国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

近代短歌への道 「作者が発表した形で読もう」連作という観点で、短歌をとらえ直す。正岡子規の場合。

短歌シリーズは第3回となりました。前回は、一首だけをとりあげて、解釈をしてみたわけですが、実際にこの作品はどんな情景を詠んでいるのだろうか、ということをきちんと考えてみたいと思います。

前回題材としたのは、

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

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連作~正岡子規はどのように作品を発表したか?

 まずは、単純に正岡子規がどのようにこの作品を発表したかから考えましょう。

むずかしいことでも何でもなく、そういう作業をやれば、物事はきちんと見えてきます。

国語の先生も含めて、難しい資料を探したり、論文読んだりする前に、ちゃんとこういうことをやるだけでいいと思うんですよね。

というわけでどうぞ。

庭前即景(四月廿一日作)

山吹は南垣根に菜の花は東堺に咲き向ひけり

かな網の大鳥籠に木を植ゑてほつ枝下枝に鶸飛びわたる

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

汽車の音走り過ぎたる垣の外の萌ゆる梢に煙うづまく

杉垣をあさり青菜の花をふみ松へ飛びたる四十雀二羽

一うねの青菜の花の咲き満つる小庭の空に鳶舞う春日

くれなゐの若菜ひろがる鉢植の牡丹の蕾いまだなかりけり

春雨をふくめる空の薄曇山吹の花の枝も動かず

家主の植ゑておきたる我庭の背低若松若緑立つ

百草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ

 読んですぐわかることです。

タイトルがついている。タイトルは「庭前即景」です。庭はすなわちそのまま景色である、というような意味でしょうか。

10首連作である。10首で一つの作品であり、おそらく順番にも意味がある。

というわけで、この間の「くれなゐの…」の歌を詠むまでにこんなことが頭に入っている形になります。

  1. 庭の前の景色を詠んでいる。つまり、「庭」である。
  2. 垣根があって、山吹や菜の花も他にある。結構広そうな庭。
  3. 鳥かごもあって鳥を飼っている。

これで、ようやく「くれなゐの…」の和歌です。

そうすると、この間の私の説明もちょっと嘘っぽいところが見えてきますね。

  1. 薔薇の花を、一本の鉢植えのように書いているが、(もちろん正しい可能性もあるが)もしかしたら、直接庭に植えられていて、もしかしたら、薔薇の花壇のように一本の薔薇でないかもしれない。
  2. 最後に春雨が降っているのは、必ずしも薔薇ではなく、薔薇をふくんだ庭の景物全体であり、映像としては庭に春雨が降っている方が合っている

なんていう感じです。

要するに、薔薇だけでなく、「薔薇を含む庭」として、この歌をよんでいく必要があるようなのですね。

庭を動く子規の「動き」

 さあ、こうなっていきますと、子規が庭の様子をくまなく動いていくことがわかります。

子規の目の動きを追うように、読者である私たちも、庭の景物を追いかけていくんですね。

まずは、そういった「空間的な動き」。

どんな景物があるかはいちいち書かなくても、読めばわかる、という感じでしょう。そういう空間的な動きを一番感じるのは、一首でいえば、

杉垣をあさり青菜の花をふみ松へ飛びたる四十雀二羽

ですかね。四十雀を目で追いかけながら、庭の杉垣、青菜の花、松と、目が動いていくのがわかります。

この直前に、「垣根」が登場していますが、ここで目が「青菜」に動くと、次の歌はその「青菜」から始まる。ここで一度登場した「松」も最後の二首でもう一度現れます。

そう考えていくと、最後の歌は

百草の萌えいづる庭のかたはらの松の木陰に菜の花咲きぬ

で終わるわけですが、

もともと、「垣根=杉垣=山吹」「菜の花=松」とはじまっていることを考えると、「百草」といっても、ものすごい広い庭でなく、そこそこの広さの中を、何度も目が動いているようなイメージであることがわかりますね。

間にあったのは、鳥かご、薔薇、青菜の花、牡丹の鉢植え、といったところです。

さあ、この歌には、もうひとつの「動き」がありますね。そうです。前回の授業を読んでくれた人はわかると思いますが、「時間の動き」です。

たとえば、

汽車の音走り過ぎたる垣の外の萌ゆる梢に煙うづまく

という歌は、今の情景には「何もない」のに、私たちには、「汽車」が走る様子や、「汽車の音」が聞こえてしまう。

正確に言えば、子規は汽車の姿は見ていません。だから、「汽車の音」と書くわけです。でも、ぼくらは「汽車の…」というところで、汽車を思い浮かべている。ところが、「音」と続くわけですから、「見てないのか…」と映像がしぼむわけです。さらにそれが「走り過ぎたる」とくれば、「今はないのか…」とさらにしぼむ。そんな歌なんですね。

つまり、子規の想像や、時間の流れを追わされている。本当は何もないのに。

この効果は、あと二首使われています。 

くれなゐの若菜ひろがる鉢植の牡丹の蕾いまだなかりけり

春雨をふくめる空の薄曇山吹の花の枝も動かず

 この二首ですね。今度は未来の想像から、映像がしぼみます。

まさに、「くれなゐの」でやったのと同じことをもう一度、ここでやらされます。

「くれなゐの…牡丹」とくると、なぜか、ぼくらは、「くれなゐの若菜」ではなく、「くれなゐの牡丹」のような気がします。ところが、「牡丹の蕾」ですから、「なんだ、つぼみか」とちょっと時間が巻き戻され、「いまだなかりけり」で、「おお、今は何もないのか…」と現在に戻されます。

でも、子規の頭には、未来に咲く牡丹、そして未来につくはずの牡丹の蕾もきっちりと想像されているわけで、読者はそこに連れて行かれるんです。

「春雨」も、ちょうど「くれなゐの」を受けています。だから、前回の歌は、少なくともこの二首と合わせて鑑賞したいですよね。

「ふくめる」と言われても、前回の歌があると、やっぱり降ってますよね。

空を見ているはずなのに、なんとなく薔薇の芽も想像してしまうのは、連作ならではの効果だと思います。

そしてこの歌、「嵐」を想像してません?

「山吹の花の枝も動かず」だからです。

日本語っておもしろいですよね。本当は、「何も起こっていない」。でも、「枝も動かず」と書かれると、「枝が動く」様子を想像させられたうえで、「まだ動かない」というイメージになるんです。前に、「春雨」「薄曇り」とやられてますから、「枝が動く」で「嵐になるな」って思っちゃうんです。これも子規の未来の想像。

こうして、ぼくらは、子規の見たものだけではなく、見てきたもの、想像しているものまで、追いかけていくんです。

余計なことですが、これが日本語の力。

英語だと、こうはいきません。なぜなら、たいていの場合、

There is not 

There are no

と否定語が先にくるんです。動詞の前、形容詞の前にも、notが来てしまいますが、「ない」と書いて、次にもってくるのと、先に、あるように書いて、最後に打ち消すのでは喪失感が違います。

こういうのも翻訳の不可能性。詩のコトバを翻訳するというのは、こういう具体的局面でも非常に難しいことなんです。

慶応文学部受ける人は必須の知識ですよ。

正岡子規のもうひとつの教科書作品「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみ上にとどかざりけり」

さて、こんなことがわかると、ほかの歌ってどうなっているんだろう、なんて気になりますよね?

気になってくれたら、うれしい。気になってないなら、私の力不足。子規ファンのみなさん、ごめんなさい。

子規の有名な、というより、教科書に載っている歌といえば、

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

ですよね。

先生が、「正岡子規は実は寝たきりでね、だから、この『とどかざりけり』には、そういう残り少ない命のようなものがこめられているんだよ」なんて説明をして、「歌って難しいなあ。とても、ぼくはそんなことに気付けないなあ」なんて思ったことはないですか?

というわけで、発表形です。

病床六尺
夕餉したためおはりて仰向けに寝ながら左の方を見れば机の上に藤を活けたるいとよく水をあげて花は今を盛りの有様なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしのばるるにつけてあやしくも歌心なむ催されける。斯道には日頃うとくなりまさりたればおぼつかなくも筆を取りて

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり

藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも

藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ

藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり

瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす

去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも

くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり

この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日まり後

八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

おだやかならぬふしもありがちながら病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。をかしき春の一夜や。

 「六尺」というのは120CM。要するに、彼の病床の大きさ。そこを離れられないということでしょうか。説明はたっぷりあります。彼が病気であること、仰向けに寝ていること、最近は歌を詠む気にもならないこと、病気はあまりよくないこともあること、こんな風に歌を詠む気持ちになることはめったにないこと…。

そうなんです。先生が話していたことは、子規が読者に説明していたことなんです。この中で、あの歌を解釈すればよい。それだけだったんですね。

さあ、現実の彼の目の前にあるものは?

そうです。

仰向けに寝ている自分。机の上の瓶にさした藤の花。しいて言えば、「書(ふみ、本でしょうね)」。これだけ。

 

瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみ上にとどかざりけり

瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上に垂れたり

 この2首ではじまりますが、たしかにこれは現実の藤の花。

そこから、子規の想像が始まりますね。

古都、絵の具をとりだして書く、濃い紫の絵の具を書く自分…そんな想像から、

瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす

それができない自分にすっと戻ります。

でも、また想像は飛躍。

去年の亀戸の藤、元気だった自分。元気でない自分。咲くだろう牡丹の花、咲いていない牡丹の花(きっと目の前にはないですよ。庭にあるんです。夜だしね。)亀戸の今年咲くだろう藤の花、咲いていないだろう今の亀戸の藤…

八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

と、また現実に戻る。現実は、病の床で、動くこともできず、絵にかくこともできず、ただ仰向けに寝ている子規。でも、ぼくらは子規と一緒に、

  1. 古都を旅し、
  2. 藤の絵を書き、
  3. 去年の亀戸の藤を見に行き、
  4. 咲いていない牡丹の花を見、
  5. 咲くだろう亀戸の藤を見に行き、
  6. 咲いていない亀戸の藤を今見に行く、

という旅に出たのです。「をかしき春の一夜」ではありませんか?

 

というのが、連作を鑑賞するということ。

そうなってくると、啄木や晶子の歌ってどうなるわけ?とか知りたくないですか?このあたりは、近代に完成する俳句と違って、再生する必要のあった和歌の特徴なんですが、それこそ俵万智さんにまで連なっていくひとつの流れだと思います。

歌は、物語のように、饒舌に語りだしていくのです。