国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

読むだけで、現代文(国語)の成績をあげよう!その1「私(自己)とアイデンティティ」

現代文(国語)の成績をあげるためには、ある一定程度の知識をもっていなければいけません。だから、「ひたすら読む」ことによって、それをつけるということが大事なんですが、お手軽にやるとするなら…ということで、第一回は「私(自己)とアイデンティティ」です。

大事なこととして、国語(現代文)は、文章を「わかる」ことが大事だということです。

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 基本的な考え方として、全てをわかる必要がなくても、その講義=授業=文章がわかるための最低限の基礎知識はないといけない、ということです。だからよく出るテーマについて、考えてみましょう。これらは大学受験を前提に書いていきます。中学受験の小学生が直接このブログを読むとは思えないので。

でも、中学受験でも保護者の方が理解していただいて、出題される文章を説明するときに使ってもらえたら、国語力はあがっていくと思います。

今日のテーマがよく出る学部系統

こうした文章のテーマは、センター試験を中心に、どこの大学でも出ます。そして、それは、中学受験や高校受験でも頻出だということです。

要するに学部の専門性の色が少なく、みんなが常識として共有しやすい。だからこそ、第一回のテーマだということですね。

ちなみにですが、大学入試は、学部で問題を作っている大学と、大学全体で共通の問題を作って、それを各学部に配っている大学=つまり、どの学部も同じ傾向の大学、にわかれます。

センター試験とか、大学共通型の問題を出す大学では、こういう一般教養型の問題は非常に出しやすいです。なぜかというと、学部の専門性が強いと特定の学部に有利になるからですね。こういう「自己のあり方」「学びの姿勢」「芸術」「メディア」「都市」「環境」など誰でもなんとなく問題意識を持っているようなテーマが出やすいわけですね。

まとめ

出題しやすい所:全般。特にセンターや大学が問題を作っている大学。高校入試や中学入試でも頻出

「私」「自己」って何?「個人」という自明のものを問い直す。

というようなことで、今日のテーマは「私」「自己」「個人」、そして、「アイデンティティ」です。

要は、「私って何?」ということ。

「私」は「自己」であって「他者」とは異なる「個人」のことでしょ?…あなたがたはそんなに気にもとめず、当たり前のようにそう思っているかもしれない。でも、そんな考え方がこの日本に根付いたのはずいぶん最近のことなんです。シンプルにいえば、明治時代。

英語には「インディビデュアル」という言葉がある。でも、それに対応する日本語はなかった…。さあ、どうしよう?そういう中で、「個人」という言葉をつくったんですね。そんなこと、今の私たちには想像もできませんね。この話は、「言語」の話になったときにもう一度詳しくします。

でも、要は日本語になかった。言葉がないということは、そういう考え方がない、ということです。

想像つかないでしょ?

でも、そういう当たり前になってしまったことを問い直すのが、現代文。

「私」は、他者とか、社会とかと関係なく存在しているように見えて、実は深く関わっているというか、一体となっているもの。

言葉や身のこなし、ふるまい…そういったものひとつひとつが他者からの影響を受けて、他者のまねをして、いつの間にか、当たり前、常識として身についてしまっているわけです。

このへんは、次回の「身体」、その次の「言語」あたりで、詳しく説明します。

欲求や価値は「個人」が決めている?

たとえば、あなたが「価値」をおいているものがあるとします。それは、本当にあなたが価値があると思っているものでしょうか?

いや、もちろん、あなたが価値があると思っているのでしょう。でも、それは、周りの人が価値を感じているからでは?

芥川龍之介ではないですが、うなぎやひものは食べるけど、それが実はへびだと聞いたら、はきだします。さっきまで、「おいしい」と食べていても。いくらやうにがおいしいのも、みんなが貴重でおいしくて高価な価値のあるものだというから、ですよね?たとえば、じゃがいもがものすごく手に入らない貴重なものになって、トリュフやキャビアが雑草のように雑魚のようにどこにでも手に入るものになったら?あなたがある大学に行きたいのも、みんなが行きたいと思っているから。かわいい女の子だって、みんながかわいいというからであって、アフリカとか西サモアとかいったら、まるまるとした、ふっくらとした女性がもてるわけですよね。

えっ、私はみんなが価値をおかないものに価値をおいている?じゃあ、それは、「みんなが価値をおくもの」ということを基準にして、「みんなとは違う私」を作っているんですよね?だから、みんながあなたの価値をおくものがいいと言い出したら、違うものに価値をおきますよね?

じゃあ、やっぱり、みんなの価値から逃げられないです。

みんながほしいと思うからほしい。みんながいいというからいい。そういう「みんな」の価値がわたしたちを作っているわけですね。

アイデンティティって何?アイデンティティは「確立」するもの?

さて、「自己」というテーマになると、「アイデンティティ」という言葉がちらついてきます。

「アイデンティティの確立」なんていう風に使われますね。さっきの話と合わせてみると、要するに「アイデンティティが確立する」ということは「他者とは違う「自己」が形成される」というようなことかもしれません。(もちろん、現代文的感覚でいうと、この認識を「反省」して、「問い直す」わけです。)

アイデンティティの前提は「昨日」と「今日」の自分が「違う」ということ

アイデンティティは、「自己同一性」なんていうふうに訳されます。「昨日の私」が「今日の私」であることの証明。「IDカード」の「ID」は、アイデンティティの略です。自分が自分であることの身分証明書。もうちょっとかみ砕いて言うと「私らしさ」なんていうのが一番わかりやすい訳のような気がします。

さて、こういう認識自体が、「過去の私」と「今日の私」と「未来の私」が独立しているというようなニュアンスを含んでいます。だから、その「異なる私」が「同じ」であるためには、「特別な何か」が必要だということを言っています。

でも、そんなことあります?

現在の私は、「過去の私」のふるまいの中にしかない。そして、「未来の私」は「過去の私」と「現在の私」のふるまいの結果として、何かができる。

スポーツとかを考えればわかると思いますが、「過去の私の練習」が、できるようになった「現在の私」を作るわけですよね?そして、「未来のできるようになった私」は「過去と現在の私」が練習した時にはじめて存在するわけですよね?

だから、そもそも連続しているわけです。

たとえば、何の努力もしていない人が「世界にひとつだけの花」を信じて、「ぼくには何かのすごい才能があって、きっといつか目覚めるんだ」って何もしないで夢見てる人がいると「おい!」て思いません?

未来の何かを可能とする自己は、間違いなく、現在の私の中にあるけれど、それは「過去の私」と「現在の私」と切れ目なくつながっていて、だから、現在の自己が不可能であるならば、未来の私も不可能なわけです。

この「夢見る可能性」みたいなものがまかりとおるのも、「現在の私」と「未来の私」が切れているから。ジャンプするかのように、未来の私になれると思っているわけですね。

そうではなくて、現在の私が未来の私を作るそのものなわけです。

伊能忠敬とピカソ~自分らしさは逆にジャンプできる

そういう風に、「私は常に私なのだ」という認識ができあがると、特別な何かを「私らしさ」と求めなくても、「何をやっても私は私なのだ」とか、「未来の私は、現在の私がこれから作り上げるものなのだ」とかいう話になりますよね。

つまり、自分らしさとして、「特別な何か」が逆に必要なくなるんです。だって、そもそも「私は私」なんですから。

鷲田清一さんの本の中にあったふたつの話を使わせてもらいます。

伊能忠敬は、60過ぎてから、あの日本地図を作り上げるわけです。商家としての成功をなかば捨てて、新たなチャレンジを始める。でも、そのチャレンジは、60まで生きた伊能忠敬のすべての経験があってできることなわけですね。チャレンジをする、地図を作り上げる基礎的な素養は、過去の伊能忠敬が作ったもの。そして、地図作りという未知のことを将来可能にしていくのは、現在の伊能忠敬のチャレンジ。

そう考えれば、私たちは、常に何かを捨てて新しいものにチャレンジができる。そのチャレンジの下地になるのは、過去の私。そして現在の私が未来の私を自由に作る。

わくわくしません?

ピカソは、画商に自分の作品の贋作チェックを頼まれます。でも、自分の描いた絵までぽいぽい捨てていく。画商は慌てていうんです。「それはあなたが描いた絵だ。私が見ていたんだから、間違いない。」ピカソはそれに対して「そのピカソはピカソではない。」

格好いいですよね。昔のピカソは確かに描いたかもしれないが、現在のピカソはそんな絵は自分の作品として認めない。

そんなことでしょう。

わたしがわたしである以上、過去の自分にしばられる必要はない。でも、逆にいえば、過去の私は、必ず私の中に根ざしている。

アイデンティティも何も、最初から、私は私であるんですね。

「近代的個人」はどんなところに現れるか?

逆にいえば、他者や社会から、独立して、また、自分が自分として確立していく、という自己像は、最近生まれたものなんです。

他者とは違う自分らしさ。

こういうものを「必要」とか「いいもの」と、捉えるようになったこと自体が、「個人」とか「自己」とかが、何か浮いたもののように、何かから独立して存在しているように捉えているわけですね。

じゃあ、こういう捉え方はどんなところに現れるのか、簡単に書いておきます。それぞれ後でまた詳しく言及していきます。

自由と平等

法学部的テーマになりますが、「個人」というものが尊重される形として、「自由」で「平等」ということになります。ひとりひとりの「個人」は、平等で等価のものとして自由であるわけですね。

その自由がみなに平等に与えられている…。こういう考え方がいきつくと、つまり、現在のありようの差は、「個人」の努力の差だ、ということに行き着いていきます。

仮に、ものすごい貧富の差があったとしても、それは「個人」の努力の問題とされていくわけです。

でも、本当にそうかといえば、その個人は、代々受け継いでいる富や教育や地位や、決して平等であったわけではない。

でも、近代的な価値観では、個人は、そういったものからの縛りも「ない」ことにしてしまったわけで、だからこそ、「個人の責任」みたいな話にするんです。

ちょっと不平等ですよね。

そんな風にもつながります。この話は、法学部的テーマのときに、もう一度詳しく説明します。

教育と介護

「個人」の発想が確立すると、幼い子どもも最初から「親とはちがう個人」になるわけですね。同じように介護を必要とする高齢者も「親とはちがう個人」。

当たり前のように、それぞれがそれぞれの人生を生きていくわけですね。

というか、自分の人生を自分のために生きることがいいことになるわけで、逆にいえば、子どものためや親のために生きることは、「自己」を犠牲にする「悪」ともいえるわけです。

わかりません?この感覚。

結婚したら、だんなのために生きたり、こどものために生きたり、親のために生きたり…私の人生、どこにいったの?みたいなドラマあるでしょ?

別にこれがいけないわけではないですが、でも、どうしてこれが悪といえるのか…。それも、「個人」がすでにあるからですね。

だから、個人が個人として生きるためには、国や行政に、それを負担してもらうことが当然であるわけです。

そして、それでもなお、誰かが、たいていの場合は女性になるわけですが、子どもや介護が必要な親は、「個人」が「自主的に」面倒をみていることになる。なぜなら「個人」の「自由」が一番である以上、本来、ひとりでは生きられない子どもや要介護者を面倒みることも、「個人」が「自由」の中で選択した行為にしなければ、「個人」の「自由」の発想を壊してしまうからです。

でも、冷静に考えれば、こどもや人生の晩年は、誰かの手によってしか生きていけない。社会と個人は密接に関わっていて、私たちは本来、自分の人生の一部を差し出す必要があるわけですね。

これを認められるかどうか。

私たちは、自由の一部を捨てて、社会に直接参加することができるか、というのはよく法学部で出るテーマなんですね。

プライバシー

プライバシーは、近代的個人がある、という前提に立てば、当然、自己の内面を守る必要がある。

誰だって、心の中では、ちょっと人に言えないようなことを考えることもある。だから、これは守られてしかるべき。そして、それを見せないようにするのも、個人の責任。だって、個人は社会とか他者とかとは独立している、自分を自分たらしめている根幹なんですから。個人の内面がすべての中心だったら、その責任は個人にしかない。個人が、社会に向けて、アイデンティティを作って見せる必要がある。その人にふさわしくない、あまり人には言えないかくしておかないといけないことは、自分がかくさないといけないし、それはプライバシーとして、守ってあげる必要がある。

そういう意味では、みんな同じなわけで、その見せてはいけない内面は自分が守るべきだけど、あうんの呼吸でみんな守っているわけですね。

とはいえ、この「個人」という発想は、あくまでも、近代以降の私たちが作ったもの。だから、それが変わればプライバシーのありようもかわってくる。たとえば、昔は自分の部屋、なんてなくて当たり前だった。恥ずかしいも何も、そういうものだったはず。「家」とか、「家族」なんていうイメージも、大昔になれば「村」ぐらいのイメージとイコールだったんじゃないか、なんて想像ができますよね。

そして、また「個人」のありようがかわってくれば、それに応じて「家」や「家族」や「社会」や、そして「プライバシー」のありようもかわってくるわけですね。

「社会と自己のつながり」をみつける~ボランティアの発想

というわけで、現代は、どんどんどんどん、「個人」の発想がすすんでいきます。

まず、家族でない他者と区別される。

家族も、核家族化して、別居が基本になる。

親と子もそれぞれの部屋を持ち、それぞれのライフスタイルを持つ。

居間に集う、なんていうライフスタイルから、テレビや電話さえも、それぞれが持つようになっていき、いまやネットによって、離れた他者とつながっていて、目の前に家族がいても、そうでない他者とつながっている。

あ、このシリーズ書いている途中でした。

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この次回は「テレビ」です。

そうなんです。どんどんどんどん、個人を生きている。みんなが生まれてから死ぬまで、個人を生きる。だから、子育てや介護は、家族でもなく、地域でもなく、社会というか国というか、「自分が関わらない誰か」の責任でやってほしいわけですね。

金ははらうけど、労力や時間は割かない。個人を犠牲にするものだからですね。

こういう時代、どうやって、他者との関わりを自覚するか、どうやって「誰かが犠牲になっている仕事」を受け持つか、は大きな問題です。これもこのシリーズの最後の方で、法学部的テーマで説明しますが、誰かがやるしかないんです。だって、実際、子どもは誰かが世話しなければ生きていけない。障碍をもった方や高齢者もそう。だから、誰もが誰かのおかげで生きていくわけです。いくら、保育所を作って介護制度を充実させても、その隙間は誰かが埋めているわけで、この日本では、それは圧倒的に「女性」におしつけられます。さあ、これをどうするのか?これはまたの機会に書きますね。

そうなってくると、この「個人」重視の発想をどう変えていくか、ということは大きな問題ですね。もちろん、旧来の共同体のような、ふるきよき「家」や「村」へ回帰しようとする発想もありますが、一番、シンプルなのは、ボランティアです。

マンションに住んでいる隣の人と会話あります?下手すると名前も知らなくないですか?家族構成がまったくちがったりすると。

そういう人との関わりをどう持つかというと、やはりボランティアでしょう。たとえばゴミ拾いのような。なんとなく、そうやって集まって、なんとなく見知りあう。自分の職業とか、立場とか、そういうものを離れて、なんとか社会に貢献する。

あれ、職業とか立場とか離れて、自分として社会に参加する、って、最初のアイデンティティの話に戻ってきました。これも実は鷲田さんの本の話でした。そういう風に、自分自身を問い直していく、常識を問い直すんですね。

たまたまですが、今日は地域のゴミ0運動の日なんです。ふだんはクラブの指導とかで、何もできないんですが、なんとか休みにして、家族とゴミ拾いに参加してきます。

では。