国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

慶応大学法学部の小論文の傾向 本文のテーマが理解できるか?法とは何か?法による解決と政治参加

慶応大学の小論文の傾向分析です。今回は法学部。

法学部のテーマは、高校では直接やらないので、考えている人とそうでない人で差がつく分野です。

ここまで、小論文についてもある程度説明をしてきました。

基本路線は小論文は「知識」を「わかる」ことと「問に答える」という、この二本立てで解決をします。

慶応大学はその傾向が顕著で、まず、本文がしっかりわかり、そのテーマに沿って書けば、難しいことはいりません。

むしろ、難しいのは、書いていることがしっかりわかるのかどうか、ということです。

ここまで、こんな感じ。

小論文の書き方

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慶応大学の解答の分析 

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慶応大学経済学部

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そして、今日は法学部の分析です。

慶応大学法学部では何がわかっていればいいのか?

法学部は、慶応大学に限らず、アドミッションポリシーが、しっかり出てくる学部系統だと思います。国語の、特に現代文なんて、国語の先生が教えて本当に大丈夫かってくらい、社会科学。そもそも社会科学がわかっていないと、法学部にはたちうちできないんじゃないかと思うぐらい。

なので、法学部受験者は特に(本当は全学部そうですけど)現代文を読んでわからなかったら、しっかりその文章をわかるようにするという作業をしっかりやりましょう。早稲田は全般的に、差別とか自由とか国家とか、そういう角度できってくるし、明治とか上智の推薦とかだと、もっと「法律」っていうあたりに特化してくる印象がありますが、そのあたりをあまり気にせず、社会科学的な文章をしっかり理解するといいと思います。

法の絶対性と正当性

慶応大学の小論文で予備校などで説明されるのは、法律の絶対性と正当性の話でしょう。

法の絶対性というのは、法律は誰に対しても平等にきちんと適用される、というようなこと。たとえば、20歳が飲酒をしていいと定まっているなら、20歳の誕生日の一日前でも、19歳での飲酒になって罰せられるということです。あるいは、「〇円以下の罰金」となっているような時に、同じ状況、同じ行動であるにも関わらず、裁判官の恣意によって、「よし100万円だ」とか「僕は100円でいいと思う」とかはまずい。つまり「判例」が大事になってきて、過去の事件の判例と照らし合わせて裁定されていくわけです。

一方、正当性というのは、「法律ではそうなっているかもしれないけれど、わかるよね、おかしいよね」というような感じ。まずは、「時代が変わる」というようなことです。それこそバブルのころまでさかのぼれば、飲酒運転とかストーカーとかハラスメントとか、ありとあらゆるものの印象が変わります。飲酒運転は罰則はありましたが、そこまで社会は深刻にとらえていなかったし、ストーカーとかハラスメントにいたっては言葉自体がありませんでした。またネットとかSNSとかによって、新たな問題も生まれてきて、同じような事柄でも、大きな問題として拡散していくようなこともあります。

つまり、絶対性が、過去の伝統をしっかり学んで踏襲することだとすれば、正当性というのは、時代とともに法律や解釈、運用を変えていく動きであるともいえます。

法律に携わるものは、この矛盾する二つの考え方を同時に持たなければいけないし、ここで葛藤していかなければいけないわけです。

そうなれば、当然、入試問題でそういうことを聞いてくるものです。

正当性に関してはもう少し問題を含む言葉ですので、続けて説明していきましょう。

悪法も法?

たとえば、民主的な国家があるとします。その民主的な国家では、民主的な手続きによって、統治者が選ばれます。その統治者は、民主的な手続きによって、制度を変えていき、いつしかその統治者は、民主的な制度によって絶対的な権力を持ちます。しかし、すべての制度は民主的に作られたものでありながら、今やすでにその統治者に都合のよい法と化しており、その統治者は権力者と苛政をしいているとしましょう。そして、その苛政を支えているのが法なのです。

その時、自由と平等を取り戻すために、私たちには革命を起こす権利が、つまり、法を超えて、権力を取り戻す権利があるでしょうか。

あるとすれば、その正当性はどこにあるのでしょうか。

法は絶対的なものだとして、それが悪法だとすれば、破ってもよいか、ということです。

悪法とする、破ってよいとする、根拠はどこにあるのか。

まずはそんなことが考える材料になるのです。

まだ起こっていない問題を法律は防げるか?

法律の問題は、まだ起こっていない問題にも関わります。

一度慶応の法学部で、未来国家の話が出ました。身体に何かを埋め込んで、犯罪が起きそうになったら、感知して、事前に防ぐことができる未来社会の話です。

ここに法律的な問題があります。

法律とは、すでに起こったことに対して罰するものです。起こす意思を持っているとして、その時点で罰していいのか、ということです。

人間、誰しも法を犯すような衝動に駆られることはあるはずです。それがどの程度の意思かはさておき。でも、多くの人はその前に踏みとどまります。そういう法を犯すことを想像したら、そんなことを考えた時点で悪なのだといえるのか。

多くの人は、もちろん踏みとどまります。しかし、確かに踏みとどまらない人もいる。だからこそ、そう考えた時点で、アクションしたいわけですね。

SFの話ではありません。

たとえば、包丁を持って人に向かっていったら、それは意思があるでしょう。

しかし、包丁をかばんに入れている状態は?

包丁を買った状態は?

包丁を買おうと決意した状態は?

どこからが犯罪でしょうか。

同じような問題は、テロ等準備罪やストーカー犯罪で議論されるのです。

ストーカーがわかりやすいでしょう。

何も起こっていないから警察は何もできない。しかし、そうしているうちに大きな事件が起こる。

しかし、一方で包丁を買った段階をどう見るかというのは、慎重でないと自由の制限にもつながりますね。テロも同じ。

ここに葛藤を感じなければ、法律家としては危ない。答えが明確に出るわけではないけれど、法律家としては明確に線をひかなければいけない。その葛藤。では、どんな線を引くのか、線を引くためにどんなことを考えなければいけないのか。

そんなことを考え抜く意思がほしいのです。

国際紛争を考える~正しさか、法的な契約か?

国家間の契約、条約などについて考えさせたこともありました。

たとえば、条約を結んでいたとしますよね?安保条約のようなものを想像してみましょう。

お互い、仲間であって、不可侵で協力関係にあります。

その安保条約を盾にして強国、大国が、あなたと同じような小国を攻めていきます。

いわゆる帝国主義です。

次に攻められそうな国が、あなたに救いを求める。一緒に立ち上がろうと。ここで立ち上がらないと最後にはあなたがやられると。一定の説得力があります。

しかし、大国は、条約を持ち出します。私たちは法に基づいて事を進めているだけだ。あなたとは条約があるではないか。それを破るなどということは許されるものではない。私は間違ったことはしていない。あくまでも法に基づいて正義を行っているのだ、と。

さあ、あなたはどうしますか?

アメリカが生物化学兵器を理由にイラク侵攻して、そして同盟国がそれを追認したにも関わらず、結局、生物化学兵器はみつからなかった、なんていうころの出題です。

あなたは、同盟、条約という絶対性を重んじるのか。それとも正当性を貫くのか。

あるいは、この場合できることは何なのか。どうすべきなのか。

これも葛藤のひとつです。ここに向き合うことがまず大事なポイントです。

何が真実かと法によって解決をすることは違う~戦争責任の問題

このような問題は、常に「正しさ」が複数あることによっても起こります。

そもそも戦争や人種差別などの問題が、どうして起こったのかというその「責任」の問題はまた複雑であります。

もちろん、戦争を主導した者としての責任もありますが、同じ国家を生きた国民の責任もありますし、その歴史を背負って生きる国民の責任もあります。

逆に被害を受けた側からしても、その裁判で決着した被害に自分が含まれているのかどうかなども含めて、誰が被害者なのかということも大きな問題になるのです。

つまり、被害も加害も非常に曖昧な中で、裁判という形で決着をつけつつ、進んでいくことになるわけです。

東京裁判であるとか、南アフリカのアパルトヘイト政策の裁判であるとかです。

南アフリカの場合、真実の追求を優先しました。いわゆる司法取引のようなやり方です。真実を告白すれば個別恩赦をとるというようなことです。戦争と比べても加害者にあたる人が同じ国内にいるわけで「赦し」の思想はより必要になるわけです。

このやり方はある意味で法的な決着を超えた「赦し」ですね。過去をある種の法を超越するやり方で「赦す」ことによって、真実を明らかにし、前進することができるわけです。

しかし、このやり方は、法が「赦し」を与えているわけで、被害者が赦しているわけではありません。一見、法を超越しているように見えて、被害者の加害者に対する反発を法がおさえこんでいる。

ということは結局、法的な決着に過ぎないわけです。

戦争についても同じようなことが考えられます。前進するために、とりあえずの被害と加害が定義されます。しかし、それは法が定義した、加害や被害であって、その後にそこに付随する被害者が出てきて、決着したはずの加害の範囲も拡大されていくわけです。その責任を、その後に生まれた私たちが負うかどうかというのも、結局は権利を引き継ぐ以上、責任も引き継ぐという法的な解釈によるものです。

裁判での決着は、学問的真実ではなく、法的な真実に過ぎない、ということです。だからこそ、真実とは何か、何が真実だったのかという議論はそう簡単にはやみません。であるとすれば、またそこに新たな責任が生じます。

しかし、それを決着させるのも、責任を生じさせるのも、法である。法は法にすぎず、しかし、結局は法の範疇の中にある、ということでしょうか。

公共性と政治参加~個人の自由と責任、行政の役割

もう少し、責任の問題を考えていきましょう。

私たちは社会の中を生きています。個人の自由というものをみなさんは信じて疑わないと思いますが、そういうものを制限するものがあるとするなら、それは公共性とか社会とか言われるものになるでしょう。

つまり、自由と公共性、個人と社会という対立する概念の中を私たちは生きているわけですね。

まず、いわゆる「大きな政府」というものを考えてみましょう。社会とか公共性の役割が大きくなっている社会です。社会保障が充実している社会をイメージしてください。私たちが自由に稼いだお金がとりあげられて、社会に分配されていると考えれば、確かにそれは「公共性」の社会なのですが、内実は単純ではありません。

そのお金が公共性に使われていく場合、私たちは個人的な社会に対する義務を、行政に代行してもらっていると考えることができるのです。

社会には弱者がたくさんいます。赤ちゃんや病者、介護を必要とする人、虐待を受ける人、貧困などなど。こうした一人では生きていけなくなる人は、誰かの助けが必要です。

しかし、そこに注力すると、私たちは自分らしい人生が歩めなくなります。母親や父親が、赤ちゃんにつきっきりでいたり、要介護者の介護に明け暮れていては、自分らしく生きることはできません。だからこそ、保育園や介護サービスが必要なのです。

つまり、私たちは、弱者を助ける義務、政治参加と呼ぶのですが、その義務を誰かに代行してもらうことをのぞんでいる。もっというなら、個人として生きるために、行政による政治参加の代行を必要としているのです。

あくまでも、良い社会を作る、という前提があっての話ですが、本来、目の前に倒れている人がいたら、自分が助ける、たとえば病院に運ぶわけです。虐待があれば、自分が介入する。子どもたちは保育園でなく、自分たちで、社会で育てる。育休を増やすイメージですね。

しかし、私たちは個人としての自分を尊重して、代行を期待しているわけです。

これは政治参加、あるいは責任の放棄ではないのか、と考えることができるでしょう。

もっと逆説的に問われたこともあります。

個人の自由が前提として存在し、信じて疑われないからこそ、助けを必要とする弱者を救うことさえも、政治参加の義務ではなく、個人の自由として扱われる。

どんなに保育サービスを充実させても、24時間預かる(もはや子育てはありませんね)のでなければ、家族の誰かが面倒みなければいけません。つまり、どんなに個人の生き方を優先させようとしても、現実はそうはいかなくて、誰かが自分の時間をその人に差し出さないといけないわけです。

しかし、この個人主義の時代、個人とか、自由とか、そういう概念がこういう時だけなくなるというわけにはいかない。したがって、その「自分の時間を誰かに差し出す」ということさえも、個人の意志によって、自由を返上している、とみなそうとするわけです。

こうして、「女性は本質的に母性がある」などという言い方がされ、女性が自ら望んでそれをしているような理屈になっていくわけですね。

果たしてそれでいいのか、という話です。

慶応法学部では「ケアの倫理」という形で出題されましたが、政治参加ということだと、死刑の執行ボタンを押すべきかどうかというような形でも出題されました。

原発事故に私たちの責任はあるか?環境問題を考える

さて、ここから発展させて、責任について考えてみましょう。

2011年3月11日に、あの東日本大震災が起きました。そして、今も影響が大きく残る原発事故が起きました。

さて、その「責任」について考えましょう。

ざっくり言うと、原発事故の責任は、私たち消費者、一般市民にあるのかという問題です。原発事故の補償についても、私たちの電気料金から捻出されているはずで、もし、私たちに責任がないのなら、そのあたりについても検討が必要になるはずですから。

たとえば、福島の、あの地域には様々な配慮がされています。原発事故のコントロールの拠点となったのは、Jヴィレッジという、サッカー日本代表が活動していた施設です。なぜ、そのような施設があそこにあり、なぜ、緊急事態に受け渡されたかといえば、それは、もともとの原発を受け入れる見返りのような性質のものだからです。

原発に限らず、あまり誘致をしたくないようなネガティヴな施設は、見返りのようにその地域にさまざまな恩恵をもたらしたます。税金のような、お金という具体的な見返りもあれば、プールなどのスポーツ施設や道路などの公共施設など、さまざまな施設が建てられるというような見返りもあるわけです。

なぜ、そのような見返りがあるかといえば、それは誘致すること自体に一定のリスクがあるからです。ネガティヴなものを抱え込む見返りはあらかじめ払われている。私たちの地域にはプールもサッカー場も道路もないけれど、そうしたものを抱えた地域にはきちんと何らかの見返りがある。そういうある種の取引によって、原発が出来ているとするなら、その取引はすでにされているというように考えることができます。つまり、消費者である私たちは、すでにリスクに対する対価を地域に対して払っているわけですから、一定の責任を果たしていると言えるのではないでしょうか。

環境問題の場合、未来世代に対する取引ということがよく想定されます。自由で平等な社会において、対価とか取引とか対等という言葉は重要で、私たちが未来世代のために環境を守る、残す必要があるとするなら、未来世代は私たちにどういう対価を払えるのか、ということを問うたりするわけです。逆に言えば、未来世代は対象が存在しないわけで明確ではなく、まして私たちに何かをもたらすこともなく、そして当然取引をしているわけでもないのです。そういうすべてが仮想によって行われているものが環境問題に対する対応なのです。これは対象を、自然とか生物にしても同じことです。そういうフィクショナブルな概念で構成されている環境問題に対する対応は、欺瞞ではないのかということが問われたりします。

さて、上記二つの例についてですが、何が考え方として不足しているのでしょうか。それが「責任」について考えることです。

たとえば、最初の原発事故の場合ですが、責任はない、という結論でいいのでしょうか。

これを考えるためには、次のような例をあげてみましょう。

産業廃棄物を処理する業者があるとします。今まで、ある量を処分するのに1万円必要としていました。そこにBという業者が参入し、費用を1000円で請け負います。あなたはどのような選択をしますか?

そうですね。安い方がいいという結論になるのでしょう。ありとあらゆる人たちがあなたと同じ選択をした結果、最初の業者は廃業し、Bという業者が全面的に請け負うことになりました。

しかし、数年の後、発覚するのですが、実はBという業者は不法投棄をしていただけで、適正に廃棄物を処理していなかったのです。それが格安のからくりでした。

その不法投棄によって、環境被害が発生しています。この被害に私たちの選択は影響を与えていないかを問う必要があります。

もちろん、悪いのはBという業者です。それは間違いありません。賠償責任もBという業者に生じることは間違いありません。しかし、それはそれとして、Bという業者を、当初の業者の代わりに信じた私たちに責任はないのか。少なくとも、その安いカラクリを見抜く努力をしなければいけないし、処理方法に関心をはらわなければいけないのではないかと思うわけです。

少なくとも、業者を選択する責任が消費者にはあります。たとえば、環境に優しい製品を選択したり、正しい雇用や取引をしている企業を選択したり(フェアトレードですね)、そういう選択です。最近で言えば、フードロスへの対応やボランティアのような、社会貢献をしている企業を選択するかどうか、などです。

では、私たちは原発に対して、必要な監視をしてきたのか、関心を払ってきたのか、という問題があるわけです。おそらく、そういう関心を払わずにきたからこそ、原発があのような状況に置かれたのだと思います。事故が起こった責任があるかというのは難しいですが、少なくとも今後、原発が安全に運営されているのかどうか関心をはらう必要があるのは間違いないはずです。

環境問題の場合、相手がいない、という仮想性を逆手にとって、何でもやってよいというのは論理の飛躍です。法的な契約が存在しないから、個人の自由が極限まで許されるというのは、一面的です。

つまり、未来世代は存在しないかもしれませんが、少なくとも私たちは過去の世代が残した様々なものの上に存在しているわけで、私たちは過去の世代に何か対価を払っているわけでもないのに、もらうだけもらって、後はやりたい放題だと言い放っているのです。

これは、第一に個人という概念を、大前提にしていることが問題です。つまり、個人というものは疑いなく存在し、その個人の自由は最大限尊重される。もちろんそれは他者と利害の衝突を起こす。だからこそ、契約や取引が必要になる。逆に言えば、それがないならば、自由は尊重される、という理屈です。この大前提は、個人として、私たちは他者の干渉を離れて存在しているということです。

この前の項目で論じた話ですね。

個人として存在するためには、政治参加、他者に対する協力が必要です。赤ちゃんや老人が助けが必要であるということは、自分がその役割を果たす必要があるということでもあります。人は必ず赤ちゃんや老人としての時期を過ごすわけで、それを必ずしも特定の誰かとやりとりして乗り切るわけではありませんし、一方的な弱者、つまり受け取るばかりで同じような奉仕ができない状態の人も存在します。そういう人にも奉仕するということは、つまり、私たちに政治参加をし、奉仕する義務がある。もっというなら、個人の生き方を捨てて政治参加する場面が多少は必要であるということなのです。

環境問題については、論理的な因果性が不明瞭なことが多いので、特にこの「契約」という考え方では対応できない部分が多いと思います。しかし、だからといって、個人の自由を前提にした上で、「契約がないのだから何をしてもよい」というのは、大きな欠落があることがわかります。

つまり、そもそも「個人」という概念自体を疑って反省していく必要はあるはずなのです。

差別は自由と平等によって起こる?

最後に「差別」が自由や平等によって起こる、ということを説明したいと思います。

差別の対義語にあるのが平等のような気がしますから、そもそも理解できないということがあるかもしれません。

日本の場合でいえば、江戸時代までは身分制度があったわけで、それが明治、つまり近代になって解消されるわけですから、一見、差別がなくなったような気がするはずです。

しかし、ここからが差別の始まり。

たとえば、身分制度がある状態を基本としていれば、学校に通えない、成績が悪い、というのもすべて身分制度に起因するものになります。つまり、外的要因がその理由であるわけです。

しかし、身分制度がなくなれば、表面上、平等な状態が保たれているわけです。その状態の中で果たして、外的な要因がないといえるのか?昨日まで学校に行くことを許されず、家の事情で働いていたりした子供が学校で同じように学んでいるといえるのか?

それでも、平等になった最初は、そんな「事情」もなんとなくみんなわかっていたかもしれません。

しかし、そうやって落ちこぼれてなんとか学校にだけ通った子どもが卒業してどんな暮らしをするのか。もともと虐げられていた人が表面上平等になったとしても劇的にそこから抜け出せるとは想像できないはずです。

そういう家に生まれた子どもは、どんな暮らしをして、どうやって学校に通うのか。

差がついていって当たり前です。

そうして、二代、三代と続くとすでに100年近くが過ぎるのです。そうすると「もともと虐げられていた」という外的要因が忘れ去られて、「ずっと平等なのになぜかあいつらは成績が悪くまともな仕事につけない」というような意識になっていくのです。(表現が適切ではないですが、差別の話をしているので表現としてはこうなってしまうのをご容赦ください)

ここで、原因として求められるのが、「もともと〇〇出身者だ」というような共通性です。つまり、「血」の問題としてすりかえられていくのです。これが日本の場合では、部落差別と呼ばれるもので、部落出身者はそういう血なのだ、ということにされていきます。

アメリカの場合だと、自由で平等な社会が担保されているという自負があります。しかし、実際の社会では、白人が常に優秀で裕福で、黒人が貧困の中にいる。自由で平等であるということは疑われませんから、これも血の問題にされてしまうのです。実際には、奴隷制度まで遡って、過去からの負債を考慮する必要があり、決して社会が平等ではない、持っている人が常にその富を使って、新たな富を築く構造になっていることを暴かなければいけないのですが、自由と平等に自負があればあるほど、そこは疑えない。それでも差はある。つまり、これは人間の種類、人種の問題だということになるのです。

現代でも、しかも高校生レベルでも同じようなことが起こります。

貧困の連鎖と呼ぶような環境の問題を、常に個人の努力の問題でとらえることもあるでしょう。年金のような問題も、自己責任におきかえていくようなこともあるでしょう。

ですから、こうした平等が信じられるからこそ起きる差別、部落差別や人種差別、個人の努力不足の問題にすべての理由を求めるようなものもこの理屈で起こってくるのです。

 

慶応大学の法学部で出題されそうなテーマをまとめました。いかがでしたか?

是非、しっかり理解してくださいね。