近代短歌の授業も進んでまいりまして、与謝野晶子が終わりました。ある種の指導案、授業案紹介であるとともに、大人の方にも、もう一度短歌を読んでほしいなあ、と思ってすすめています。
原典はこちら。毎度の青空文庫です。
「みだれ髪」臙脂紫 本のタイトルの意味と臙脂紫の意味は?
まずは、紹介してみましょう。
多少カットさせていただきますので、ご了承ください。
夜の
帳 にささめき尽きし星の今を下界 の人の鬢のほつれよ
歌にきけな誰れ野の花に紅き否 むおもむきあるかな春 罪 もつ子髪 五尺ときなば水にやはらかき少女 ごころは秘めて放たじ
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど春を行く人神おとしめな
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色 桃 に見る
その子二十 櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
堂の鐘のひくきゆふべを前髪の桃のつぼみに経 たまへ君
紫にもみうらにほふみだれ篋 をかくしわづらふ宵の春の神臙脂色 [#ルビの「えんじいろ」は初出では「ゑんじいろ」]は誰にかたらむ血のゆらぎ春のおもひのさかりの命
紫の濃き虹説きしさかづきに映 る春の子眉毛 かぼそき
略
清水 へ祇園 をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき
略
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
許したまへあらずばこその今のわが身うすむらさきの酒うつくしき
わすれがたきとのみに趣味 をみとめませ説かじ紫その秋の花
人かへさず暮れむの春の宵ごこち小琴 にもたす乱れ乱れ髪
たまくらに鬢 のひとすぢきれし音 を小琴 と聞きし春の夜の夢
略
みだれごこちまどひごこちぞ頻なる百合ふむ神に乳 おほひあへず
くれなゐの薔薇 のかさねの唇に霊の香のなき歌のせますな
略
ゆるされし朝よそほひのしばらくを君に歌へな山の鶯
ふしませとその間 さがりし春の宵衣桁 にかけし御袖かづきぬ[#「かづきぬ」は初出では「かつぎぬ」]
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
有名な歌が何首も入っているので、教科書で見たあの歌もきっとこの中にあったことでしょう。
与謝野晶子の歌は、国語教員ごときの私がいうのも何ですが、読んでいる世界、シチュエーションと、言葉遣いに特徴があると思います。できあがったものはまったく違いますが、ある意味、石川啄木と似ている。
もちろん、言葉選びはきちんとされている、という当たり前の話の上で、それでも、やっぱり、正岡子規の緻密さと比べると、勢いというか、流れというか、雰囲気というかそういう要素が大事にされているような気がします。
さて、授業案とか指導案という意味合いにもなりますが、私の授業は、
- 「みだれ髪」のタイトルの意味は?
- 「臙脂紫」という連作のタイトルの意味は?
というものです。考えてみませんか?
シチュエーションを考えよう!
もちろん、これを同じ状況、同じ一瞬の中の歌ととったり、すべてが時系列でつながっているととらえるのは無理があるでしょう。
でも、なんとなく、この歌はある程度の枠の中、映像的な共通性があると思いませんか?正確にいえば、いくつもの歌を重ねてみると、ドラマが見えてくるということなんですが…。
いかがでしょう?
時間とか、場所とか、状況とかです。啄木の短歌が、「海の一人旅」みたいなシチュエーションであることはわかりますよね。子規の病床六尺は説明もありますが、夕食後に藤を見ながら思ったこと、みたいな。それと同じようにです。
まず、時間から行きましょうか。
圧倒的に「夜」のイメージじゃないですか?
そうなんです。夜とか星とか盃とか、夜イメージの言葉が多いですよね?で、最後の3首は朝です。
なんだか、ちょっと色っぽい感じがしてきませんか?
たとえば、次の短歌です。
なんですけど、
髪五尺って、150センチになりますよね?長いなあ。
で、「ときなば」とありますが、これは「といたならば」ということですね。
(古文の知識を使えば、「とく」を活用させて連用形、だから次に続くのは連用形接続の助動詞「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」のどれか、でおそらく「ぬ」。「ば」の上は未然形か已然形だけど、「な」だからきっと未然形、です。高校生なら、品詞分解のところで練習してください)
そうですね。髪を結っている。それを「とく」…。
なんで?
きっと水あびするんじゃないだろうか。現代ならシャワーですね。
となると、裸?
「秘めて放たじ」ってそう考えると、簡単に服は脱がないわ、みたいな意味もあるんでしょうか。
その子二十櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
そう考えてみると、この教科書に載っている歌も、なんだか裸な気がします。
間に入っている歌には、
血ぞもゆるかさむひと夜の夢のやど
とか
わが罪問はぬ
とかあることを考えると、どうもそれもエッチな感じが漂ってきますよね。
これが、与謝野晶子の真骨頂。恋に生きる女って感じしてきません?
臙脂紫に迫る!
そんな風にみていくと、ショッキングなのは、
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君
ではないでしょうか?
私のこのやわらかい肌に流れる、あつい血にさわりもしないで、さびしくないの?さっきから道を説いているあなた…。
という感じでしょうか。
映像浮かんできましたか?
どうも、妄想をしているのではない。彼氏がほしいのでもない。
目の前に、特定の男がいるようです。
こいつはさっきから、熱く何かを語っている。「道」ですね。でも、目の前にいる彼女は思うんです。「そうじゃなくて触って」って。
結構、肉食な女子です。女から誘う歌。
映像、大丈夫ですか?
だとすれば、二人きりです。
だって、みんながいる場所で、「さわらないの?」って変ですよ。だから、そういう雰囲気になってもおかしくないところをイメージしたい。
だとすると、
っていうのも、そういう場所で、これから起こるそういうことを考えているから、「みなうつくしき」なんでしょうか。
考えてみれば、デートしてる、あるいは彼氏に会いに行く人たちを見て、「みんなきれいだな」ってポジティヴに思うのって、自分もそうだからですよね。
彼氏も彼女もいないで、祇園の桜みながら、「人」が美しい、って感想、なかなか言えないです。
紫の濃き虹説きしさかづきに
さて、もうひとつ前にさかのぼってこの歌。
となると、さっきの「道を説く君」がどうもいそうです。
さかづきにどうして、春の子が映るのか?さっきの「おごりの春」とか「眉毛かぼそき」からすれば、これは歌人、晶子ということになるでしょう。
きっと下を向いている。つまらないから。
そうです。だって「ふれもみでさびしからずや」って考えているんだから。
ようやく、紫の正体がわかってきました。紫は、どうも相手の男のイメージなんじゃないでしょうか。
ほかの紫の歌をみても、「説く」という言葉とか「酒」とかと一緒に使われています。
じゃあ、臙脂は?
さっきの、「血」のイメージとも重なってきます。「血ぞもゆる」とか「あつき血汐」とかですね。そうなると、こっちは、晶子というか女というか詠み手というか、そういうことになってきませんか?
どうもこのタイトル、「男と女」的な意味合い、現実に照らし合わせるなら、「(恋人であったところの)鉄幹と晶子」ということになりそうです。
じゃあ、「みだれ髪」って?
となると「みだれ髪」は?
みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす
「京の島田」っていうのは髪型、髪を結うことですね。
文金高島田とか聞いたことないですか?ないですか。じゃあしょうがない。
要は、髪を結い直した。って「髪がとけている」。「みだれ髪」。
で、横に「君」が寝ている。
もうわかりましたよね?
そういうことで、そういうシチュエーションで、そういうタイトルなんです。
しかも、これが明治。しかも女性の歌。
自由というものが、恋愛によって象徴された時代。北村透谷じゃないですけど、そういう時代。
すごくないですか?与謝野晶子の世界。
というわけで、明星、浪漫派の与謝野晶子でした。