婿、そして、そこに関わってしまった自分の息子を処刑する。しかし、残された妹が、今度は関わってくる。最初からその計画にのっていたか、結婚相手を殺された逆恨みかは分かりません。妹の子どもが後であるから、必ずしも最初から関わっていたわけでなく、逆恨みの可能性が高いと思いますが、今度は、自分の子どもを擁立すべく、国王の暗殺を図るわけです。
だからこそ、ここまでは国王の処置は、死刑廃止論者でもないかぎり、正当です。だから、「賢臣」アレキスはここまで、口を出さない。いえ、むしろ、すべきことを忠言していたかもしれない。
けれども、ここで、皇后を殺す。皇后からすれば、どんな事情があったかは知らないけれど、自分の子供が殺されるのは納得できない。女性であり、母ですから。きっと、王を許すことができないのでしょう。
ただし、ここも順番が不思議で、こどもを殺されて怒るなら、殺されるのは3番目です。逆にいえば、ここでは、皇后さえ、文句を言っていない。自分のこどもが殺される根拠があるともいえます。皇后からすれば、大人たちがいなくなった以上、後ろ盾のない、妹のこどもを殺す根拠がない。女性らしい発想でしょう。だから、ここで忠言をして殺される。
しかし、皇后には前の二人とは違うことがある。権力を目論んでいるのではないし、権力を得る「子ども」のようなものはないはずなのです。
だから、皇后を殺す必要はない。けれども、殺してしまった。だからこそ、アレキスは忠告したのです。けれども、自分の妻さえも信じられない王はついに、アレキスさえも殺してしまう。
そして、彼を止めるものはいなくなった。彼を諌めるものがいなくなった。現段階の王は、狂ってはいない。けれども、暴君かもしれない。そして、正しい政治ではあるけれども、彼は恐怖で人々をおさえるのです。
自分のこどもや妹に刃を向けられる。最愛の妻にさえ、自分の気持ちを理解してもらえない。
こうして、一人の人間不信の王ができあがりました。
けれども。そして、次の問題点です。けれども、ここにメロスという男がやってきた。こんな王の、過去など、事情など、何も知らない中、メロスが現れ、物語を揺り動かすのです。
一応、もう一度、本文の引用です。
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いて、メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」
メロスは、単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、巡邏(じゅんら)の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
ここから読解を始めましょう。
王様=過去に自分の息子や妹に命を狙われ、妻にもその心中、理解されず、簡単に人を信じることができなくなる。自らの判断とはいえ、信頼できる賢臣も失い、孤独である。政治は清廉。派手な暮らしを禁じている。
メロス=「単純」な男。王様の過去や心中を思うことなく、王様を邪知暴虐と決めつけ、何の計画もなく城に乗り込む。国民は虐げられていると決め付け、自らの手で「邪知暴虐な王」を除くつもり。
さて、ここで、メロスの「単純さ=決め付け」、そしてそれは「反省=内省」のない男、としての性格付けで、メロスの行動を思い返してみます。
テーマは、メロスの「単純」さ。王の過去や事情を省みないように、他でも、こうと決めたら単純に動き出します。他人なんて関係ないんだよね。内省しない男、物事を咀嚼しない男、メロス。
それでは、いくつかポイントです。
- たとえば、メロスが王様に頼むシーンでは?
- たとえば、村に着いて結婚式をあげるシーンでは?
- たとえば、メロスが村を出発しようとするシーンでは?
- たとえば、メロスが数々の困難に出会うシーンでは?
- たとえば、メロスが走りだすシーンでは?
- たとえば、メロスがまもなく到着しようとするシーンでは?
そして、念願のラストシーンが待っているのですね。そして、ここまでたどり着けば、きっと、「走れメロス」もようやくその全貌が見えるのではないかと思うのです。
でも、ちょっとがまんして、メロスの単純さ探しといきましょう。
この項目、長くなったので続きはまた。