古典文法もそろそろ敬語に入りたいところですが、まずは助動詞の意味をできるだけ正確に再現しておきたいと思います。
意味の説明はこちらでおおざっぱにやりました。
というわけで、大きな幹や枝を理解してもらったところで、少し詳しく意味の理解をしてみたいと思います。
「す・さす」の意味の判別
まずは、「す・さす」の意味の判別です。
「す・さす」は、使役・尊敬の二つの意味を持っていますが、どう見分けるか、ですね。
まず、覚えるべきことは、
単独で使われる「す・さす」は必ず使役
ということです。
つまり、
「書かす」「食べさす」などの表現は、使役にしかなりません。
裏側にあるのは、
尊敬になるためには「給ふ」と組み合わさった「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」の場合に限る=二重尊敬の場合に限られる
ということになります。
一応、書いておくと、尊敬の補助動詞は「給ふ」だけではなく「おはします」とかもあるので、「せ」「おはします」のような二重尊敬もあります。
これだけなら、簡単なのですが、
「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」の時は、必ず尊敬ではない=尊敬+尊敬or使役+尊敬かを見分ける必要がある
ということが、この表現の正確な理解です。
笑はせ給ふ
という表現の場合、
帝(または宮)が「お笑いになった」
のか、
帝を含む誰か偉い人が、誰かを「笑わせなさった」
のかを見分ける必要があるということです。ただ、「笑った」のが誰かは解釈が異なるわけですから、落ち着けばそんなに難しいことではありません。まあ、笑うなら、帝が芸人でもない限り、二重尊敬ですよね。
求めさせ給ふ
みたいな表現だと、かなり微妙になってきて、どっちともとれる感じになります。いや、だからこそ、この助動詞が両方の意味を持つわけです。超偉い人は、自分で求めるわけではないけれど、求めているのは超偉い人、ですから。
さて、もうひとつ。
この説明は、非常に予備校的、受験的である、ということです。実際に入試を作るのは、大学教授の方々で、この方々は、必ずしも受験的、予備校的な文法の観点で研究をされているわけではありません。(細かく説明しませんが、文法にはいくつかの体系がありまして、いろんな解釈があるんです。)そうすると、入試では困った出題も出て来ます。
たとえば、
のたまはす
の「す」の意味は何か答えよ、みたいな問題が出るんですね。
おそらく、正解は「尊敬」です。
「あれ?単独の『す』は使役じゃないの?」
と思うかもしれません。予備校的受験的文法からすれば、これは問題として成立していない。なぜなら、「のたまはす」は、一語の動詞だからです。
ところが、この「のたまはす」は、「のたまふ」に「す」がついて、二重尊敬系の敬語になっているものであることは明らかです。だから、受験的文法にのっとっていないなら、この答えは「尊敬」です。
こういう出題はきちんと大学で問題を作っていると思われる法政とか明治とか早稲田あたりでたまにありがちなつっこみ方です。
問題が予備校的な立教あたりではあんまりみかけない気がします。
「る・らる」の意味の判別
続いて、受身の助動詞「る・らる」の意味の判別です。
意味は四つ。
受身・尊敬・可能・自発
ですね。
まず、ポイントは、
判別の仕方はない。そのまま、「~れる」「~られる」で訳して、職能を考える
ということです。
たとえば、
「食べられる」
という語を見たときに、これだけで、受身・尊敬・可能・自発のどれかはわからないですよね?(まあ、自発の可能性がないことはわかりますが)
シマウマはライオンに食べられる=受身
天皇陛下は夕食を食べられる=尊敬
僕はラーメンなら5杯は食べられる=可能
という感じです。
日本語ですから「~れる」「~られる」のまま訳して、文脈で理解するのが基本、ということです。
とはいえ、あまりにこれでは不親切なので、いくつかポイントを書いておきます。
尊敬 二重尊敬は「せ給ふ・させ給ふ・しめ給ふ」だけ
二重尊敬は「せ給ふ・させ給ふ・しめ給ふ」だけになります。だからこそ「のたまはす」は、二重尊敬ですが、二重尊敬ではなく一語の動詞です。
ということは、「れ給ふ」「られ給ふ」は、二重尊敬にはなりませんから、尊敬にはならない、ということが確定します。
多くの場合、受身であり、自発も可能性としてなくはないです。
可能 中古(平安時代)では、下に打ち消し表現をともなう
可能は下に打ち消し表現がなければいけません。つまり、「食べらる」みたいな場合、可能にはならないということです。
では、打ち消し表現はわかりますか?
ず・じ・まじ 助動詞ですね。
なし 形容詞にもありますよ。
で 打ち消しの接続助詞です。「咲かで」は「咲かないで」ですね。
最後に「や・か」。疑問が反語になれば、打ち消し表現です。
こんなところです。呼応の副詞のときにも、使うことですから、頭に入れておきましょう。
もうひとつ、これは、「平安時代」においては、です。時代が進んでいって、江戸時代あたりになると、だいぶ私たちの言語感覚に近くなっているので、下に打ち消しがなくても可能になるケースが出て来ますから注意しておきましょう。
自発
これは、自発になる言葉が決まっている、ということです。
よく古文で見るのは、
思ふ・見る・泣く・嘆く
などであると思います。こういうたぐいの気持ちを表すような語でないと自発にならないんですね。
「~ゆ」は受身動詞
ここまで、助動詞について書いてきましたが、ここまで理解したら、動詞についても触れておきます。
「~ゆ」で終わる動詞、たとえば、
おぼゆ・みゆ
などは受身動詞と考えておくとよいです。
「見ゆ」は「見える(可能でしょうか)」と訳して、わかった気になりますが、同時に
「見られる」という意味も持っています。そして、それは受身の助動詞と同様に、意味の広がりをもっているということです。
「おぼゆ」で説明しましょう。
現代語の感覚では「覚える」ですが、「思ゆ」という漢字で理解するのがよいです。
そうすると、まずは、
「思われる」ですね。
次に、「自然と思う」という自発のような意味が想定されます。
そうすると、「自然とそのように思うきっかけ」として「似ている」なんて訳も持つことになっていきます。
断定の助動詞と形容動詞
二つの見分け方
次に断定の助動詞「なり」「たり」と形容動詞「~なり」「~たり」について説明します。
基本的に、この二つはほぼ同じ成り立ちをしています。
断定は現代語に訳すと「だ」ですから、
名詞+助動詞 コロッケなり 訳:コロッケだ
形容動詞 静かなり 訳:静かだ
というのは、「静か」という名詞とみてしまえば、全く同じですね。だから、「形容動詞は存在しない」という文法的説明も可能なのですが、残念ながら、みなさんの受験文法では、形容動詞が存在しています。したがって、「見分ける」という作業が必要になる、というか、問題で出てしまうんですね。
この見分け方ですが、
「とても」「たいへん」などの副詞のような修飾語をつけてみる
というのが基本です。
通じる→形容動詞
通じない→名詞+助動詞
です。
やってみましょう。
静かなり→「とても」静かだ→通じる=形容動詞
コロッケなり→「とても」コロッケだ→通じない=名詞+助動詞
という感じ。知っていればそんなに難しくありません。
疑問文・強調文と連用形「に」「と」
さて、助動詞「なり」「たり」、形容動詞「~なり」「~たり」には、連用形に「~に」という形がついています。ここについて説明しておきます。
じつは、これらはもともと
「~に」「あり」→「~なり」
「~と」「あり」→「~たり」
という成り立ちなんです。
で、これが「なり」「たり」となるだけなら、問題がないのですが、疑問文や強調文になるとき、もとに戻ろうとするんですね。
疑問文と強調文についてはこちらで復習を。
manebikokugo.hatenadiary.com
たとえば、
花なり。
という文があるとします。疑問文にするには、「や」を使うんですが、
そうなるときに、
花にやあらむ。
と、なぜか、もとの「に」「あり」の間に「や」が入ろうとするわけです。
そうすると、
あらむ
は、ラ変動詞+む、ということになりますが、「に」が説明できない。終止形は断定の助動詞なので、それがなくなるわけにはいかない。結果として、これが断定の助動詞と言わざるを得ないわけです。
わかりましたか?
では、例文を作っておきます。
終止形・平叙文:花なり。 花+断定の助動詞
疑問文:花にやあらむ。
強調文:花にぞある。
強調文:花になむある。
強調文:花にこそあれ。
こんな感じ。
逆に、「に」「や」、「と」「こそ」などの省略している語句を補うタイプの問題の基本を解説しましょう。
「に」→「あり」を補う。
「と」→「言ふ・聞く・見る・思ふ…」などを補う。
「や」→「む」をつける。
「ぞ」「なむ」→連体形にする。「ある」「言ふ」
「こそ」→已然形にする。「あれ」「言へ」
※難関大学では、たいてい、「あり」「言ふ」など意外の単語を文意がつながるように探す出題になっている。
※早稲田などでは、さらに敬語をきちんとつけるところまで、問われているケースが多い。主語が「偉い人」かどうか、客語が「偉い人」かどうかを見極め、尊敬語、謙譲語のつけるかどうかまで、検討する。
という感じ。
伝聞推定と断定の見分け
男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。
という例文で語られる「なり」の見分けですが、
終止形+なり→伝聞
連体形+なり→断定
で、これは非常に簡単です。
問題となるのは次の二つ
- 四段動詞。終止形と連体形が同じなので、区別ができない。
- ラ変動詞、またはラ変型活用を持つ助動詞。ラ変動詞の終止形は「~り」となるが、終止形接続の助動詞はすべて、「u」につきたいので、ラ変型は連体形につく。たとえば、「あり」に「べし」がつくと、「ありべし」になってしまうが、明らかに変。「あるべし」となりたいので、結果として連体形についてしまう。
という感じです。
このあたりが入試で問われた場合は、たいてい、文意で、「見ていて確信があるか」あるいは「見ていないで確信がないか」を聞いているわけです。
誤解を恐れず書いてしまうと、たいてい答えは、「伝聞」「終止形」のケースです。だからこそ、聞く価値があるわけですね。
あなり・ななり・ざなり
つづいて、
「あなり」「ななり」「ざなり」です。
基本的に
「ある」「なり」が、
「あんなり」となり、「ん」の表記がなかったために、「あなり」と書かれていると考えるべきものです。撥音便というやつですね。
これは、「断定」「伝聞」どちらでしょう?
「あるなり」「ざるなり」「なるなり」
だから、連体形+なり、で断定、と考えるのはだめですよ。ラ変型は、終止形接続も連体形+なり、でいいからですね。
さあ、どっち?
これを正解するためには、他の形をイメージするんです。
「あなり」「あめり」
「ざなり」「ざめり」
「ななり」「なめり」
こうみるとわかりますが、後の「なり」は「めり」の対です。つまり、伝聞推定の助動詞。わからない人はこちらで復習。
「めり」「なり」は対応していて、目で見る推量と、音で聞く推量です。だから、伝聞。
つまり、わからなくなったら「めり」をイメージするといいと思います。
今日はここまでにします。
このあと、過去の助動詞と完了の助動詞の説明をもう少しすすめます。