「こころ」は山場を迎えようとしています。先生は求婚し、Kを出し抜くことに成功しました。そして、だからこそ罪悪感に苛まれていきます。そしてKが死を選択します。今日はそんな場面です。
前回のところで、先生は求婚し、そして、そのあとの心理を追っていきました。今日は、先生はその罪悪感とどう向き合っていくかを追っていきましょう。そして、それはKがなぜ死を選んだかということにつながります。
いつものように青空文庫から。
今日の場面です。
「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように
刺戟 するのですから、私はなお辛 かったのです。どこか男らしい気性を具 えた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに素 ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作 も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。
私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目 のないのに変りはありません。といって、拵 え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問 されるに極 っています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝 け出さなければなりません。真面目 な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分 一厘 でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は正直な路 を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾 な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境 に陥 ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟 まってまた立 ち竦 みました。
五、六日経 った後 、奥さんは突然私に向って、Kにあの事を話したかと聞くのです。私はまだ話さないと答えました。するとなぜ話さないのかと、奥さんが私を詰 るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。
「道理で妾 が話したら変な顔をしていましたよ。あなたもよくないじゃありませんか。平生 あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」
私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えました。しかし私は進んでもっと細 かい事を尋ねずにはいられませんでした。奥さんは固 より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。
奥さんのいうところを綜合 して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口 いっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩 らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子 を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。奥さんの前に坐 っていた私は、その話を聞いて胸が塞 るような苦しさを覚えました。
「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値 すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥 かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑 している事だろうと思って、一人で顔を赧 らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を掻 かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
私が進もうか止 そうかと考えて、ともかくも翌日 まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然 とします。いつも東枕 で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床 を敷いたのも、何かの因縁 かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の室 との仕切 の襖 が、この間の晩と同じくらい開 いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱 を突いて起き上がりながら、屹 とKの室を覗 きました。洋燈 が暗く点 っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団 は跳返 されたように裾 の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突 ッ伏 しているのです。
私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体 は些 とも動きません。私はすぐ起き上って、敷居際 まで行きました。そこから彼の室の様子を、暗い洋燈 の光で見廻 してみました。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目 見るや否 や、あたかも硝子 で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立 ちに立 ち竦 みました。それが疾風 のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策 ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄 く照らしました。そうして私はがたがた顫 え出したのです。
それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の名宛 になっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛 い文句がその中に書き列 ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(固 より世間体 の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行 で到底行先 の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後 に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方 も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜 しく詫 をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口 ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨 の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は顫 える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆 なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖 に迸 っている血潮を始めて見たのです。
でははじましょう。
Kに対する釈明
先生は、前回のところでKに説明する必要が生じています。だっていつかはバレるわけですから。お嬢さんを手に入れたからこそ、今、Kに説明する必要があるのですが、先生にはそれができないでいます。
その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように
刺戟 するのですから、私はなお辛 かったのです。どこか男らしい気性を具 えた奥さんは、いつ私の事を食卓でKに素 ぱ抜かないとも限りません。それ以来ことに目立つように思えた私に対するお嬢さんの挙止動作 も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。
私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目 のないのに変りはありません。といって、拵 え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問 されるに極 っています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝 け出さなければなりません。真面目 な私には、それが私の未来の信用に関するとしか思われなかったのです。結婚する前から恋人の信用を失うのは、たとい一分 一厘 でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。
要するに私は正直な路 を歩くつもりで、つい足を滑らした馬鹿ものでした。もしくは狡猾 な男でした。そうしてそこに気のついているものは、今のところただ天と私の心だけだったのです。しかし立ち直って、もう一歩前へ踏み出そうとするには、今滑った事をぜひとも周囲の人に知られなければならない窮境 に陥 ったのです。私はあくまで滑った事を隠したがりました。同時に、どうしても前へ出ずにはいられなかったのです。私はこの間に挟 まってまた立 ち竦 みました。
先生は、説明ができません。だって、それは、Kに自分のやった悪事を発表することになるからです。そして、それがお嬢さんや奥さんに知れてしまったとき、どうなるかが怖いからです。
先生の策略
というわけで先生は、いろいろと方法を考えています。
私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、
面目 のないのに変りはありません。といって、拵 え事を話してもらおうとすれば、奥さんからその理由を詰問 されるに極 っています。もし奥さんにすべての事情を打ち明けて頼むとすれば、私は好んで自分の弱点を自分の愛人とその母親の前に曝 け出さなければなりません。
まず、考えたのは、奥さんに頼む、ということです。この問題点は?
何の解決にもなりません。自分が直接言うか、奥さんに言ってもらうかの違いがあるだけで、先生はばれたくないわけですが、これでは必ずばれますね。
次に考えたのは、奥さんに「拵えごと」をしてもらう、ということです。
これ、わかりましたか?
つまりですね、うそをついてもらうということです。どんな嘘をついてもらえば、先生はばれないことになるでしょうか?
先生は、お嬢さんと結婚をする。先生がプロポーズしたんです。一方、Kに対しては、お嬢さんをあきらめるように話を動かしていたわけですね。その裏で、お嬢さんにプロポーズした。これが先生の道義的な引け目なわけですね。
どうしたらいいでしょう?
そうです。奥さんに頼んで、ひとつだけ嘘をついてもらえばいい。つまり、奥さんが先生に頼んで、お嬢さんと結婚してもらった、という作戦。
こうなれば、先生としては、「いや、おれもまさか、こんなことになるとは思わなくて。本当にごめん。でも、奥さんには世話になっているからいやともいえないし。お前には悪いけど、勘弁してくれ。」みたいな言い訳ができる。
これ、なかなかいい作戦ですよね?
でも問題点がある。
そうです。こんなこと奥さんに頼んだら、「なんでそんなことする必要があるの?」ってくるに決まっています。そのときに「実は…」という話になると、この場合、Kに対してはうまくごまかせますが、奥さん、それは当然お嬢さんには、何をやったかを告白する、ということになります。
さあ、困りました。手はありません。というわけで、先生は立ちすくんでしまう。先生は自分の失敗を人に知られたくはないわけですが、お嬢さんを手にいれたからこそ、先生は何をやっても人に知られてしまうことになる。
というわけで先生は、立ち竦んでしまうわけですね。
奥さんがKに結婚を教える
そして、その間に決定的なことが起こります。
まあ、当然そうなるに決まっているわけですが、ついに奥さんの口からKに結婚の話が語られていくわけです。大体、奥さんの様子からしても、お嬢さんの様子からしても、いつ言ってもおかしくない雰囲気でした。だからこそ、「どうしよう」って思っていたはずなんですから、手がないからって何もしないでいたらこうなります。
ともかくも、この事実はKに語られます。
Kはこの事実を冷静に受け止めます。なんと2日前の話。つまり、2日間、Kは結婚の事実を知っていたのに、先生はKが普通にしているのでそのことに気がつかなかったのです。
勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に
値 すべきだと私は考えました。彼と私を頭の中で並べてみると、彼の方が遥 かに立派に見えました。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」という感じが私の胸に渦巻いて起りました。私はその時さぞKが軽蔑 している事だろうと思って、一人で顔を赧 らめました。しかし今更Kの前に出て、恥を掻 かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。
私が進もうか止 そうかと考えて、ともかくも翌日 まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。
Kに対して、「策略で勝っても、人間としては負けた」というのがこの段階での先生の理解です。でも、ことがここまで進めば、あとは謝るだけでした。書いている先生は、当時の自分の心理を、「恥を掻かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛」と書いています。確かに、そうしなければいけないといって、それが素直にできるかといえばそうではないかもしれない。
ともかくも先生は翌日まで待とうと決めたわけです。
Kの死~先生のこころの動き
なんていううちにKは死んでしまいます。このあたりを読んでみましょう。
私が進もうか
止 そうかと考えて、ともかくも翌日 まで待とうと決心したのは土曜の晩でした。ところがその晩に、Kは自殺して死んでしまったのです。私は今でもその光景を思い出すと慄然 とします。いつも東枕 で寝る私が、その晩に限って、偶然西枕に床 を敷いたのも、何かの因縁 かも知れません。私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の室 との仕切 の襖 が、この間の晩と同じくらい開 いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱 を突いて起き上がりながら、屹 とKの室を覗 きました。洋燈 が暗く点 っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団 は跳返 されたように裾 の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突 ッ伏 しているのです。
私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体 は些 とも動きません。私はすぐ起き上って、敷居際 まで行きました。そこから彼の室の様子を、暗い洋燈 の光で見廻 してみました。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目 見るや否 や、あたかも硝子 で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立 ちに立 ち竦 みました。それが疾風 のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策 ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄 く照らしました。そうして私はがたがた顫 え出したのです。
それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の名宛 になっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛 い文句がその中に書き列 ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(固 より世間体 の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行 で到底行先 の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後 に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方 も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜 しく詫 をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口 ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨 の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
私は顫 える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆 なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。そうして振り返って、襖 に迸 っている血潮を始めて見たのです。
さて、Kの死に対して、先生はどんな「こころ」の動きを見せるでしょうか。順を追って整理していきましょう。
まず、最初に部屋の襖があいていることに気が付きます。
私は枕元から吹き込む寒い風でふと眼を覚ましたのです。見ると、いつも立て切ってあるKと私の
室 との仕切 の襖 が、この間の晩と同じくらい開 いています。けれどもこの間のように、Kの黒い姿はそこには立っていません。私は暗示を受けた人のように、床の上に肱 を突いて起き上がりながら、屹 とKの室を覗 きました。洋燈 が暗く点 っているのです。それで床も敷いてあるのです。しかし掛蒲団 は跳返 されたように裾 の方に重なり合っているのです。そうしてK自身は向うむきに突 ッ伏 しているのです。
私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体 は些 とも動きません。私はすぐ起き上って、敷居際 まで行きました。
次に死んでいることに気が付きます。
その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を
一目 見るや否 や、あたかも硝子 で作った義眼のように、動く能力を失いました。私は棒立 ちに立 ち竦 みました。
ここは、茫然としたということでしょうか。要は思考停止のように固まったということですね。ショックと言い換えてもいいかもしれません。ある意味では当たり前です。
裏を返すと、ここで何かを読み取れるようなことはありません。
黒い光と自分の未来、全生涯
さて、次。
それが
疾風 のごとく私を通過したあとで、私はまたああ失策 ったと思いました。もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄 く照らしました。そうして私はがたがた顫 え出したのです。
「ああ失策った」と私は思います。さて、何が「しまった」のか?ここはしっかり読み取りましょう。
- 「もう取り返しがつかない」
- 「黒い光が、私の未来を貫いて一瞬間に私の前に横たわる全生涯を物凄く照らしました」
- 「がたがたふるえだした」
という3つの要素があります。
最初の「取り返しがつかない」はKが死んだわけですから、なんとなくわかります。が、この「なんとなくわかる」が厄介。これは自分だったら…と置き換えが入るわかりやすさだからです。何が取り返しがつかないのか?Kが死んだこと?そりゃそうなんですけど、その中身をちゃんとみないといけない。
それが、二つ目ではっきりします。
「黒い光」が「私の未来」を貫く、「私の前に横たわる全生涯を物凄く照らす」とつながります。
この「取り返しがつかない」がかかっているのは、「自分の未来」です。簡単にいうと「俺は終わった」ということ。ある意味ではKではないのです。Kが死んだこと、そのものではなく、そのことによって、自分の人生が終わったということを意味しているはず。
となると、「がたがた震える」のも、自分にこれから何が待ち受けているのか怖くなったからにほかなりません。
だからこそ、次はこうなります。
それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の
名宛 になっていました。私は夢中で封を切りました。しかし中には私の予期したような事は何にも書いてありませんでした。私は私に取ってどんなに辛 い文句がその中に書き列 ねてあるだろうと予期したのです。そうして、もしそれが奥さんやお嬢さんの眼に触れたら、どんなに軽蔑されるかも知れないという恐怖があったのです。私はちょっと眼を通しただけで、まず助かったと思いました。(固 より世間体 の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)
遺書を手にする先生
次に先生が手にするのは、遺書です。まっさきにこれを手にするのは、この中に、自分がKを裏切ったこと、先生に対する恨みつらみが書いてあると思っています。それが、お嬢さんや奥さんの目に触れたら、たいへんなことになる。それがさっきの「がたがたふるえる」であり、「未来を貫く」ですね。
だからこそ、まずはこの遺書をなんとかしたい。
ところが、そういうことは書いていない。だから、「助かった」です。世間体の上かもしれないが、その世間体が重要で、奥さんやお嬢さんをふくめて、Kをだましていたこと、そういうようなことをする人間だと知られること、そして何より、そのことによって友人を死に追い込んだ、もっといえば殺したと知られること。それを恐れていたわけで、それがばれない以上、「助かった」と先生は思います。
心理には関係ありませんが、遺書の内容も追っておきましょう。
手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は
薄志弱行 で到底行先 の望みがないから、自殺するというだけなのです。それから今まで私に世話になった礼が、ごくあっさりとした文句でその後 に付け加えてありました。世話ついでに死後の片付方 も頼みたいという言葉もありました。奥さんに迷惑を掛けて済まんから宜 しく詫 をしてくれという句もありました。国元へは私から知らせてもらいたいという依頼もありました。必要な事はみんな一口 ずつ書いてある中にお嬢さんの名前だけはどこにも見えません。私はしまいまで読んで、すぐKがわざと回避したのだという事に気が付きました。しかし私のもっとも痛切に感じたのは、最後に墨 の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。
書いてあることは、「薄志弱行で到底行く先の望みがないから自殺する」というだけです。これが死ぬ理由として書かれているだけ。だから、「助かった」んですね。
次にポイントは必要なことがいろいろ書いてある中で、お嬢さんの名前が出てこない。先生は「わざと回避した」と思います。Kの側に立ってみると、自分が「恋」などというものにうつつをぬかしたということを伏せたい、ということなのでしょうか。ともかくも先生は「わざと回避した」と思うわけです。
最後に「もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう」と書いてあるわけです。
遺書を元通りに戻す「こころ」
ここで読み取りたいのは先生の気持ちですから、このKの遺書はとりあえずおいて先に行きます。Kの死については、次回で考えますので。
私は
顫 える手で、手紙を巻き収めて、再び封の中へ入れました。私はわざとそれを皆 なの眼に着くように、元の通り机の上に置きました。
先生は遺書を「わざと皆なの眼に着くように、元の通り机の上に」置きます。つまり、誰も読んでいないかのように、戻すわけです。最初にまっさきに遺書に手にしたことと考え合わせると、もしかしたら、最初に手にしたとき、不都合なことが書いてあったなら、遺書は処分したのかもしれません。でも、そうではなかった。むしろ、読んでもらった方が自分の身を守れます。だから、もとに戻す。
そうして振り返って、
襖 に迸 っている血潮を始めて見たのです。
そして、振り返る。つまり、自分の部屋に戻ろうとして、はじめてKの血潮に気が付く。裏の言い方をするなら、そこまで、この「血潮」に気が付かなかった、ということですね。
先生のこころの動きのまとめ
では、まとめてみましょう。
- Kが死んでいることに気が付く。
- 自分の人生が終わったという意味で取り返しがつかないと思う。
- 遺書に気が付き、中を確かめる。=都合の悪いことが書いてあったら、処分も辞さない。
- 遺書には自分が裏切ったこと、お嬢さんへの恋心など回避されているので、むしろ、読んでもらうためにもとに戻す。
- 振り返って、襖に飛び散った血潮にはじめて気づく。
こんな感じです。先生が、ここでも自分を優先している、というようなことを書きますが、わからなくはない。
Kの死そのものよりも、先生の未来の方が明らかに優先されているからです。
でも、みんな多かれ少なかれこんな気持ちを持っているのではないか。自分が失敗をしたときに、隠したい、逃げたい、という気持ちはみんな持っているのではないかと私は思います。
逃げ出したら問題ですが、逃げ出していないのだから、それでもそういう気持ちがあったら、問題なのか?
もちろん、本当に逃げたら問題だし、それこそ取り返しのつかないことになりますが、それでさえ、不安になります。
自分が逃げないのは、「逃げ出してあとでバレること」と「今素直に謝ること」のどちらが得かを比べているだけではないかと。
たとえば、「逃げ出してあとで発覚したらそれこそ、大変なことになる。だから自分のために、ここは逃げ出さないのだ」ということではないのか?本当に、自分が悪いことをしたら、逃げるなんてことは1ミリも考えないことができるのか?
私が歪んでいるのかもしれません。
でも、現代に生きる私たちは、罪を犯した時の代償を常に頭に描きながら、「やめよう」と思っているのではないのか?もしかしたら、「絶対にばれない」とか「今までばれたことがない」とか「ばれたとしてもたいした代償がない」とか思ったとき、人間はそれでも、逃げ出さずに認められるのか、ということはとても気になります。
ともかくも先生は、自分を許しません。だからこそ、「それでも私は私を忘れることができませんでした」と書くわけです。
先生の行動をひどいとみることもできますし、こういう評価をくだすこと自体を考えて厳しく自分をいさめる人ととることもできます。
今日はだいぶ長くなりました。次回は、先に進むのではなく、今日、この中で読み切れなかったKの死について、もう少し考えてみたいと思います。