国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

古典読解実践 「藤壺の入内」を読む2~敬語や助詞に着目して解釈する

 

源氏物語「藤壺の入内」の2回目です。今日は、敬語や助詞に着目しながら部分的な解釈をしていきます。

前回は「わかるところからおおまかな話をつかむ」ということと、「敬語に着目して主客をつかむ」ということの概説をしました。

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今日は、もう少し、部分にはいりながら、わかりにくいところを中心に進めたいと思います。

 

冒頭「ましてしげく渡らせ給ふ御方」をどう訳す?

さて、前回も書きましたが、冒頭です。

源氏の君は、御あたり去り給はぬを、ましてしげく渡らせ給ふ御方は、え恥ぢあへ給はず。 

 この解釈は、どうしても敬語の知識が必要です。

まず「御方」という主語に着目した場合、受けどころ、述語、動詞は「え恥ぢあえ給はず。」となるはずです。となると、この敬意系は「給ふ」ですから、普通に偉い人ですね。

ところが、「御方」には、「渡らせ給ふ」とついています。普通に見れば、ここは「せ」「給ふ」で二重尊敬。ということは帝です。

まず、やりがちな間違いとしては、帝が「御方」であると考えることですね。二重尊敬に引っ張られて、「お渡りになる帝は…」とやってしまうわけです。これは当然ダメ。なぜなら、受けどころが、「給はず」だからです。つまり、「御方」は帝ではない。でも、「御方」の前には二重尊敬がある。

だから、「帝が頻繁にお通いになる、通われるそのお方は」という感じ。

こうなってしまえば、それは藤壺ですね。

「恥あへ給はず」というのがちょっとわかりにくいですが、前回も書きましたが、このあとの「せちに隠れ給へど、おのづから漏り見奉る」との対応を考えると、どうも、光源氏がじっと見る。で、恥ずかしいから隠れたい。でも隠れきれないで、見えちゃうっていうことですね。

たぶん、このあたり説明してもらいきれないと思うんですけど、宮中において、女性たちは部屋の中に入っており、姿を見せないものなんです。この辺は、私が誤解を恐れずに書くと、部屋の中に入れるということは隠している私的な部分を見せるということと同じ。現代だって、自分の寝室というか部屋に男子入れるとか、はいれるとかって特別な意味があったりしません?まして、ふだんから顔を見せたり、姿を見せたりしないわけですから、部屋に入れるということ自体が特別な関係、みたいなことなんですね。おそらくさらに宮中において夏の暑いときでも十二単ばしっと決めてるみたいなことがあるわけがない。そもそも十二単は正装ですし。普段はもっと軽装。だからこそ、そんな姿でいるところに男を入れるわけにはいかない。まさに部屋の中では多少緩いこともあったはずで…。でも、そういう関係にあれば、気にはしません。現代だって、結婚していれば、多少は夏の暑いときに緩い格好見せられますよね?

もちろん、これは帝の話。帝とそういう関係にある女御、更衣は気にしません。そんなものですから。でも、そこについてくる光源氏は…。

子どもとお母さん、というイメージではだめですね。なぜなら、藤壺が若いからです。14歳。そして、源氏は9歳。昔のことですから、こういうことになっていくわけで…。

だから、恥ずかしくて隠れようとするけれど、自然と見えてしまうわけです。

もちろん、顔を見られるだけでも、普段男には見せないわけですから恥ずかしいでしょうが、おそらく何もかも含めて、見られることが恥ずかしいんですね。

 

「若ううつくしげにて」の解釈をすすめる

 つづく一文もかなり解釈に苦労しますね。

いづれの御方も、我人に劣らむと思いたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに、いと若ううつくしげにて、せちに隠れ給へど、おのづから漏り見奉る。

 まず、前半です。「いづれの御方も」とこれが主語であることは間違いないし、とれていると思うんですけど、ここから長く一文で続いていくので、いつの間にかこの主語を忘れてしまうというか、訳がわからなくなってしまうところです。

特に直後の「我人に劣らむと思いたるやはある」も、文法がいい加減だと意味が取れなくなるだろうし。「我、人に劣ろうと思うのがある」???みたいなことになっていると想像します。

で、これでさらに続くから、どこまでさっきの主語かがより意識できなくなるんでしょうね。というわけで、「ど」という逆接、つまり、「but」に着目します。

 とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに

 ここの解釈を足掛かりにします。「大人ぶ」なんて書くと、逆にわかりにくい。現代語の感覚をそのまま持っていくと、「大人びて」ですよね。これが、基本的にホメ言葉のイメージなので、訳がわからなくなっているんです。ちなみに「~びる」は古文では「~ぶ」になって、「それっぽくなる」という感じですね。

「ど」butの前は、「めでたし」つまり「立派」ですから、「立派だけれど立派でない」というイメージの訳を作ります。つまり、ケナシでなければいけないわけです。

「大人びる」はいいイメージではなく、悪いイメージ。

とすると、「年をとっている」という感じかな。

そうなると当然気が付きますよね?直後に、「若ううつくしげにて」とある。ここは対比か?

となると、何と何が対比か?年をとっている、美しいとくれば、誰と誰が対比か、ということですね。

まず、書かれていることに思いがいたるはず。そういえば、最初は「いづれの御方も」でしたね。これが「大人び」の方か…となるとそれに比べて美しいのは…それは藤壺だろうと…。

「うつくし」は慈しむが語義で、小さく弱いものを守りたい気持ち。「らうたし=労痛し」もほぼ同じですね。

藤壺主語から確定することもできます。

 いと若ううつくしげにて、せちに隠れ給へど、おのづから漏り見奉る。

 とありますから、まず、同じように逆接の「ど」に着目すると、「隠れようとするけど、隠れられない」ですね。「おのづから漏り見奉る」は、要は「隠れられない」ことだろうと。あくまでも、先に出てきた「え恥ぢあへ給はず」と組み合わせになってしまいますけど、さっき説明したように、ここからこれは藤壺だと決まります。

となると、藤壺は「若ううつくしげ」であると。

逆に「大人び」の悪口さを加えて、対比だな…といく手もありますね。

 我人に劣らむと思いたるやはある

 ここはポイントは「やは」ですね。

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 「や」「か」は疑問文を作ります。疑問文は反語になって、詠嘆にもなりますね。

「は」は強め。

つまり、疑問を強くいう感じ。

「みなさ~ん、わかりましたかあ~」とやさしく聞くと疑問文。

「わかりましか!!」と強くいうと、わかってないでしょ、という反語の確率が高くなる。

なので、反語を疑いましょう。

「思い」と「い」になっていますが、こういうのはほぼ音便。「い」とか「う」とかは、ほぼ音便ですね。ア行活用はそもそも「得」だけだし、仮にヤ行とかワ行だとしたら、その語の終止形が見えないとまずいし。

となると、「思す」の連用形「思し」の音便ですね。

というわけで、「自分が他人に劣ろうとはお思いになっていない」というような感じです。

 

「似る」ということはわかるけれど…。「見え給ふ」「見え奉る」の解釈

 上も、限りなき御思ひどちにて、「な疎み給ひそ。あやしくよそへ聞こえつべき心地なむする。なめしと思さで、らうたくし給へ。つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見え給ふも、似げなからずなむ。」など聞こえつけ給へれば、幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見え奉る。 

 次に難しいポイントはここでしょう。まずは「似る」というような言葉がいっぱい出てきていることですね。

全体的な解釈ができる人は、きっと「ここは藤壺が桐壺に似ているってことだろうな」とわかります。この前の典侍の「いとよう似給へり」がありますからね。

でも、きちんと訳そうとすると、苦戦してしまうところです。

で、ここにもうひとつ原因として重なるのが、「見え給ふ」「見え奉る」の文法的な理解と解釈ですね。

「見える」と解釈をすると、主語が「見ている」人になるわけで苦戦します。先に、ここを片付けましょう。

 幼心地にも、はかなき花紅葉につけても心ざしを見え奉る。 

 「幼心地にも」とあるので、なんとなく主語が源氏であることはわかります。

「はかなき」、直訳風にいくと「頼りない」花や紅葉につけて、「心ざしを見え奉る」。これを「見る」というようにとっていると、「なんで源氏が心を見るの?ていうか、花や紅葉につけて、ってどういうこと?」みたいなところにいくわけですね。

これは「見ゆ」が受身動詞であることを理解しなければいけません。

「~ゆ」というのは受身の「る・らる」につながっていく語なんですね。

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というわけで、これは「見られ」「申し上げる」。

つまり、源氏が「見られている」わけです。誰に?謙譲語がありますからね。「偉い人に」です。となると、ここは藤壺でしょう。

つまり、藤壺に自分のお気持ちを見られ申し上げたいわけですね。直訳風です。見られるというのは、「見せる」ことなので、「お見せする」ぐらいにまとめるといいですね。たいしたことのない、ちょっとした花や紅葉を見つける、そんなことにつけても、自分のお気持ちを藤壺にお見せしたいわけです。

となると、「見え給ふ」も「見られなさる」ですから、

 つらつき、まみなどは、いとよう似たりしゆゑ、かよひて見え給ふも、似げなからずなむ。

 というところの解釈は、

1 面つき=顔つき、まみ=目、などはよく似ていたから、

2 「通ひて」「見られなさるのも」

という訳になるわけです。

「通う」と聞くと、「学校に通う」というようなイメージに聞こえてしまいますが、そのイメージで訳すと、「源氏が藤壺のところに通う」となってしまいますよね。でも、「~て」ですから、おそらく「見られなさる」と同じ主語。

となると、ここは源氏になってしまいますから、意味不明に陥ります。

「見られる」という受身のイメージからすると、ここは藤壺が主語。

となると、「通ひて」の主語も藤壺だってことになりますね。

藤壺が「通って」見られなさるのも、です。

そうです。気が付きましたか?

この「通ふ」は「似通う」ですね。そうすれば意味が通る。

となると、最後の、

3 似げなからずなむ

の解釈です。

「~げ」というのは、「~げなり」でよく、形容動詞にするパターンで使われます。現代でも、「よさげな店だよね」「あやしげな雰囲気」とか使いますよね。

だから「似る」「という感じ=~げ」「なし」ですから、「似ている感じでない」ということでしょう。「ず」をつけると、「似ている感じでない」「というのでない」となりますね。

最後の「なむ」は係助詞。大丈夫ですか?

「なむ」の識別は、

  1. 花咲かなむ 未然形+なむ 願望の終助詞 咲いてほしい
  2. 花咲きなむ 連用形+なむ 連用形ということは連用形接続の助動詞で「ぬ」完了と推量の「む」、推量の上に来たときの「ぬ」は強意 咲いてしまうだろう、きっと咲くだろう
  3. 花なむ咲く 係助詞 花が咲く 「なむ」は強調だから訳さない
  4. 花の下にて死なむ 死ぬ+む 死のうと思う ここは意志訳がいいでしょう。

こんな感じ。

「なからず」ですから、「ず」ですので、終止形か連用形ですね。となると、3だろうとわかります。ちなみに、連用形。なぜって、「なむ」のあとは「ある(「あり」の連体形=係り結び)」だから、「似げなからずあり」ですからね。

戻ります。

となると、「顔つきや目のあたりが似ていたから、似通ってあなたが見られなさるのも」「似ていない感じでないんです」というあたりでしょうか。

つまり「ふさわしくないこともない」という感じに落ち着きます。

このブロックのラストはここ。

聞こえつけ給へれば 

 です。

どう訳しますか?

敬語の訳は、

  1. 敬語をとって戻す
  2. 付け直す

ですね。

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これ、結構大事なテクニックなんで理解してください。

で、ここですが、

「聞こえ」「つけ」「給ふ」ですよね。

なので、「聞こゆ」が「申す」、もっと戻すと「言う」であることになります。

となると「言いつける」、謙譲語にしても大丈夫そうですね。「申しつける」となるわけです。尊敬語ありますから、最後に「~なさる」とつけることも忘れずに。

 

「うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて」って?

弘徽殿女御、また、この宮とも御仲そばそばしきゆゑ、うち添へて、もとよりの憎さも立ち出でて、ものしと思したり。 

 今回のラストはここにしましょう。

なんとなく、弘徽殿の女御が、「おもしろくない」と思っているところだというあたりは見当がつきますが、正確に訳そうとすると苦戦するところではないでしょうか。

ここでは二つの点に着目しましょう。

「~し」は形容詞。文法の知識から単語に迫っていく

一つ目は「そばそばし」「ものし」の解釈です。先に「ものし」からやってしまいましょう。

「ものしと思したり」とあるわけですが、多くの生徒は「物す」が浮かんでしまうようなんです。でも、文法的に考えると、「物す」なら「物し」は連用形。「と」は「 」をもたらすものですから、原則的に文終止ですよね。だから、連用形で「~して…」というのが絶対ないなんてことはないですけど、考えにくい。

というわけで、終止形だとするなら「~し」で終わるのは形容詞です。だから「物」という名詞を形容詞化しているわけですね。そうすると、「邪魔」みたいなイメージわきません?厄介者っぽいみたいな感じ。不愉快とか訳すんですけどね。

そうすると、最初の「そばそばし」も、こっちは大丈夫だとは思いますが、やっぱり形容詞。

よく出て来る単語に「そばむ」っていうのがありますね。「目をそばむ」みたいに使うこともありますが、「側む」で「横を向く」「目をそむける」というような意味です。こんな単語が入ってしまうと、「側側し」か?なんて思っちゃうんですけど、これは「稜」なんですね。角が立つイメージ。というわけで、ここは「かどかどしい・とげが立つ」という感じですね。

 

「うち添へて、もとよりの憎さ」の語のイメージは?

二つ目はここですね。

「うち添へて」とありますが、「うち」は接頭語で、意味はありません。だから「添えて」です。つまり「~に加えて」ということですね。そうやって見ると「もとより」というのも気になります。「もともと」ということですから。

というわけで、ここが気になると、

「もともとどうだったの?」「何に加えてって言ってるわけ?」

というあたりに思いがいたるわけです。

だって、藤壺は、宮中には、今、新参でやってきているわけで、もともとなんてあるわけないし、腹立つとすれば、帝に愛され、源氏に気に入られるぐらいしかないわけだから、「もともと」って感じには違和感がでますよね?

となると、さっきの「似ている」話になりません?

つまり、桐壺に腹を立てていたというもともとに加えて、と考えるのが無難なんですね。

 

というわけで、今日はここまで。また細かく追いかけようと思います。