国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

小説を学ぶ・小説を入試で出題する意義 「物語を読む」ってどういうこと?

最初のうちなので、すごくざっくりとしたところから進めて行こうと思っています。この間は評論・論説文についてざっくりと書いたので、今日は小説・物語のお話。あくまでも、ここでは、小説や物語そのものの価値や意味ではなくて、国語教育としてのお話。だから多少偏っていたとしても、そこは「国語教育」の話だということを頭の中に入れてください。

すごく簡単にいうと、小説から、たとえば生き方や道徳的なことを学ぶことがあったとしても、それは、映画やアニメや漫画からも学べるよね?ということ。

ここでは、内容そのものではなく、読書、本を読むことを通じて、物語から何を学ぶのか、という視点で書いていくので、「そんなことより、まずは内容なんだ!」ということを決して否定しているわけではない、ということを、最初にお断りしておきたいと思うのです。

 

 想像力

というような観点で、小説を扱うときに大切なのは「想像力」だと教えています。

ここでいう想像力とは、「言葉を映像にする力」。

決して「空想する力」ではありません。

そもそも想像するためには、使われている「言葉」を知っていることが条件です。この間の論説文を「ひたすら読む」というアドバイスにも通じるものですが、「言葉」を知っているからこそ、それを正確に想像することができるわけです。

manebi.hatenadiary.jp

「世界は想像力の大きさ」「世界は言葉の量」

ですね。

「空想」ということは、物語を作ることとしては、大事な力ですが、「わからないこと」があったときに、それを「空想」しているとすれば、「物語を読む力」とは言えません。物語を読むことは、「自分とは違う他者」に迫ることであり、決して「自分のお世界を作る」ことではないからです。

(もちろん、「物語を作る」ということも大事な力ですが、ここでは物語を読む力の視点も大事だし、作ることと読むことは違うよね、ということです)

 

「もし、自分だったら‥」の間違い

そうなんです。

よく物語が苦手なこどもに「あなただったらどうする?」と聞くことがあると思います。厳密にいうと、あまりよくありません。

なぜなら、登場人物と、「私」は違う人物だからです。

もちろん、「もし、自分が悪口を言われたら‥」「もし、自分がいじめられたら‥」というような局面で、「自分だったら」と考えることに意味がないわけではありません。他者を「思いやる=思い遣る」ことだからです。

でも、そうだとしても、その登場人物が、みな自分と同じように考えるかといえば、それは違っているわけで、物語に登場するのは、「他者」なんです。

高校受験、大学受験ぐらいを経験した人は、読みやすくて面白いと感じた物語の問題文に限って、意外と答えが間違いにされて、なんだか訳のわからない小説の時に、思ったより高得点がもらえた経験はありませんか?

これは実は、

  • 読みやすい小説→思い込みが強くなる→自分の経験や感情で答えて間違いにされやすくなる。
  • 読みにくい小説→感情移入できず、なんだかわからない=答えが書けない→答えを書くために本文を写す作業が多くなる。

というようなことから起こるのです。

物語で求められるのは、登場自分の行動や心理を言葉通りに思いをはせること。

だからこそ、「読みにくい小説」の方が、「小説で得点をとるための読解」に近づいていくのです。

 

読書というメディアの特性

そして、これは、「読書」という行為、メディアの特性でもあると思うのです。

テレビや漫画、アニメとの違いということです。

たとえば、最初に書いたことですが、「内容」や「テーマ」を得ることが目的であるなら、別にわざわざ本を読まなくても、わかりやすい映画や漫画でもいいと思うんです。

たとえば、「友情の大切さ」「いじめの辛さ」「努力は必ず報われる」ということをこどもたちに学ばせたいなら、小説を映画にしたり、漫画にしたりした方がわかりやすいのではないか、ということです。

逆に言えば、それでもなお、読書をすすめるとするなら、それは「内容」以上の何かであるということになりますよね。

簡単にいえば、読書というメディアだけが、「他者」に対する想像力を必要とするということです。

本は、まず、勝手にページがめくられません。

勝手に話しかけもしません。

それも、どんな映像になるかも示しません。

本だけが、こちらが主体的に、一方的に「わかってあげないといけない」メディアなのです。

「~しながら」を許さないメディア。

他のすべてのものが、わかりやすく提示するメディアだとすれば、本は、本当にわがままで、「わかりたくない人には何も与えてくれないメディア」だということです。

これも「他者理解」。

「他者をわかろうとする力」ですね。

だからこそ、読書経験はコミュニケーション力を育てるはずです。

周りにわかってもらえると思っている子。相手が自分にわからせてくれる義務があるんだと思っている子。もっといってしまうと、教室にいて、何もしないで、「どうしてみんな自分の気持ちがわかってくれないんだろう」というような子にしたくないと思うなら、本を読ませることはとても大事だと思うんです。

ちょっと話がそれていますが、幼稚園に入る前だとするなら、読書は大変です。

だから「絵本」ですね。

挿絵でイメージを与えつつ、挿絵以上のものを言葉で想像する。

次の段階、そうですね、たとえば、小学校にあがるくらいか、低学年ぐらいは、読み聞かせですね。

読み聞かせなら、言葉までは与えて、あとは想像力。セリフのイントネーションや感情まで与えて、あとは想像力。

こうした段階はとても大切です。

もし、あなたが、保護者の方なら、読み聞かせはがんばってもらうと国語力にはものすごく貢献します。

言葉を言葉通りに想像する力

ここまでで、なんとなくわかってきたかと思いますが、どれだけ、言葉を正確に拾えるか。そしてそれはどれだけきちんと映像にできるか、ということです。

私が教えるのは中高生なので、よく

「あなたがこの作品を映画化、アニメ化するなら、すべては映像にしなければいけない。すべてを演出しなければいけない」

と話します。

小説を読むとは、「演出」にほかなりません。

ロケ地を選ばなければいけない。

ロケをする時間も決めなければいけない。

背景や小道具を準備しなければいけない。

キャストも決めなければいけない。

文句を書いてしまうなら、アニメも映画も、美男美女、イケメン星に住んでいる人たちで作られますが、必ずしも作品にはそのように書かれているとはかぎらないわけで、これは大きな問題です。(これはそのうち、名作を選んで実際に指摘してみたいと思います。)

演出って結構大変ですね。

私はこうした力を育てるのは「演劇」だと思っていて、「脚本を読み込んでキャラクターを正しく読み解く」「役者」の資質に近いと思っているのですが、言葉のはしばしから、正しく書かれていないさまざまなことを組み立てられるかが小説を読む際に、求められている気がします。

だからこそ、国語の授業では、本来、しっかりとその部分を指摘するような授業をするべきだと思うのですが、おそらく、ですが、教科書でさえ、きちんと作られているとは限らないと思っています。

あんまり、文句は言いたくないのですが、教科書の挿絵や写真のいい加減なこと。間違ったイメージを与えて、むしろ、言葉の理解の邪魔となるような挿絵や写真を平気で放り込んでいるケースもあったりして、おそらく、国語というよりは道徳なんだろうな、と教科書会社には言いたくなります。

物語を正しく読むために~言葉の力と映像の力

そうなっていくと、物語を読むためには、語彙力=ボキャブラリーが必要になることがよくわかります。

大きくわけると、言葉はふたつに分かれます。

ひとつは、心理=行動にかかわる言葉

もうひとつは、背景や設定にかかわる言葉

物語の読解では前者が強調されます。まさに心理は、言葉によって与えられていきますから、こちらは、物語を読めば読むほど強化されいくような側面があると思います。つまり、とにかく物語を読めばいい、ということですね。

問題は後者。

あまり、言われていませんが、知らないものを想像できるわけがない。

では、知らないものを言葉だけで想像ができるか、と言われれば、できるわけがない。ここで必要となるのは視聴覚教材となるわけです。

さあ、大変です。

物語の舞台、時代はどんな可能性がありますか?

平安時代の貴族?鎌倉武士?戦国時代?江戸時代?明治に入ってますか?昭和初期?戦時中?戦後間もないころ?高度成長期?バブルのころ?そして現代?

場所の持つ意味がわかるためには、地理的感覚と時代的感覚が必要です。

渋谷と山梨では持つ意味が違いますが、これが時代ごとで意味が変わるとしたら、さあ大変。

そもそも、舞台が日本とも限らないし。

お子さんは、家に電話をかけていたあのころの雰囲気、わかってますか?コードレスのなかったあのころ。テレビが一台でチャンネル争いをしていたあのころ。

大変さがわかりましたか?

よく、国語力はすべての基本だ、なんて言われますし、国語のできる子は地頭がいいなんていいますが、私はあやしい、と思います。相関関係としては正しいですよ。因果関係が逆だと思うのです。

小説がきちんと読めるということは、ものすごく知識が必要だということ。いろんなものを知っている子が国語ができるのだということです。

 

映像でみることの重要性

古典の授業をしているときに、資料集とか開いて、物の名称を覚えないといけない、ということなんですが、「もの」っていうのは行動と結びついてはじめて人は認識できるんですね。

椅子、っていうパターンを無限に記憶しているのではなく、「座る」という動作によって、はじめて「椅子」がわかるということです。

 だから、資料集だと今一つ覚えにくい。こんな時代だからこそ、「動画」がいいんですよね。

あれ?

話がおかしくなりました。

最初のうちは、「本で読め」と言っていたのに、なんだか「映像を見ろ」といっています。

そうなんです。両方必要なんですよね。

問題は、今、テレビドラマやテレビで映画をやる機会が圧倒的に減ったこと。

まして、こどもたちがテレビの代わりにyoutube的な細切れの現代発信の動画を見ているとしたら、どうやって、言葉が映像になるんだろう?

テレビだって、ネットの動画をつなぎ合わせたようなのばっかり‥

私も見たくなかったですが、時代劇も姿を消し、なんとか大河が生き残っているぐらい。

○○洋画劇場はほとんど姿を消し、名作を知る機会も、放っておいたらありません。

これは大問題。

物語を簡単な映像で、2時間近く見る機会も、言葉が表す映像を得る機会もなくなっていく。

そして、読書もしなくなっていく。

なんとか漫画に頼るしかないんでしょうか‥

ちょっと暗くなって今回は終わります。