近代文学の文学史に入ってきました。西洋から入ってきた小説というスタイルは日本ではどのように変化していくのでしょうか。追っていきましょう。
大学入試の現代文分野での文学史に対応すべく、文学史のまとめをしています。前回は、近代文学、特に明治の全体像を説明しました。
それから、大学入試の出題傾向を追うということで、難関大学で最も文学史が出題されていると思われる早稲田大学政治経済学部の問題一覧をまとめました。
というわけで、このあたりを踏まえて、今日は一気に小説の流れを白樺派ぐらいまでまとめてみたいと思います。
浪漫文学と写実的文学
近代の文学を整理していくときには、まず、浪漫主義か写実主義かを考えるといいですね。
浪漫~恋愛を中心に、比喩や象徴などを理想、すなわちかっこいい感じとか幻想的なこと、夢の世界のようなことを展開する。
写生・写実~現実世界に根ざしたいかにもありそうなことをできるだけ正確に、淡々と描いていく。
という感じですね。
となると、そもそもわかってくるんですけど、
- 小説ってどっちかっていうと、写生・写実じゃない?で、詩歌って逆に浪漫だよね。
- でも、全部が現実的な小説なんてありえないし、写実なのか、浪漫なのかって難しいよね?ていうか、本当は決められなくない?
ということがわかりませんか?そんな感じですね。
スタートでいうと、浪漫と写実は次のようにわかれます。
浪漫
森鴎外、北村透谷などの「文学界」。当然小説なども発表されていますが、まずは評価されていくのは、「於母影」などの翻訳詩ですね。「新声社(S・S・S)」同人によるもので、鴎外が中心となっています。この影響を受けていくのが北村透谷という形になります。
この流れの中で論じていいのかはわかりませんが、次の3人を書いておきます。
徳冨蘆花「不如帰」(ほととぎす)。キリスト教の影響を受けて、自由主義的な考えをもっています。
国木田独歩「武蔵野」抒情詩人としても活躍した要素が出ているんですが、この人は晩年は自然主義の傾向をもっていきます。
泉鏡花「高野聖」尾崎紅葉の一門から出ています。神秘的幻想的な作風です。
写実
こちらは、坪内逍遙の「小説神髄」から始まり、二葉亭四迷の「浮雲」といったあたりで形になっていく流れです。日本の文壇の主流派といっても過言ではないです。このあと説明していきます。
三田文学~浪漫
慶応大学に流れを持つのが「三田文学」。自由と美というようなものが描きたい方向です。要は、おしゃれで、ファッショナブルで、女の子にもてそうな感じの路線です。ロマンティックですから。
「三田文学」は「スバル」の流れです。星の名前がつくと、浪漫って感じしません?三田文学といえば、まずは永井荷風です。作品は「あめりか物語」「ふらんす物語」という外国の名前がついた作品ですね。あとは「すみだ川」とか。このひらがな感も、永井荷風って感じですね。晩年になると「濹東綺譚」とか「つゆのあとさき」とか。大正時代は短いですから、昭和まで長生きすると、時代をまたいでいくんです。
文学史の教科書なんかでは「耽美派」なんて名前がついたりもするんですが、美に耽るってことですね。この流れで言うと、谷崎潤一郎。
「刺青」「痴人の愛」「卍」「蓼食ふ虫」などですが、官能というか、要はだいぶエロが入ってくる雰囲気です。昭和に入ると「春琴抄」「細雪」とかです。
早稲田文学~自然主義
これに対して、自然主義です。フランスのゾラを中心に起こった文学運動で、実験的な意味合いが強いものでした。たとえば、人間がある環境に置かれたら、どうなるかなんて実験できませんよね?だから、文学上で、できるだけ客観的に科学的にやっていこうというのがおおもとなんです。社会とか人間とかというものをそういう中で暴いていくという形。
でも、日本では、客観的な方法だけが残っていって、最終的には、自分が体験した事実を暴露していく、もっというと私生活の秘密を発表していくというスタイルになってしまうんですね。
よくもわるくもその代表格となってしまったのが、まずは田山花袋です。「蒲団」がその代表格です。これがいわゆる告白型の、私生活暴露小説の成功例になってしまいます。「田舎教師」なんかもテストに出ますね。
もう1人が島崎藤村。彼は、もともと「文学界」、つまり浪漫派の詩人なんですね。「若菜集」「落梅集」とかです。「まだあげそめし前髪の林檎のもとに…」って「初恋」が有名ですよね。でも、小説に転じてからは、自然主義です。「破壊」は部落差別の問題など描いた社会派の作品なんですが、その後、姪っ子との関係なんかを発表してしまうことにもなる「春」あたりになると、自伝的告白的小説になっていきます。代表作は他に「夜明け前」とか「家」「新生」とかです。
それを理論的に支えるのが「早稲田文学」です。中心的人物は島村抱月。新劇運動にも関わる演劇系の人でもあるんですが、この人も、研究所の看板女優の松井須磨子と、妻子ある身でありながら関係をもってしまって、一大スキャンダルに発展します。
というわけで、自然主義っていうのは、文学自体も、どこかで私小説、つまり、告白主義的なものになり、またなおかつそこで描かれる内容が不倫とかそういう類いの、あまりよろしくないもの、という印象が強くなってしまうんですね。
早稲田文学はあとは長谷川天渓。
その他の自然主義文学といえば、
岩野泡鳴「耽溺」
長塚節「土」
などをおさえておけば大丈夫です。
文壇とは別の流れ~夏目漱石と森鴎外
というわけで、文壇の主流派が自然主義であったとしても、そうではないものが小説ではないのか、という動きもあるわけです。
そもそも、実際に海外にいって、小説に触れたかどうかというのは、大きな差になっているような気がします。
たとえば「浮雲」の二葉亭四迷はロシアです。ロシア文学の翻訳などの流れから自分でも作品を書くことになります。
夏目漱石はイギリスです。英文学者を志して挫折しますが、ロンドン留学と英文学がその発端でしょう。
森鴎外はドイツですね。そもそもは軍医ですが、ドイツ留学後に「舞姫」や「うたかたの記」を作ります。
というわけで、本場の文学を触れた人たちは、それぞれが独自路線で、自然主義ではない文学を作るんですね。
森鴎外
森鴎外は軍医なんですが、文学活動も精力的に行います。透谷と組んだ「文学界」は、浪漫主義。「於母影」といった翻訳詩などの動きも含めて、完全に浪漫です。自然主義とは完全に対立。「没理想論争」と呼ばれる逍遙との議論もあります。
そういう観点でみると、「舞姫」を告白小説のように考えるのは成り立ちとしても間違いでしょうね。「自然主義」への批判というならなんといっても「ヰタ・セクスアリス」。代表作は、あとは「青年」とか「雁」とか。
晩年は、歴史小説にうつっていきます。「阿部一族」「山椒大夫」「最後の一句」「寒山拾得」「渋江抽斎」などです。
森鴎外が文学史で出てくると、結構作品が並ぶことが多くて、1、2の作品でやるわけにはいきませんから、注意してください。
夏目漱石
漱石の場合、英文学からの挫折、というような形で小説を書いていると思います。社会の中では広く受け入れられていきますが、自然主義が中心となっている文壇からの評価は決して高くありませんでした。
作品としては、すごく多様性があって、処女作である「我が輩は猫である」は社会風刺的ですし、「坊っちゃん」は痛快な娯楽小説のような面があります。「草枕」になってくると、ちょっと叙情的というかエッセイ的というか。「夢十夜」なんていうと幻想的な作品。
大学の先生をやめてからは、朝日新聞で作家になるわけですね。「虞美人草」から始まり、「三四郎」「それから」「門」の前期三部作。「彼岸過迄」「行人」「こころ」という後期三部作。このふたつの三部作になると、個人としての生き方と社会的な倫理観とのせめぎ合いがテーマになる、かなり重厚な作品となっていきます。
ちなみに、このふたつの三部作の間にあるのが「修善寺の大患」と呼ばれる大病です。早稲田政経で、これ以後の作品を選べ、という問題が出ました。まあ、正解が「明暗」なんで簡単なんですけどね。
「こころ」以降ということでいうと、「道草」と「明暗」。「道草」はテーマは同じとはいえ、自伝的作品で、そういう意味ではこのあたりから自然主義の文壇から評価されるようになっていきます。最後は「明暗」。未完でおわるというか、この執筆中に漱石は死ぬわけですね。このあたりを漱石としてどう評価するかはわかれるところです。評価するのか、しないのか。私はしない方です。でも、それはそれで、現実へのぶつかり方としてすごいなあと思います。
漱石というと、自我とかエゴとか「則天去私」とか、そういうのがキーワードになります。
個人的なことでいうと、鴎外にせよ、漱石にせよ、学校の国語の授業レベルではきちんと説明されているとは思えません。
というわけで、私の彼らの「近代」というもののぶつかり方についての理解は、
で、よろしくお願いします。
人道主義~白樺派の登場
さて、こうした2人の超越した才能はともかく、そうでない人にとっては自然主義の文壇のやり方には閉口するところがあります。
もっと、ちゃんとまっとうなことを書いた方がいいという考え方。自然主義があまりに暗く、あるいは人間的にどうなの?という世界ですから、もっといいこと書こうよ、というのは至極まっとうだと思います。
これが「白樺派」。理想主義とか、人道主義とか説明されますけど、言葉以上の説明をするなら、それ以前の自然主義がひどすぎるだけ。姪っ子と関係もって、それを小説上で発表する、それが小説だって、どうですか?その反動といえば、それだけの話です。
というわけで白樺派です。作家名と代表作を覚えましょう。
武者小路実篤 「お目出たき人」「友情」
志賀直哉 「暗夜行路」「城の崎にて」「小僧の神様」
有島武郎 「或る女」「生まれ出づる悩み」「カインの末裔」「惜みなく愛は奪ふ」
この3人をまず覚えれば大丈夫だと思いますが、長与善郎とか倉田百三あたりも名前だけでも見ておきましょう。
これが明治時代末から大正時代あたりの話です。
で、注意してほしいのは、書いた順番で、動いていくことは間違いないですが、永井荷風も、谷崎潤一郎も、島崎藤村も、昭和まで作品を書き続けますから、流れが完全にうつっていくわけではないんですね。
でも理解するためには、こういう流れをおさえてもらうといいと思います。次回は小説の流れの続きを追う予定です。