国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

国語が苦手な人へ。どうやって国語を得意にするのか?~受験を考える前の、子ども編

国語が苦手な人がどうやったら得意になるかを、順を追って考えて、それぞれの年代や受験レベルにあった対策を考えてみたいと思います。

「国語」という科目は、とても厄介ですね。

たいして勉強もしていないのに、得意な人もいれば、やってもやってもダメな人もいる。

同じ個人で考えても、何もしてないのに高得点がとれたかと思えば、準備をしたのにダメなこともある。

だから、何をやっていいかわからなかったり、言われたことをやっているのに効果があがるようなことがなかったり…。

というわけで、そんなことも考えつつ、どうやったら国語を得意にできるか考えてみたいと思います。

今日は、その中でも、幼児教育、早期教育に当たる部分を考えましょう。

なので、受験期を迎えるお子様をお持ちの方には少し待っていただきつつ、そうはいっても、国語を得意にする根っこの部分を、考えてみたいと思います。

 

国語~想像力=言語から映像を作り出す力、相手に正しく伝える力

さて、まずは「国語」、あるいは「国語力」というものを定義していかなければいけません。

おそらく根幹にあるのは「言葉」「言語」です。

だから、「言葉から何かをわかり、言葉で何かを伝える力」ということになると思います。

評論のような、抽象的な概念になってくると、「言葉を通して概念を理解する」ということですね。不思議なことに、概念そのものは「~学」というような専門分野として認識されるわけですが、それを「言葉を通して理解する」となると、急に国語力の問題にされるわけです。

概念は言葉を通して学ぶとすれば、それを理解するだけの基礎知識が必要であり、これを概念から切り離すのはナンセンス。つまり、概念そのものを理解する気持ちがないと、国語力はあがらない、ということになります。

いきなり、難しい話をしてしまいました。

私が伝えたいことは、「言葉の問題」といったところで、知らないものは理解できないということです。

よく小説、物語の説明をするときに、「国語は想像力だ」と教えます。この場合の想像力とは、「言葉から言葉通りに映像を作る力」のことです。

文字で書かれていても、映画化やアニメ化をすれば、人も声も動きも、ロケ地もセットも必要になります。

ちょっと間違えば、コアなファンから「違う!」とお叱りを受けることになるでしょう。

原作に忠実に、想像する力。

伝える側で考えるなら、目の前にある映像を、言葉を通して正しく相手に想像してもらう力、と言ってもいいでしょう。

まずは、これが国語力の根本と考えることにします。あくまでも、私は、ですが…。

絵本、そしてマンガとアニメ、映画の重要性~知らないものは想像できない

さて、そういう前提で考えていくと、「イメージ」することが大切になります。だって、「知らないもの」は想像できません。

何か知識を得ようとするとき、もし、本だけで情報を得るなら、そこで使われている言葉をすでに知っていることが前提です。

なぜなら、知らないものは想像できないからです。

たとえば、「カセットテープ」なんて、今の子どもたちは知らないですよね。

これを、言葉で教える必要があるのか?たとえば、本に注をつけて解説するとか、辞書を引かせるとか、そういうのが、本だけで情報を得て理解する方法です。

そんなことより、「これがカセットテープだ」って、本物を見せる方が早い。使わせる方が早い。

もちろん、大人にとっては、「見たことのないものを、言葉を通して、相手に理解させる」というのは、ものすごく国語力を伸ばす経験であるとは思うんですけど、子どもがカセットテープを理解するのに、辞書を使わせる必要はありません。だって、私たちは、辞書でカセットテープを知ったわけではないんだから。

たとえば、古典を勉強します。源氏物語とかね。

そうすると、文化とか状況とか、見たことがないといけない。浮かびますか?

まあね。私たちの時代は、資料集とかで見させられて、う~ん、なんて思うわけですけど、大事な情報ではありますが、あれで、ぼくらは理解したんでしょうか。

いえ、たぶん違います。ぼくらは、映画とかドラマとか、あるいはマンガとかアニメとかで見ていたんです。そういう映像のイメージがあって、あんなよくわからない資料集でも、なんとなく結びつけて、「要はこんな感じ」って頭の中に、ざっくりと思い描いていたんです。

だから、映画とかドラマとかアニメとかマンガとかって大事なんです。

勉強です。それ自体が。

小さい子どもだと、まずは「絵本」ですね。まさに「絵=イメージ」と文字です。あるいは耳から入る「言葉」です。聞きながら、「これをこう言うんだ…」って学習しているんですね。

だから、Eテレあたりを中心に、アニメはいいですよね。さまざまなイメージが入っていきます。まずは、名詞、動詞、形容詞ですかね。

しかし、現状で子どもたちが普通に生活していると、思っているよりイメージが入らない。というのも、テレビが衰退しているからです。あるいは、細分化されてしまったからです。

Youtubeをはじめとする動画と、ネットやBSなどの多チャンネル化で、様々なものが、テレビから消えていきました。

特に被害が大きいのは、時代劇系統と映画です。要するに、歴史に関わるものを「なんとなく目にする」機会が減ってしまった。

「見ようと思って見る」ものになってしまうと、子どもにとって、テレビが勉強になるようなもので、それではたぶん続かない。

そうなんですよね。もう少し、なんとなく目にすることができるといいんだけど…

たとえば、お気に入りのアニメがあるとします。

それがいくつもあれば、アニメの中でも多様性が生まれます。さまざまな言葉とさまざまな文化があるかもしれません。

でも、一つだと、たとえばYoutubeで、そればっかり見ている…みたいなことになりかねないわけですね。

だから、親としては、いろいろ見せてあげる、というか、アニメに多様性を持たせるというか、要は、「いいじゃないですか、どんどん見せて」みたいな話になっていくような気がします。

一方で、親が見ている硬質な映画とか、歴史ものとか、一緒に見なくてもいいけど、画面がついている横で遊んでいるというのも大事で、これが「なんとなく知っている」ということになるはずなんですね。

 

言葉を読むことの大切さ~まずは、絵本、そして、知っている言葉でできた作品から

とはいえ、アニメばっかり見ているとどうなのか、ということですね。マンガはたぶん、字が読めるようになってきてからだし、「字を読んで理解する」という行為があるので、少し高度というか、成長してからなので、少しおいておきます。

アニメを見るという行為は、確かにイメージに言葉を与えてくれます。絵と言葉が完全対応している絵本ですね。

でも、アニメばっかり見ている子どもが成績優秀かといえば、必ずしもそうではない気がします。アニメを見てばかりいたら、成績が下がるかといえば、そうではない。

でも、アニメを見たら優秀になる、という図式は成り立たなそうです。

なぜでしょう?

それは、一方通行だからです。そこには、「イメージを与えられ、言葉を教えられる」子どもがいるだけ。

「言葉を使う」子どもや、「言葉からイメージを想像する」子どもはいないんです。

最終的な国語、あるいは学習は、「言葉から想像」しなければいけません。しかし、これ、その練習がないんです。ずっと「映像」がありますから。

マンガは、まだ言葉から想像するものがある。でも、情景であるとか表情であるとか行動であるとかは、言語からすっぽりと抜き取られます。だって、それが絵だから。心理とか心情とか説明とかばかりなんですね。

アニメにいたっては、言葉から想像することはほぼない。見たままです。

これでは、国語の学習にはなりません。

だから、本が大事なんですね。

絵本は、絵がある、イメージがある、という時点で、アニメやマンガに似ていると思うかもしれません。しかし、それは挿絵のようなもので、すべての説明ではありません。その絵の動きや感情、そういったものは、想像しなければいけません。

年齢があがると、絵に比べて、字が増えていきますよね?そうなると、絵だけ追っていてもどんな話かはわかりません。言葉があって、はじめてわかるわけです。

徐々に徐々に、言葉の役割、絵を補う言葉が増えていく。

そして、最後は、文字を読むようになって、自分ですべてを想像するようになるわけです。

だから、この訓練て、とても大事なんですね。

では、たとえば、字だけの本、あるいは絵だけでは理解できずに、字で補う絵本を、子どもが喜んで読むためには何が重要でしょうか。

それは、わかること、あるいはなんとなくわかる言葉で書かれていることです。

無理をしないで、知っている言葉、わかる言葉が多いことが大事。それで十分、おもしろい話は作れますから。

その中で、少しずつ、わからない言葉に勝手に出会う。イメージをアニメやテレビや現実の様々な体験の中で獲得しながら、言葉でそれらのイメージを作り上げる練習をしていく。

幼児期における絵本というのは、そういう意味でバランスのよい、すぐれたものだと思います。でも、現実の体験はもちろん、テレビやアニメだって悪いわけではありません。

このふたつを楽しく経験することがとても大事です。

読み聞かせ、というのは、読み手のイントネーションや抑揚で、感情などもつけられます。だから、言葉の理解にイメージを与えます。こういう言葉は獲得しやすい。

そして、いつしか文字を読み、自分で、自分だけの力で想像するようになる。

だから、子どもが好きな本、楽しく読める本を用意してあげることも大切ですね。

もし、戦略的に、子どもを賢くしようとした場合、どんな本がいいと思います?

理想を言えば、子どもがわかるけれど、でも新しい語彙がある本みたいなことになります。

そんなのわかるわけがない。だって、与えちゃえば、言語を獲得するから、また新しい物が必要になる。

でもね、これ、簡単なことです。

子どもが喜ぶものを与えればいいんです。

難しすぎれば、子どもは読まない。だから、適当に与えて、子どもが喜べば、それでいいんです。つまり、読ませたい本でなく、子どもが喜ぶ本を与えればいいし、無理せず、おもしろがらせればいいだけ。喜ばなくて、ちょっとレベルが高かったら待てばいいだけ。

だから、いかに喜ばせるかだけ考えるようにしましょう。

 

言葉を知っているから、物事を認識できる~いろいろな言葉を聞く環境はあるのか?いろいろな人と子どもは会っているのか?

さて、本から少し離れましょう。

ここまで、「言葉とイメージ・概念」の対照という話をしてきました。イメージが先か、言葉が先か、ということになると、答えは同時、というか、あるいは言葉、ということになります。

これは「言語で世界を分節化する」というお話です。

www.kokugo-manebi.tokyo

つまり、言葉がない限り、私たちは世界を理解できないわけです。

「ネコ」と「イヌ」は区別します。言葉が別だから、別の生き物として見るわけです。しかし「イヌ」であっても、見た目が違うものはたくさんいます。それは全て「イヌ」です。それをわけるとすれば、犬の種類を示す名前、たとえばダックスフンドというような名前を持ち出すしかないわけです。

そうでない限り「イヌ」は「イヌ」です。

ぼくらは、言語で世界を区切るわけですね。

となると、たくさんの言語を持っていた方が、たくさんの物が見える、ということでもあります。言葉になっていないものは、「何でもない何か」として、まとめて存在している。もうちょっと言葉を足すと、意識されないものとして存在している。

となると、子どもがたくさんの言葉に出会っていることが大事ですね。

では、どうすれば子どもはたくさんの言葉と出会うことができるでしょうか。

言葉が、その人を作っているとすれば、できるだけ違う人で出会うことが重要です。

大人の言葉と子どもの言葉、男の言葉と女の言葉というように。親の言葉と外の言葉というものもあるでしょう。世代もあれば、地域もある。生活習慣や文化もあるでしょう。職業もあるかもしれません。性格も、趣味も、作用します。

違う環境を生きていれば、違う言葉があるわけで、そうなれば多くの言葉を獲得します。

現代は、核家族化が進み、地域といっても、同じような生活をしている中で、同じような世代、家族構成の中で人と会うことが進んでいます。

簡単な話でいえば、おじいちゃん、おばあちゃんとよく話しているか、面倒を見てもらっているか、などが言語の獲得に影響する確率が高いですね。

そして、いろいろなものを見せたり、遊ばせたり、体験させたり…というそういうことが、子どもの言語を豊かにする可能性が高いとも言えます。イメージと行動と心理と、そして言葉がそこにあるわけで。

で、それでもそういう場が確保できないなら、絵本というのは、擬似的なものとして、ひとつの選択にはなり得ると思います。

こどもにとって、漢字もひらがなもない。映像と言葉、そして文字

さて、次に字の話です。

私たちは、なんとなく、漢字は難しくて、ひらがなは簡単と思っているところがあります。

でも、それは、子どもが読めるように、ひらがなで書く機会を増やしているから、ひらがなにより親しみを持つだけであって、カタカナや漢字が難しいわけではないと思います。確かに画数の問題はありますから、複雑な漢字は難しいというのはわかりますが、それでも、読むことに大きな支障があるとは思えません。

うちの子どもの様子を見ていると、字を読もうとすると片言になります。「き・よ・う・は…」という漢字ですね。

ところが、実際には、「すらすらと読む」ケースが多い。

つまり、子どもにとって、必死に字を読むときには、本当に字を追っているだけで、読んでいる、意味がわかるとはいえない。逆に意味がわかると、字をみながら意味を想像して、さらっと話していくんですね。

だいたい子どもにとって、必死で読む、なんてことは楽しくないわけで…。

もちろん、字だけのものでは、1人で何もできません。

でも、たとえば、絵本なら、読んでいるのを覚えて、見ながら話す。これ、たぶん、字は読んでいないんですけど、字は見ているわけで、ここがひらがなか漢字かで、覚えが変わってくるんじゃないかと。

KUMONの「ぶんカード」っていうのをやりはじめたんですけど、

なかなかおもしろいです。

漢字を使った文が絵とともにあるんですね。

「馬が走る」「犬が走る」「犬が歩く」みたいに。

名詞だけ変えたり、動詞だけ変えたり、形容詞が変わったり。

そうすると、明らかに絵を見ながら、適当に言っているんですけど、しっかりと字を見ている。たまに、すごい間違いするし、「馬」を「お馬」と言ったりするし。

でも、あ、たぶん覚えていくだろうな、と。

字というものを認識しているのもすごく感じるんですね。

私たちもそうですけど、字を読むときに、正確に画数を意識しているわけではなく、絵のように、何となく形で意識する。だから、漢字の方がわかりやすい。

いわゆる表意文字の特性です。

だから、漢字も与えた方がいい。

本と同じです。子どもにとって、漢字もひらがなもないし、かといって、勉強させる必要もない。

遊びにするだけ。

難しすぎれば、子どもは遊ばない。きっと簡単すぎれば、それはそれで遊ばない。4才のお姉ちゃんが、0才のころに遊んでいたおもちゃがいらなくなって、1才のころに喜んで読んでいた本がつまらなくなっているように。

まあ、弟にお姉ちゃんぶって教えるっていう、新たな遊びはあるんですけどね。

だから、勝手に、楽しい、おもしろいって思ってくれればいいだけです。ただ、こちらで、おさえてしまうのはもったいない。

子どもはたいてい、親の持っているものに興味を持つから。

 

今日のまとめ~本だけでなく、映像もマンガも学習のうち。まずはいろいろな言葉といろいろな体験をすること。

というわけで、国語を得意にするための、子どもへの仕掛けを書いてきました。

  • マンガやアニメやテレビも大事な学習。
  • でも、本を読む、という行為は、読み聞かせでも「想像する」という行為のためにとても重要。
  • 言葉を獲得するには、多様な経験と多様な人との出会い。いろいろなことを子どもにさせよう。いろいろな遊びをすれば賢くなる。
  • 本は、多様な経験と多様な人との出会いを埋めてくれるかも。
  • こどもにあったレベルなど考えずに、大人と同じようにして大丈夫。漢字だって理解する。難しすぎればやらないし、簡単すぎればやらない。子どもが勝手に自分にあったレベルを選んでくれる。
  • だから、無理して勉強させない。でも、楽しく遊びにしたい。

そんな感じです。次は、小学生から中学生が、国語を「勉強」と捉え出すあたりから、考えていきたいと思います。