国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

メロスってそもそもなんで走ってるんだっけ? 走れ!「走れメロス」3~教科書定番教材を楽しく

「走れメロス」の解説をしてきたシリーズもいよいよ終盤です。どうもメロスのうさんくささがわかってきつつ、それでも走り出しているメロス。今日はメロスがなぜ走っているかを考えます。


manebikokugo.hatenadiary.com

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 走れなくなったメロス

いよいよ勇者の風格漂いはじめたメロスですが、それは突然起こってしまいました。

 身体疲労すれば、精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。

  というところからはじまって、挙句の果ては、

君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉。

  というところまで、行き着きます。さすがに、これはないよな。ひどいやつだよ、メロスは‥と、授業をやると、必ずこういう意見が出てきます。

 メロスは勇者なのか、勇者でないのか。

 メロスは、濁流にも、山賊にも勝ちました。普通は勝てません。だから、きっと勇者です。でも、勇者のくせに、こんな気持ちになる。だから勇者じゃないかもしれない。勇者に不似合いな不貞腐れた根性を持った奴ですから。
 というわけでここで、メロスを勇者と思っている人には、勇者格下げしたくなり、メロスをウサンクサイと思っていた人には、なんだか妙に同情してしまうような、そんな場面を迎えています。
 そうなのです。メロスは外部の敵には勝ちました。外の敵があってはじめて戦える。なんだかとっても、近代自我の確立のお話になってきましたね。外の敵があって自分ができあがる。でも、本当の敵は自分自身であり、これがまた強敵なわけですね。

 でも。これが本来の人間なのではないか。自らを敵との対立の中で、確立するのでなく、自らと向き合う必要があるのではないか。そして、その葛藤、弱い自分を見つめることが普通の人間なのではないかと思うわけです。
 だからこそ、親近感がわくんですよね。嫌いだったメロスが妙に好きになる一瞬です。

再び走るメロス。走れ!メロス!

日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。

  もちろん、「走れるんだったら、最初から走れよ」という声があがることもあるでしょう。でも、走れるのに、走れなくなるのが人間。当然のことかもしれないけど、偉くもなんともないかもしれないけど、もちろん勇者でもないかもしれないけど、普通の人間メロスが、それでも走り出したのです。

 走れ!メロス。ようやく真の意味で走り出したメロス。ここで、作者、いえ、語り手も思わず叫んでいます。

 そして、また、この叫びも、この小説の大きな問題点だと思います。

ひとつ。どうして、作者はここまでメロスと同化するのか。
もうひとつ。そもそも、メロスが「走る」ことはそんなにおおげさなことなのか。
 まあ、でも、これもそのうち、解き明かすことにして、のんびりとすすめていきましょう。

 だんだんと普通の授業になってきました。ついに走り出したメロス。走れ!メロス。う~ん、なんて素敵な道徳的授業。

 

最後の誘惑

 最後の難関は、フィロストラトスです。 

「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの方をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、間に合わぬものでもない。走るがいい。」

  こいつはいったい何者なんでしょう。「間に合うなら走る。間に合わないなら、走らない。」このぐらいなら、分かりますが、「ひょっとしたら間に合わぬものでもない。」ですからね。山賊以上に、王の手先な感じがすごくありますね。

 訳が分からなくなっているのには理由があります。太宰がもとにしたと思われるシルレルの詩では、この人、メロスの弟子なのですね。だから、最後に登場するのも分かる。だけど、太宰は、こいつを、セリヌンティウスの弟子にしていますので、訳が分からなくなったのです。もちろん、変えた理由はメロスが住んでいる場所を、ここではないようにしたからでしょう。本来、ここに住んでいて妹を結婚させて戻る物語であったものを、住んでいる場所をここでなくしてしまったわけです。

 それだけ、物語からすると「戻る」ということに重きがあるんだと思います。

 ここは、単に物語として練れていないところだと思うので、あんまり深入りはしないことにしますが、最後の誘惑の部分であることは間違いないでしょう。

 彼は言っています。

信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。

  なんのために走るのか。こう考えてみると、信実のために走る。自分の名誉とか、勇者メロスとか、どうもそういうことでなく、友のために走る‥なんていう風にいかにも国語の授業のように展開したくなりますが、どうもそうもいかないようです。

私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

  これは、さっきの「走れ!メロス」から「フィロストラトス」の間のセリフ。ということは、やっぱり、人からどう見られるのか、という問題が解決したわけではないんですね。

 走れ!メロス、の前には、

歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。

なんて部分もありました。

 

メロスはなぜ走っているのか?

 ここのところ、ずいぶん、まっとうな国語の先生のような展開をしてきましたが、ここでもう一度、立ち止まりたい。

 彼は、なんのために走っているのだろう。「信じられているから走る」これはどうもそうらしい。「なんだか、もっと恐ろしくおおきなもののために走る」確かにそう言っている。

 けれども、正義の士として死にたいことも間違いないし、真の勇者なんて言葉が彼から出てくるのも間違いない。

 そもそも理屈として「信じられているから」という理由は、「信じられていないなら」と読みかえられます。そうしたら、どうなるのだろうと考えると恐ろしい話です。彼は、自分を裏切っている友だと知ったら、走らない可能性もあるわけです。

 彼が走りながら、全裸になっていく過程は、なんだか虚栄心が剥がれて、本当の信実があきらかになる過程のように語られますが、私はそうは思わない。最後まで、彼の頭の中には、「人からどう見られるか」という問題は残り続けているかもしれません。せいぜい言うなら、「間に合って助けるのが真の勇者」と思っていたメロスが、「間に合わず格好が悪くても真の勇者」と思い直した程度でしょうか。どっちにしろ、「勇者」という衣は決してなくなったわけではないと解釈すべきではないかと思います。

 さて、となると彼はなんのために走るのか。「信じられているから」「勇者であるから」走る。今までと同じように見えながら、けれども、それは「もっと恐ろしく大きなもの」である。しいて、前後の違いをあげれば、「間に合う、間に合わぬは問題ではない」ということぐらいでしょう。
 間に合わなくても走る、ということは果たして何なのか。全力を尽くすことなのか、全力を尽くせば、それでよいとすれば、それこそ自己満足で偽善ではないのか。問題は深くなるばかりなのですが、残念ながら、メロスは間に合うことで、全てを解決してしまいます。
 間に合わなかったときこそ、太宰の書きたいことはもう少しくっきり見えた気がするのですが。
 残念ながら、メロスは間に合いました。そして、到着してみて、もう一度、浮かび上がるメロスのウサンクササ。虚栄心がなくなったように見えて、くっきりと現れるメロスの「勇者」意識。この勇者意識は、だから、もっと複雑な奥の方に押しやられたということもできるでしょう。
 そして、ここで、もう一度、王様を考えてみて、メロスを反省させてみたいと思うのです。