古典文法は、助動詞まで一通り終わり、これから敬語にうつっていきます。敬語は文章読解にも直結する「おいしい」分野です。思ったより、簡単でわかりやすいので、みなさんが勘違いして混乱するところを教え直したいと思います。
- 敬語は何で決まるか?身分と敬語意識と気分~昔は「身分」が絶対だった!
- 身分の敬語「尊敬語・謙譲語」と気分の敬語「会話文=丁寧語」
- 身分の敬語ってどういうこと?~偉い人には必ず敬語を使う!
- 敬語で身分がわかる。世の中にいる3パターン。偉くない人・偉い人・ちょー偉い人
- 尊敬語と謙譲語を分析すると…主語と客語が誰だかはっきりとわかる!4パターンが原則。
- 身分の敬語は「絶対」的関係。「相対的関係=どっちがより偉いか」は関係ない!
敬語は何で決まるか?身分と敬語意識と気分~昔は「身分」が絶対だった!
敬語を考えるときに、あまり説明されていないことから考えてみたいと思います。実は、これがごちゃごちゃになるから、いくら説明しても「必ずこうなる」っていえなくなるために、結局きちんと説明していない、というのが今の文法の教科書です。加えて、みなさんの言語意識が変わって、「敬語なんて使わない方が正しい」ぐらいになっているから、よりわからなくなっているんですね。
愚痴はおいておいて説明します。
敬語を使う、使わないは簡単にいうと、次の3つによります。
- 絶対的身分。現代で言うなら「先生は偉い人なんだから、先生に対しては敬語を使わないとだめでしょ!」という感じ。あとで詳しく説明しますが、「偉い人なんだから敬語を使うのが当たり前」ということです。
- 書き手などの言語意識。たとえば、敬語をきちんと使える人なら、厳密に適用されますが、言語意識が低ければ、間違ったり、忘れたりすることも増えます。また、敬語は時代とともに徐々にいい加減になっていきますから、書き写す(古文は書き写され書き写され残っているわけで、清少納言の直筆なんて、どこにもないですからね)人の言語意識が変わってしまえば、間違いやすくなるわけです。たとえば、時代が進むにつれて、まずは謙譲語が忘れやすくなっていく、なんていうことです。また、江戸時代の擬古文的な作品になると、身分制度自体を仮構している感じになるので、そもそもはっきりしなかったり。
- 気分。現代の敬語はまさにこれ。その人の身分ではなく、「その人が尊敬できるかどうか」で使うか使わないか、が決まるわけです。その最たるものが、「会話文」になります。会話は、身分を越えて、気分ではなす敬語ですね。
この3つが行き来して、実際の本文の敬語が決まっています。でも、なぜみなさんが敬語が苦手かというと、みなさんの敬語意識が3の「気分」になっているのに、古文の敬語意識は1の「身分」だからです。みなさんは、自由・平等な現代を生きていますから、「先生だから偉い」なんて感覚、ないですよね?「先生だって同じ人間じゃん。先生が偉いなんて、時代錯誤だよ」って感じでしょ?結構な大人だって、ちゃんとした人だって「上司が偉い」「先生が偉い」「先輩が偉い」なんてこと否定しますよね?そうであるにも関わらず、古文の敬語意識を説明してもらえないから、わからなくなるわけです。
このずれがあることと、敬語ができないことは密接にからみあっています。
実際の作品で敬語意識を説明しましょう。
枕草子
作者である清少納言の言語意識が非常に高い(正しい日本語を使わない人を私は許さない!って感じ)に加え、内容が、没落していく中関白家につきつつ、道長にスカウトされ、すぐそばに時の権力者がいる、という非常に微妙な立場のため、敬意に関しては厳密な注意を払っている印象。敬語の練習にはもってこい。
源氏物語
そもそもがフィクションであることに加えて、作者であるところの紫式部がフィクションであるがゆえ、登場人部に感情移入して、重なってしまうことがあり、意外と敬意がずれることがある。作者がいつの間にか、登場人物の視点で書いて、尊敬語が抜け落ちる感じ。敬語だけで主客を決めると間違うことがある。
蜻蛉日記
読まれることを意識したであろう本人の意向はともかく、夫に対する愚痴、というそもそもが「気分」的な作品なので、敬語がない。つまり、夫(結構偉い人)に対して、敬語を使わないと決めてしまった以上、日記だから、といっていいかはわからないが、ともかく敬語がない。気分のあらわれともいえる。
身分の敬語「尊敬語・謙譲語」と気分の敬語「会話文=丁寧語」
さて、私は、次のふたつにわけて説明しています。
- 身分の敬語=尊敬語・謙譲語=地の文
- 気分の敬語=会話文=丁寧語
です。
古文の授業では「敬語」として、尊敬語、謙譲語、丁寧語の3つを説明するわけですが、尊敬語・謙譲語と丁寧語には、その成り立ちにはっきりとした差があります。
これもあまり説明されていません。
3つの違いは説明するわけですが、「尊敬・謙譲」と「丁寧」って分け方しないでしょ?
なので、まずはこの二つが大きな違いであるということをおさえてもらって、今日は「身分の敬語」について説明していきます。
身分の敬語ってどういうこと?~偉い人には必ず敬語を使う!
「身分の敬語」というのは「偉い人が必ず尊敬される」ということです。どんな人か、好きか嫌いかは関係なく、「絶対に敬語を使わなければいけない」ということです。
ほら、わかんないでしょ?というか、ありえないと思うでしょ?
確かに、好き嫌いで敬語を使わないことはあります。それは「気分」。それが許されるのは、会話文の話。
身分の敬語、というのは、「先生が偉い。だから、先生には必ず敬語を使う」ということです。
「先生が来るよ。」だめです。先生は偉いんですから。「先生がいらっしゃる」ですよね?
「先生、言ってたよ。」だめです。先生は偉いんですから。「先生がおっしゃった」ですよね?
私がこどものころは、小学校で、こういう注意されました。確かに、先生に聞こえるところで、「先生来た~」って大声で騒ぐのってちょっと失礼ですよね。今、こんなこと言われないでしょう、きっと。むしろ、タメ口きいてる方が、生徒と距離の近い「いい先生」なんでしょう。
この愚痴はともかく、古文の敬語理解に関してはマイナスです。
古文はこの徹底にあるからです。地の文では、作者がこうしたことに気を遣いながら、書き綴っているのが古文です。
そりゃそうです。その身分を得るがために、ものすごい戦いをやっているわけだし、その権力の庇護のもと、清少納言やら紫式部やらは、ひたすら文章書くわけですから。その権力を意識しながら、気を遣いながらでなければ文章なんて書けないわけです。
敬語で身分がわかる。世の中にいる3パターン。偉くない人・偉い人・ちょー偉い人
では、どういう身分の人がいるのかというと、次の3つです。
- 偉くない人
- 偉い人
- ちょー偉い人
この3つに区分けして、敬語をどう使うかを考えているわけです。では、ひとつずつ説明しましょう。
偉い人
最初は「偉い人」の説明です。身分でいうと五位以上になります。「殿上人」(てんじゃうびと)と呼ばれますね。宮中に入れる人です。現代でいうなら、皇居に入れる人、とでもいえるでしょう。結構偉いでしょ?
立場で言うと、中納言とか大納言とか大臣とか。こんな感じ。
女性版だと、女御・更衣です。帝とHして、子どもをうむ役目の方々。あとは、敬意対象となる家の奥さんとか娘とか。ほぼそのだんなさん、お父さんと同じ敬意になることが多い。姫君、なんてよく出てきますよね。こういう人ですね。
こういう人たちにはじめて、尊敬語や謙譲語を使います。
偉くない人
そうすると偉くない人はそれ以下の人。身分でいえば六位以下ですね。ひどい言い方だとは思いますが「地下」(ぢげ)なんて呼ばれます。ひどいでしょ?
役職名はいろいろありますが、よく出てくるのは「蔵人」(くらうど)です。なぜかというと、ちょうどこの境目なので、宮中には入れるけど、身分的には偉くない。だから女房達(清少納言とか紫式部とかね)が目にする偉くない人たちになるからです。
身分的には六位のことが多いんですけど、退職間近に名誉職として「蔵人の五位」になるんです。ややこしいけど「五位の蔵人」ではなくて、「蔵人だけど五位」ってことで、「偉くないけど、まあ形だけ偉くします」みたいな感じです。
枕草子では、この人たちの悪口書いたりもしてますよ。
女性版は、「女房」。さっきも書きましたが、中宮とかそういう偉い人を教育したり、お世話をしたりする人たちは、当然「宮中には入れるけど偉くない人」ですよね。
思ったより偉くない人、多いでしょ?
僧とか、基本は偉くないですから。よっぽど、僧としての身分があがらないと、敬語はないですね。
ちょー偉い人
さて、偉い人の中でも、ちょー偉い人がいまして、それは、「帝・宮(中宮・東宮)」です。
中宮というのは、女御・更衣の中でも、帝の正妻である人です。
東宮というのは、次期帝というか、帝の息子の中で、特に選ばれた人、ですね。当時の偉い人は、いたるところでこどもを作りますから、全員がちょー偉い、というわけではないんです。
たとえば、蜻蛉日記の兼家って、道隆、道長のお父さんで、だから道綱の母のところに来ている余裕なんてないわけですね。そうなってくると、道綱とか道綱母が偉いかっていうとそうでない。まして、この道綱母がさびしくて養女をとると決めたときに、この兼家がどっかでつくって捨て置かれている娘をとってくるって話があるんですが、当然、姫君なんかではないわけです。
もどりますが、帝・宮には尊敬語だけではたりないので敬語をふたつつけて二重尊敬を使うんです。
まとめ
というわけでまとめてみましょう。
敬語なし
いふ・きく・あり・見る
尊敬語がないので、「偉くない人」が主語。
身分は六位以下。蔵人や女房、僧、など。
尊敬語
~給ふ
のたまふ・仰す、聞こす、おはす、御覧ず
尊敬語がひとつあると、「偉い人」が主語。
身分は五位以上。殿上人が基本。
二重尊敬
~せ給ふ・~させ給ふ・~しめ給ふ
のたまはす・仰せらる・聞こし召す・おはします・御覧ぜらる
尊敬語がふたつついているイメージ。
身分は、帝と宮。
主語は書き分けられている。
というわけで、わざわざ主語を書かなくても、筆者は書いているわけですね。
最後の二重尊敬には、
いふ→のたまはす・仰せらる
きく→聞こし召す
おはす→おはします
見る→御覧ぜらる
しる→しろし召す
のようなパターンがあります。文法的には「一語」の動詞ということになるんですが、大学受験は大学教授が作りますから、「仰せらる」の「らる」を尊敬の助動詞と答えさせるような問題も見たことがありますね。
文法の教科書の上では、二重尊敬は「せ給ふ・させ給ふ・しめ給ふ」だけということになっているんです。まあ、他は一語だから仕方ないんですが、実際は、今、書いたようなものは、「二重尊敬系」「せ給ふ系」なんていう風に私は呼んでいます。要は、主語の判別に使うべき、ということです。
作者は書いている。
古文では主語がない、は嘘です。日本語は自明のときに省略したい言語。省略してもわかるから、書きたくない、というのは日本語の特性であって、古文の特性ではありません。
もし、古文だけわからないとすれば、古文ならではの何かを見落としているんですね。
尊敬語と謙譲語を分析すると…主語と客語が誰だかはっきりとわかる!4パターンが原則。
さて、この話をもとに、主客の判別に発展させましょう。
主客ということは、主語と客語。
主語というのは、「誰が」ということ。
客語というのは、「誰に」「誰を」ということ。
少し考えて見ましょう。
~給ふ。仰す。のたまふ。尊敬語。
まず、尊敬語があるということは、主語が偉い人、ということですね。
「偉い人」「が」「いう」。
訳は、「~なさる」「お~になる」「~していただく」
~奉る。~聞こゆ。~申す。申す。謙譲語。
次に謙譲語。客語が偉い人、ということですね。
「偉い人」「に」「いう」。
訳は、「~し申し上げる」「お~する」
いふ。敬語なし。
ということは、敬語がないということはどういうことでしょう?
つまり、
主語が「偉くない人」であるということ。
そして、客語が「偉くない人」であるということ。
偉くない人が、偉くない人にいう、ということです。
主語が偉ければ、尊敬語があるはずですし、客語が偉ければ、謙譲語があるはずですね。
両方ないということは、偉くない人同士ということです。
たとえば、教室に敬意対象者である人が先生一人であるとすれば、もし「言う」と書いてあるなら、生徒同士の会話だと決まります。主語が先生なら「おっしゃる」ですし、客語が先生なら「申し上げる」だからです。
敬語を勉強すると、「敬語がない」ということも主客を判別する大きな要素になってきます。私はよく、
×S(尊敬語なし)・×K(謙譲語なし)という記号をよくつけますが、それによって
偉くない人が・偉くない人に、なんていうことを書き足します。
ということは…もうひとつの可能性。申し給ふ。謙譲語+尊敬語
そう考えて見ると、もうひとつの可能性がありますよね?
それは、
「偉い人が」「偉い人に」ということです。そうするとどうなるかというと、両方使う、ということになるんです。
だって、「偉い人が」主語なら尊敬語が必要ですし、「偉い人に」いうなら謙譲語が必要だからです。
これが二方向の敬語、というやつの正体です。
「申し」「給ふ」
訳は、「申し上げ」「なさる」ですね。
申す=偉い人に、ですから、言う相手に対する敬語。言う相手が偉いということ。
給ふ=偉い人が、ですから、いった人に対する敬語。言った人が偉いということ。
両方偉い、ということです。
さっきの例でいえば、先生同士の会話、ということですね。
身分の敬語は「絶対」的関係。「相対的関係=どっちがより偉いか」は関係ない!
さあ、まずは基本の説明が終わりました。
今日の最後はみんながよく間違っていることです。
それは、
敬語は、すべてその人が敬語を使われるような身分であるかどうかが常に問われていて、二人のうち、どちらが偉いか、ということは関係がない
ということです。
相対的な関係ではない、ということ。どっちが身分が上か、自分より位が高いか、ということは一切関係なく、問題は「五位以上」であるかどうかだけなんです。
わかりますか?
たとえば、
申させ給ふ
という表現を考えてみましょう。
分解すると、
「申さ」「せ」「給ふ」ですね。
「せ給ふ」ですから、二重尊敬、主語は帝の可能性が高い。
じゃあ、客語は?「申す」が使われていますから、誰か他の偉い人にいったということになりますよね。
ここで、「あれ?」って思う人が出るんです。
「帝って一番偉い人だよね。なんで一番偉い人が、帝より偉くない人に敬語を使ってるの?」
という疑問。
これ、ふたつの意味で間違っています。
一つ目。これは決して、帝が敬意をはらっているわけではない。書き手が敬意をはらっているのであって、帝と客語の偉い人を比べる必要がない。
二つ目。敬意を払うかどうかは、自分より偉いかどうかでなく、ただ単純に身分が五位以上であるかということ。
だから、どっちが偉いか、という相対的な関係は、一切考えない。忘れましょう。
ちなみに「気分」の敬語であるところの会話文であるなら、確かに「自分より偉いかどうか」が影響する可能性はあります。でも、会話文は「気分」ですから、たとえば、すごい偉い人に「ふざけんなよ、てめえ!」という可能性もあれば、全然偉くない人に「あれ、遅刻でいらっしゃいますか?社長のようなご身分で。どうされたんですか?」なんて嫌みたらたら使う可能性もあるわけですから、相対的な関係にしばられるわけでもありません。
そういえば、二重尊敬の説明に、「主語は帝か宮。ただし、会話文中はこの限りではない」なんてのがあったでしょ?あれ、正しくは、「会話文中は気分で敬語使ったり使わなかったりするので、身分に関係なく、敬語使いますから」ということなんです。
では、第二回では、丁寧語を中心とした会話文中の敬語を考えて見ましょう。