「山月記」の解説、授業展開については、すでにまとめてありますが、今日は、「山月記」のテーマは本来どこにあるのか、ということと、国語の授業の問題点をまとめてみたいと思います。
教科書定番教材シリーズはこのブログでも、一定の読者を持っている部分のようです。おそらく、授業準備にあたる先生と、試験を受ける生徒たちのニーズがあるものだと思われます。こういうことを、先生も生徒も「検索」する時代が来ているんですね。昔だったら、図書館に行って、文献をひっぱっていたはずなのに。
ここまで「走れメロス」「山月記」「こころ」「舞姫」と小説については展開してきましたが、ネットで検索してみると、さまざまな解説がならびます。しかしながら、ささいな違いはあるにしても、大枠の解釈は決まっているというか、同じ観点について議論しているというか、結局、国語の授業の枠組みをベースとしているんだろうなあ、と思うんです。反国語の授業をうたっていても、同じ観点で見方を変えているというか。
偉そうにいったところで、普通の国語の授業を逆手に取ったのが、私の解説でもあるので、まあ、乗っかってるんですけどね。
というわけで、今日はどちらかというと、教員向けというか、文学部の方向けというか、そんなテーマになっております。
「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」は本当にこの作品の中心なのか?
まずは、私の「山月記」の解説です。
読んでいただいた方にはわかると思いますが、「李徴が虎になる理由」を考えながら、ひとつずつつぶしていき、最終的に「理由がない」、そして「本当かどうかわからない理由を1人で考えながら、それをはき出すこともできない孤独、そして聞いてもらうという癒やし」というようなテーマで説明しています。
これは、当然、国語の授業で「李徴が虎になる理由」を考えさせ、そしてそれを「臆病な自尊心」に求め、まとめているんだろうという前提があり、「いや、そうじゃないでしょ。理由なんてないし、そもそもテーマは、虎になる前も、虎になった後も、自分のことをわかってもらえないというそこにあるんじゃないの?」という問いかけでもあるわけです。
一番の疑問は、あの作品を読んで、どうして、「こういうところが虎だよね」という、李徴を責め立てるような展開になるのか、ということです。
文学作品の読みを深めるために、表現にこだわるということは大事です。その過程で「臆病な自尊心」の内実に迫るということはあり得るでしょう。でも、それが、「やっぱりこれが虎だよね」とか「こういうところが普通じゃないよね」というような、授業になっている気がして仕方がない。
授業者には、その自覚がないかもしれません。でも、「臆病な自尊心」を虎になる理由として深めるということは、因果応報的な結論を導くわけで、それは自業自得であるとか、そういう印象を与えていることになりませんか?
そうすると、中島敦は、この作品を通じて「教訓」を与えたかのような読みにも通じていきます。
私の印象は、何回読んでも、そういう教訓を感じない。「臆病な自尊心」の罪のような部分は感じなくはないです。それは、李徴も言っていますが、「悔い」のようなものですね。そんな気持ちになっていなければ…。もっと、切磋琢磨していれば…。少なくとも「しないから虎になるんだぞ」というようなものではないです。
今回のものでも書きましたが、一番「虎」のように感じるのは、詩人への執念のようなものです。そういう観点で考えれば、「臆病な自尊心」はもっともこれを妨げる虎らしくない部分に感じます。そして、もちろん、その執念を持ちながら、虎となってしまったことへの「無念さ」に一番私は共感するんです。
それは、人それぞれの読みなのかもしれません。でも、とにかくありとあらゆるものが、「臆病な自尊心」であり、「虎になった理由」に集約されていく。事実、このブログの検索も、ほとんどこれでされているわけです。
そういう人たちに、この記事は、期待していたものではなく、受け止められているのか、それとも一石を投じられているのか、気にはなる部分です。
定番教材って何?国語は結局、何をやっているのか?
さて、どうして、こんなことが起こるのでしょうか。一因としては、古く、誰かがこういう展開をして、そういう教えを受けた人が教員となり、同じような授業を展開するという、伝統の継承が起こっているとはいえますが、どうして、こういう指導が続いていくのでしょうか。
これを教員の主体性で考えれば、教えられたことを継承するという問題であるとはいえます。時代は変わっているのに、いつまでも昔と同じように教えていく、ということですね。これは本来、新しい教材を発見したり、時代にあった教え方を開発したり、そういうことって必要なはずなんですが、実際にはとにかく何か決めごとのように同じ教え方を再生産していく、ということなんでしょうね。
方法論としてはアクティヴラーニングなんて言葉が入りましたが、そこからたどりつくところが、昔と同じ理解であるとするなら、それは結局本質的な変化ではないんだと思います。
もう少し、国語という科目に基づいて考察してみます。
ある作品が与えられる。その作品は、古典として現代の生徒たちに理解することが難しくなってくる。そうするときに、どういう作業を国語の先生はするのか?本来、国文学をやっていたであろう国語の先生は、本来、文学的なアプローチをしたいはずです。そう考えるなら、中島敦の作品を読み込んで、作家論的なアプローチもできるはず。でも、そんなアプローチは教室では重すぎるし、ついてこれないリスクもありそうです。
じゃあ、どうしよう?そういうとき、国語教員は、生徒達が理解できるレベルに落とし込む、という方法論に流れやすいのだと思います。もうちょっとわかりやすく書くと、現代的なテーマにおとしこむということです。
「走れメロス」は友情、「こころ」は三角関係、「舞姫」は仕事か恋愛か。
そして、「山月記」の場合は、「臆病な自尊心」ですね。
現代の生徒でも抱えている現代的なテーマにすれば、自分に置き換えて理解ができますからね。
でも、私はそれなら定番教材はやらなくてもいいのではないかと思います。最初から現代的なテーマの作品をやればいいのではないか。
私自身は、現代的なテーマの作品も好きですね。村上春樹の「蛍」とか、吉本ばななの「キッチン」あたりは教材化をしました。だから、現代的なテーマを扱うことも意味のあることのような気がします。
でも、古典的教材を、作品の読み自体を変えてまで、現代的なテーマにもっていくことは、国語というよりは、道徳というか、生き方というか、人生論というか、悩み相談というか、自己主張というか、そんなことのような気がします。
実際、これらの作品は、最終的にこういったテーマで討論したり、意見を書いて文集にしたりする取り組みも多いような気がします。
でも、だったら、最初から、「恋愛と仕事(勉強)どっちを優先する?」とか、「友と好きな人とどっちをとる?」とか「何もかも犠牲にしてかなわぬ夢を追い続ける生き方についてどう思う?」とか、最初から討論にすればいいわけです。もちろん、作品を読むこともやれるわけだから、こういう取り組みを悪いとは言わないし、討論が盛り上がれば、それはそれで、発表し議論する能力を伸ばしますから悪くはないんですけど、その代償として失われていく、作品を作品としてきちんと読む力、というか、登場人物を自分と違う他者として理解する力が失われているわけです。
議論や討論をするためには、他人の意見をしっかりと聞いて、その上で自分の意見を述べていくことが必要なはずです。
でも、作品をベースにするなら、まずは作品の読み、つまり、そこにいる他者をしっかり読み取ることが大事で、自分に置き換えたり、ひきつけたりすることはあまり感心できることではありません。
解釈は自由。多様に読むのもあり。でも、そういう言葉を使って、結局、作品という他者の声を自分の都合のよいように利用するとしたら、討論としてもあまり意味をなしていない気がするんですね。
というわけで、もしかしたら、定番教材は曲がり角に来ている気はします。でも、国語の教員としては、古典としての定番教材をしっかりおいて、日本文学とその時代というようなものを理解してほしいなあ、と思ったりする今日この頃です。