近代短歌二人目は、石川啄木です。
超有名人。そして意外と生徒の人気も高い。今日はこの人の短歌を読み込む、というほとでもありませんが、読んでいきましょう。
前回まで、正岡子規でこちら。
- 東海の小島の磯の白砂に我なきぬれて蟹とたはむる
- 我を愛する歌
- 「東海の」をもう一度鑑賞しよう!
- 新詩社、明星の流れと根岸短歌会、アララギの流れ
- 我を愛する歌の全体像
- やはらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
東海の小島の磯の白砂に我なきぬれて蟹とたはむる
まずは、有名なこの作品の読解。『一握の砂』に 入っている歌、それも最初なんですが、そんなことも気付かずに教科書で読んでしまいますね。
まず、この歌だけで見てみましょうか。どんなイメージがわきますか?
- 海・砂浜…そうですね。東海とありますから、太平洋でしょうか。明らかに海辺で砂浜が広がっています。
- 泣いている自分(作者)…このイメージも当然でしょう。つまり、作者は海辺にいて泣いている、と。
- 蟹…蟹が砂浜にいるのでしょうか。まあ、海ですからね。砂浜にいるとなれば、毛ガニとかズワイガニとかタラバガニではなさそうで、かなり小さな蟹ですね。
- たはむる…最後にこれ。どうしましょう?感情のイメージが難しい。「涙」と「たはむる」でどう考えればいいでしょうか?
これでイメージがついた人は素晴らしい。
でも、現代の中学生、高校生にこれが理解できるのかなあ。
まさか、ですが、
「海岸を泣きながら、蟹と手をつないで楽しそうに走っている風景」
とか
「ハワイ・グァムのようなリゾート的な海岸で感動して蟹と遊んでいる風景」
とかになっていないかなあ、なんて思うわけですね。
というわけで原典にあたりましょう。
我を愛する歌
作品はこちらからどうぞ。青空文庫です。
というわけで、まず気が付くのはタイトル。
「我を愛する歌」です。
- おれ、自分大好きなんだよね。
- おれ、ナルシシストなんだ。
- おれ、自己陶酔してるかな。
- おれ、自分が大好きなんだ。
どれかはわかりませんが、また、卑下してるのか、反省してるのか、それとも自慢してるのか、そんなこともわかりませんが、まあ、そういうタイトル。
冒頭の何首か、海から戻ってくるところまで見てみましょう。
東海 の小島 の磯 の白砂 に
われ泣 きぬれて蟹 とたはむる頬 につたふ
なみだのごはず一握 の砂を示 しし人を忘れず大海 にむかひて一人 七八日
泣きなむとすと家を出 でにき
いたく錆 びしピストル出 でぬ砂山 の
砂を指もて掘 りてありしに
ひと夜 さに嵐 来 りて築 きたる
この砂山は何 の墓 ぞも
砂山の砂に腹這 ひ
初恋の
いたみを遠くおもひ出 づる日
砂山の裾 によこたはる流木 に
あたり見まはし物 言 ひてみる
いのちなき砂のかなしさよ
さらさらと握 れば指のあひだより落つ
しっとりと
なみだを吸 へる砂の玉
なみだは重きものにしあるかな大 という字を百あまり
砂に書き
死ぬことをやめて帰り来 れり
さあ、どうでしょう?
いやいや、結構すごいですよ。
まず、2首目見ると、失恋ぽいですね。
3首目、泣こうと思って旅に出ている。1週間あまり。なるほど。ナルシシストと分析するのもわかります。失恋して、1週間、泣いている自分に酔っている自分、と、客観視する自分もいるのか。
次です。おどろきます。砂浜の砂をほると錆びたピストルが出てくる。いやいやいや。出ないでしょ。
最後の歌が、「死ぬこと」ですから、びっくりしますが、要は失恋して死にたいから、その道具があらわれたってことでしょ?
この「ピストル」、「我を愛する歌」の中で何回か登場してくるんです。もちろん、死のイメージをともなってね。
引用の最後は「大」ですが、これは「一人」説もありまして、それ知ったとき、「ありそう、この雰囲気」って思うんですよね。わからない?「一」書いて、「人」を重ねて書いたら「大」ですよね?
いや、書かねえよ、って思うけど。
このフィクション性。月九感。嘘っぽさ。くさい。普通、ありえんだろ。
正岡子規とはまったく違う歌の世界がここにはありますね。
「東海の」をもう一度鑑賞しよう!
そうなんです。啄木自身もタイトルで与えているように、この嘘っぽさ。「格好いいだろう」感。正確に言えば、「何、おれ格好つけちゃってるんだろうな」感。
だから、これ。月九的に、テラハ的に、おしゃれ感で、見たい。
失恋。死。月九。
太平洋、白い砂浜。そこには誰もいない。白いワイシャツを着た竹内リョウマくん風のイケメン男子。
泣きながら海に横たわる。こぼれる一筋の涙。打ちつける波が、ワイシャツを、彼の頬を濡らす。
彼は横たわり、涙をこぼす。伸ばす右手。
その指の先には小さな蟹が歩いている。
そこに彼は泣きながら手をのばし触れようとする…。顔アップ、蟹ズーム、顔ぼやけて、ドローンで遠景撮影して、海岸ひとり横たわってるぞ、でカット!CM!
どうだ!こんな感じで。っていう月九のオープニングならありそうだぞ。それならゆるされるぞ。でも、リョウマくんだからいいんで、ぼくじゃだめだ、って感じ。
これが啄木の世界です。
新詩社、明星の流れと根岸短歌会、アララギの流れ
同じ連作つながりですが、こうしてみると、子規の世界観と全然違いますよね。
正岡子規は、ありのままの風景から、ありうべき未来やあったはずの過去を想像する。それに対して、啄木は、うそでしょ!っていうほどの、格好つけて飾り立てた情景をおしゃれに演出する。
まあ、好みですよね。
テクニカルなのは、正岡子規。でも、一般受けするのは啄木。
だっておしゃれだもん。正岡子規はNHK、Eテレみたいなタッチで、啄木は民放の恋愛ドラマ。まあ、資料率は啄木の勝ちです。
啄木の流れが、新詩社、そして、雑誌「明星」。ロマンチックでしょ?
子規は根岸短歌会ですが、NTKなんて略があるはずもなく、根岸短歌会で、雑誌「アララギ」ですから、まじめで、古風ですね。
これから、与謝野晶子、北原白秋、斎藤茂吉と続けますが、このふたつのどっちの流れか考えるのもおもしろくないですか?
我を愛する歌の全体像
さて、そのうえで、我を愛する歌全体を見てみましょう。
愛犬 の耳斬 りてみぬ
あはれこれも
物に倦 みたる心にかあらむ
森の奥より
銃声 聞ゆ
あはれあはれ自 ら死ぬる音のよろしさ
怒 る時
かならずひとつ鉢 を割 り九百九十九 割りて死なまし
という、「はい始まりましたね」的なあぶない歌から、
やはらかに積れる雪に
熱 てる頬 を埋 むるごとき
恋してみたし
かなしきは飽 くなき利己 の一念を
持てあましたる男にありけり
死ぬことを
持薬 をのむがごとくにも我はおもへり
心いためば
という、自分のイメージを語り、
あまりある才を
抱 きて
妻のため
おもひわづらふ友をかなしむ
打明けて語りて
何か損 をせしごとく思ひて
友とわかれぬ
どんよりと
くもれる空を見てゐしに
人を殺したくなりにけるかな人並 の才 に過ぎざる
わが友の
深き不平もあはれなるかな誰 が見てもとりどころなき男来て威張 りて帰りぬ
かなしくもあるか
はたらけど
はたらけど猶 わが生活 楽にならざり
ぢっと手を見る
何もかも行末 の事みゆるごとき
このかなしみは拭 ひあへずも
とある日に
酒をのみたくてならぬごとく今日 われ切 に金 を欲 りせり
という、ひとつながりのブロックには有名な「はたらけど」の歌が入っています。
この歌だって、つなげて読むと、他人と友達と才能くらべて、でも、自分には才能があると思っていて、現状がつらくて許せなくて、それがどうしようもなくて、酒飲みたくて、金がほしい、というそんな流れがわかります。
すくなくとも、一生懸命、地道に働いているまじめな労働者の歌ではないですよね。
やはらかに柳あおめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
もうひとつの教科書に載る啄木といえばこれではないでしょうか。
国語の先生にやられた記憶のある解説は次のような問いかけと説明でした。
設問:啄木はこれをどこで詠んでいるか?
模範解答:北上川が見えないどこか
理由:目に見ゆ=見える、という表現は、目の前のものには使わない。目に見える、浮かぶ、という表現は実際に見ていないから使える。
当時高校生の私は、疑問に思いました。
「確かにわかるけど、これは歌(詩)だ。実際に目にしていても、現実のように思えないとき、そういう表現はありうるのではないか。たとえば、啄木がやっとの思いで故郷に帰り、それが夢のように思えたとき、こういう表現はありうるのではないか」
どうですか?高校生の私が正しい根拠はないんですけど、先生が正しい根拠もないと思うんですけど…
というのも原典にあたってみましょう。
タイトルは「煙」の「二」です。
ふるさとの
訛 なつかし停車場 の人ごみの中に
そを聴 きにゆく
やまひある獣 のごとき
わがこころ
ふるさとのこと聞けばおとなし
ふと思ふ
ふるさとにゐて日毎 聴 きし雀 の鳴くを三年 聴かざり
とはじまります。
かにかくに
渋民村 は恋しかり
おもひでの山
おもひでの川
田も畑 も売りて酒のみ
ほろびゆくふるさと人 に
心寄する日
あはれかの我の教へし子等 もまた
やがてふるさとを棄 てて出 づるらむ
ふるさとを出 で来 し子等の相会 ひて
よろこぶにまさるかなしみはなし
石をもて追はるるごとく
ふるさとを出 でしかなしみ
消ゆる時なし
やはらかに柳あをめる北上 の岸辺 目に見ゆ
泣けとごとくに
で、この流れ。有名な歌が何首も入ってますね。
これも有名な「かにかくに渋民村は恋しかり」の歌。啄木記念館は今はなき地名「渋民」にあります。いないから恋しい。
直前に、有名な「石をもて追はるるごとくふるさとを」の歌があります。「し」は過去の助動詞ですし、ふるさとにいないことは明白。
そもそも、この「煙」っていう連作は、
病 のごと思郷 のこころ湧 く日なり
目にあをぞらの煙 かなしも己 が名をほのかに呼びて
涙せし十四 の春にかへる術 なし
青空に消えゆく煙
さびしくも消えゆく煙
われにし似るか
かの旅の汽車の車掌 が
ゆくりなくも
我が中学の友なりしかな
ほとばしる喞筒 の水の心地 よさよ
しばしは若きこころもて見る
師も友も知らで責 めにき謎 に似る
わが学業のおこたりの因
教室の窓より遁 げて
ただ一人
かの城址 に寝に行きしかな不来方 のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし十五 の心
とはじまっていました。
東京にいて、故郷を思うところから始まる。有名な不来方の歌も、東京で詠んでるに決まっている。そして、煙がはかないものの象徴として、ちゃんと説明されている。
さらに行きましょう。
この歌。もちろん、この間にたくさんの歌をはさむんですが、最終的に、
霧ふかき
好摩 の原 の
停車場の
朝の虫こそすずろなりけれ
汽車の窓
はるかに北にふるさとの山見え来 れば襟 を正 すも
ふるさとの土をわが踏めば
何がなしに足軽 くなり
心重 れり
ふるさとに入 りて先 づ心傷 むかな
道広くなり
橋もあたらし
見もしらぬ女教師 が
そのかみの
わが学舎 の窓に立てるかな
かの家 のかの窓にこそ
春の夜 を秀子 とともに蛙 聴 きけれ
そのかみの神童 の名の
かなしさよ
ふるさとに来て泣くはそのこと
ふるさとの停車場路 の
川ばたの胡桃 の下に小石拾 へり
ふるさとの山に向ひて
言ふことなし
ふるさとの山はありがたきかな
と、実際に故郷にかえってくるところで、終わるんですね。
そう考えてみると、最初の
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
は、まさに故郷に帰る最初のきっかけかもしれない。そういうイメージからすれば、あながち現実の北上の岸辺と読んだのも間違っているわけではないですね。
正岡子規の「くれなゐ」の歌を「薔薇が咲いている」と思った人が正しいように、「北上の岸辺」の青々とした緑がありありと浮かんだ人も、啄木は帰ることを想定して目に浮かべているとするなら、かなりリアリティがあるわけで、あながち間違いではない。
こんな風にもいえます。こじつけですかね。
短歌を原典にあたる楽しみ。
ちょっとわかってくれたらうれしいです。
では。