古典文法の敬語は「身分」の敬語と「気分」の敬語で説明しています。今日は「気分」の敬語、会話文中の敬語、丁寧語を解説します。
今日で、基本的な説明は終わりになりますから、このあとは訳出の仕方や覚えるべき単語のポイントをまとめていきます。その前に、丁寧語を中心にした「会話文中の敬語」「気分」の敬語を説明します。
- 「身分」の敬語(尊敬語・謙譲語)の復習~主客が4パターンにわかれる
- 会話文では「身分」よりも「気分」が大事。つまり、偉いかどうかは関係なくなる!
- 丁寧語の説明「侍り・候ふ」が基本で訳は「です・ます・ございます」「まかり~」も覚えよう!
- 「侍り・候ふ」があれば、そこは会話文。丁寧語は会話文のサイン!
- 話はそれて、会話文を見つけるサイン~丁寧語や命令形、終助詞や感嘆詞…
- 会話文は、話し手から聞き手への場の雰囲気の敬語
「身分」の敬語(尊敬語・謙譲語)の復習~主客が4パターンにわかれる
その前に、前回の復習をしましょう。
詳しくはこちら。
「身分」の敬語というのは、地の文中の敬語のことです。地の文中では、「偉いか偉くないか」が敬語を使うかどうかの全ての基準だと思ってください。(本当は例外があるんですが、その話はいったん忘れて、気になる人は前回を見てください)つまり、「尊敬しているか、していないか」とか「自分より偉いかどうか」などは一切関係がない。「尊敬語を使う身分=5位以上=殿上人」であるかどうかが全てなのです。
ここで使われるのが、尊敬語と謙譲語。
主語が偉い=尊敬語=偉い人が~なさる。
客語が偉い=謙譲語=偉い人に~し申し上げる。
となるわけです。
ですから、敬語がない、ということは、
主語も客語も偉くない=敬語を使えない=~する
ということですし、
主語も客語も偉い=尊敬語も謙譲語も必要=偉い人が、偉い人に~し申し上げなさる。
ということになる、というのが前回のまとめです。
会話文では「身分」よりも「気分」が大事。つまり、偉いかどうかは関係なくなる!
ところが会話文になると、「身分」なんてどうでもいいんですね。だって、いくら偉い人でも、ふざけたことをするなら、「ふざけんな!」って叫ぶこともありますし、偉くない人に対して礼儀として「どうされたんですか?」なんてこともあるわけです。天皇陛下だって、私たちに対して「~されたのですか」とか「お~になって」という尊敬語を使ってお話されていますよね。
というわけで、会話文では、
話し手が聞き手に対して
書き手が読み手に対して
敬意を払うわけです。
ここは話し手がどんなに偉い人であっても、聞き手がまったく偉くない人であっても、使われたとするなら、「話し手が聞き手に対して」使ったわけです。
これが、会話文の敬語です。
だから、
「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」という二重尊敬は、帝か宮(中宮・東宮)でなければ用いられない。ただし、会話文中では、この限りではない。
なんていう注がつくわけです。
しかし、この説明は、ちょっと不足気味で、本来は、
会話文中では、話し手、聞き手の身分に関わらず、尊敬語や謙譲語が使われるので、偉い人であるとは限らない
ということです。
現代日本語でもそうだと思いますが、「身分」に関わらず「相手=聞き手」に敬意を払うのが日本の心。先ほども書いたように、天皇陛下でさえ、尊敬語を使ってらっしゃるわけで、そのイメージが逆にいえば、地の文にまで入るのがおかしいわけです。
たとえば、地の文であるとすれば、天皇陛下を基準に、尊敬語、謙譲語を使いますよね?気分で使わなかったり、偉くない人につけてみたりしないですよね?
これが会話文の敬語の特徴なんです。
丁寧語の説明「侍り・候ふ」が基本で訳は「です・ます・ございます」「まかり~」も覚えよう!
というわけで、丁寧語の説明です。
丁寧語のツートップは「~侍り」「~候ふ」です。
訳は「です」「ます」「ございます」。
これが丁寧語訳の全て。
だから、みなさんが死ぬほど使っているのがこの丁寧語。
私が書いているこのブログも、基本は丁寧語。
ですから、書き手である私が、読み手であるみなさんに敬意を払っているわけですね。これを誰が読んでいても関係ない。読んでいる人の身分や位は関係ない。ただ私がみなさんに敬意を払っています。
訳は「です・ます・ございます」。絶対に重要です。
裏を返せば、尊敬語や謙譲語のように、ある動詞が形を変えた形で丁寧語にはならない、ということです。
たとえば、「見る」が「御覧ず」になったり、「来」が「参る」になったりはしない、ということです。
もちろん、「侍り」「候ふ」は、「あります」という意味の本動詞にもなりますが、「侍り」「候ふ」以外にいろいろあったりしないんです。
だから、まず、「侍り」「候ふ」が丁寧語、そして、訳は「です・ます・ございます」と覚えてください。
注意してほしいのは、「侍り」「候ふ」は必ず丁寧語で「です・ます・ございます」ではない、ということ。「侍り」「候ふ」には謙譲語の「お仕えする」という意味もあります。
とはいえ、「侍り」「候ふ」は丁寧語。大丈夫ですか?
そして、もうひとつ。
以外と参考書や一覧に載せてないんですが、
「まかり~」は丁寧語表現。
これ、意外と出てくるので、チェックしましょう。
たとえば、「まかりなる」というのがあったとすれば、
「退出してなる」みたいな訳は×で、ただ単に、
「なります」でOK。「まかり~」は丁寧語、丁寧語は「です・ます・ございます」ですから、「まかりなる」で「なります」。
です。
「侍り・候ふ」があれば、そこは会話文。丁寧語は会話文のサイン!
というわけで、丁寧語は会話文の敬語であるということです。
裏返せば、「丁寧語=侍り・候ふ、があればそこは会話文」ということですね。
えっ、そんなこと習ってない?
確かにそうですね。丁寧語は、
話し手から聞き手への敬意
書き手から読み手への敬意
でしたね。
だから、会話文とは限らない…。
ちょっと、待ってください。
書き手って誰ですか?そうです。作者ですね。
では、読み手は?
あれ、わかりません?
読み手は「あなた」です。どこの世界に、読者であるあなたに作者が敬意をはらう必要がありますか?
ないでしょ?
だから、会話文なんです。
書き手から読み手への敬意
というのは、原則として、手紙文のようなことを言っていて、だから「~と」「~とて」「~など」というように、会話文や心話文と同じような形で出てくるわけです。だから、広い意味では、会話文。
本当に、地の文で読み手に敬意を払うのは、
僧が書いているお説教的な文章
あるいは、
大鏡のような地の文に見えていますけど、実は壮大な会話文ですよ、的な文章
に限られるわけです。
というわけで会話文の特定に使えますね。
話はそれて、会話文を見つけるサイン~丁寧語や命令形、終助詞や感嘆詞…
ついでなので、会話文特定のサインです。
終わりは「とて」「と」「など」で最初を探す。
古文の終わりは「とて」「と」「など」と思って間違いありません。だから、終わりは見つけられます。どこからか、よく考えましょう。まず、終わりをみつけます。
最初が「いふやう」「おもふやう」などがあったら、そこから始まり。
いふやう、~といふ
おもふやう、~とおもふ
きくやう~ときく
みるやう~とみる
というのが、会話文の鉄板。この間が会話文です。なので、最初があったら、大サービス。
感動詞
「あな」「あはれ」みたいなものから、「さればよ」「いざたまへ」みたいなものまで、感動詞に近いものがあれば、そこは会話文。地の文で作者が驚く必要はないですね。もちろん、随想や日記的なものでは使われることもありますね。
命令形
作者は私たちに命令をほとんどしません。会話文の確率が高い。
終助詞
よ・かな・や
という詠嘆系の類いのものから
がな・てしがな・にしがな・もがな・ばや・なむ
という願望系のものまで、
大体会話文。これも同様で作者が詠嘆する必要はないです。繰り返しになりますが、随想や日記になるとだいぶ話は変わります。
「めり」
「めり」は主観性の強い推量。「見あり」がもとで「私には~と見える」みたいなところが語源。ですから、作者が推量すると物語などでは気持ちが悪い。ただ、何度も書きますが、随想や日記では違いますよ。
敬意のずれ~偉くない人に尊敬語・謙譲語
今日の話のポイントですね。偉くない人に敬語があるとそこは会話文の可能性が高い。逆の例はめったにないです。偉い人に使わないことですね。
敬意のずれ~受けるところで敬語が消える
次にこれは覚えておいてほしいことなのですが、敬語の係どころには原則同じ敬語が必要なんです。
ちょっと現代語でやりますね。
先生がきて、歌って、帰りなさった。
最初の「~て」には敬語がありませんが、受けるところの「帰る」に「なさる」という尊敬語があれば十分ですね。
じゃあ、逆です。
先生がおいでになって、帰った。
変じゃないですか?これはありえないパターンなんです。
でも、現実にこういうことはある。こういう場合は、
先生がおいでになって、「帰った。……」と笑いなさった。
と、敬語のあるところに係っているとみる必要があるんです。
丁寧語の存在「侍り」「候ふ」
というわけで、丁寧語の「侍り」「候ふ」。敬語のずれ、などの場合は、これが最後に来ていることが多くて、「全部敬語!」と区別ができない人には、だから見つけられなくなるわけですね。
丁寧語の存在「下二」「給ふる」や「申す」
というわけで、最後に丁寧語的な役割をするものを二つ。
ひとつは、「下二」「給ふる」です。
下二「給ふ」
下二「給ふる」の説明です。
- 会話文中で使われる。
- 主語は私。一人称。
- 上につくのは、「思ふ」など。「思ひ給ふる」などの形が多くなります。
- 終止形では使われない。
ですから、基本的に丁寧語的、ってわかります?まだわからないですよね?なので、もうひとつの説明です。
会話文中の「申す」
会話文中の「申す」は、かなりの確率で丁寧語的な働きをします。
たとえば、こんな文章どうでしょう。
面接で彼女は先生に言った。
「『どうしても国立でなければだめだ』と父が申しておりまして…」
さあ、この「申す」ですが、誰から誰への敬意でしょう?
まず、話者からの敬意というのは、地の文でも会話文でも一緒ですから、
誰から=彼女から
でいいでしょう。
では、「誰への敬意」?
お父さんは、誰にしゃべているのか?お父さんは彼女にしゃべっていますよね?だとすれば、「彼女への敬意」って自分ですよね。
じゃあ、お父さんから先生への敬意、というのはどうでしょう?いや、だめです。だって、敬語使っているのは、彼女であって、お父さんは本当は先生大っ嫌いかもしれないし。
「やめろ、このくそじじい!」と彼は先生に申し上げた。
という文章があれば、作者が尊敬語使っているに決まってます。「くそじじい」ってさけんでいる人が使っているというのは無理があるのと一緒です。
…困りました。
これ、もしかしたら、「彼女から先生への敬意」じゃないですか?だって、自分の立場になってみると、彼女が言っているのは、先生に対してですから。
ほら、丁寧語と考えれば、通じません?まあ、受験の文法ではこういう説明できなくて、あくまでも謙譲語、なんでしょうけど。
こう考えて見ると、さっきの下二「給ふる」も、客体に対して敬意を払っているというよりは、聞いている相手に敬意をはらっていると見るとすっきりします。
会話文は、話し手から聞き手への場の雰囲気の敬語
大事なことは、この形なんですね。
尊敬語の場合、たいてい、「相手=聞き手=あなた」の動作につけるわけですから、「主語」と「聞き手」がイコールになるから説明できてしまうんです。
ところが、謙譲語の場合、「客語=この場にいない(あなたでない)誰か」になっているわけで、だからこそ、変な感じになる。さっきの例だと、「客語=自分」になってしまうわけで。だから、これも本来聞き手であるべきなんです。
難しいのは、じゃあ、謙譲語が明らかに、たとえば、「帝に」あるいは「大臣に」申し上げる場合は、それはやっぱり、客語であるところの「帝」や「大臣」に対して敬意を払っているととれるわけで。
これは、話者が本文の作者と同じ役割になっているわけで、
単純にこの場にいない「主語」であれば、尊敬語
この場にいない「客語」であれば、謙譲語
を選択しているんですが、
主語や客語が、「あなた」によりそってくると限りなく丁寧語的になっていくんですね。
ややこしいですが、理解しましょう。
というわけで、丁寧語でした。「気分」の敬語ってわかりました?ムード、というか、丁寧にしている、あらたまった雰囲気の敬語なんですね。
だから、偉くない人にも敬語を使うわけです。
次回は、訳出の仕方を練習します。