「舞姫」は今日から暗雲が垂れ込めます。キーワードは「明治二十一年」の冬。なぜかわかりませんが冬の到来とともに不幸がやってくるのです。
先に書いてしまいますが、必ずしも「不幸」ではないはずなんです。むしろ、待ち焦がれていたもののはずです。でも、それが「不幸」であるかのように描かれていきます。それが今日からのところです。
いつものように本文はこちら。
今日の部分はここです。
明治廿一年の冬は来にけり。
表街 の人道にてこそ沙 をも蒔 け、※ [#「金+のつくり」、161-下-29]をも揮へ、クロステル街のあたりは
凸凹 坎 の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍 えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室 を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿 つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶 けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻 といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束 なきは我身の行末なるに、若し真 なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥 すほどにはあらねど、小 き鉄炉の畔 に椅子さし寄せて言葉寡 し。この時戸口に人の声して、程なく庖厨 にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西 のものにて、消印には伯林 とあり。訝 りつゝも披 きて読めば、とみの事にて預 め知らするに由なかりしが、昨夜 こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。伯の汝 を見まほしとのたまふに疾 く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣 るとなり。読み畢 りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便 にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢 も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。
「これにて見苦しとは誰 れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故 にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共 に行かまほしきを。」少し容 をあらためて。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縦令 富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣 ふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年 をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下にきしる雪道をの下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に
被 ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼 を下りつ。彼は凍れるを明け、乱れし髪を
朔風 に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階 を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊 をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟 したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふは怎 なる面もちして出迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えて逞 ましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにも遑 あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐 を共にせんといひぬ。
食卓にては彼多く問ひて、我多く答へき。彼が生路は概 ね平滑なりしに、轗軻 数奇 なるは我身の上なりければなり。
余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡驚きしが、なか/\に余を
譴 めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢 りしとき、彼は色を正して諫 むるやう、この一段のことは素 と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活 をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦 伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強 て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者 なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦 むるは先づ其能を示すに若 かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是 れその言 のおほむねなりき。
大洋に舵 を失ひしふな人が、遙 なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼 なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活 、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑 く友の言 に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対 へぬが常なり。
別れて出づれば風面 を撲 てり。二重 の玻璃 を緊しく鎖して、大いなる陶炉に火を焚きたる「ホテル」の食堂を出でしなれば、薄き外套を透る午後四時の寒さは殊さらに堪へ難く、
膚 粟立 つと共に、余は心の中に一種の寒さを覚えき。
明治二十一年の冬
それは突然やってきます。この間までは「憂きが中にも楽しき月日」ですからね。なんでこんな変化が起こるのかわかりませんが、突然書かれる現実の時間「明治二十一年の冬」。ともかくも、この言葉とともに、何か風向きが変わるんです。
明治廿一年の冬は来にけり。
表街 の人道にてこそ沙 をも蒔 け、※ [#「金+のつくり」、161-下-29]をも揮へ、クロステル街のあたりは
凸凹 坎 の処は見ゆめれど、表のみは一面に氷りて、朝に戸を開けば飢ゑ凍 えし雀の落ちて死にたるも哀れなり。室 を温め、竈に火を焚きつけても、壁の石を徹し、衣の綿を穿 つ北欧羅巴の寒さは、なか/\に堪へがたかり。エリスは二三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に扶 けられて帰り来しが、それより心地あしとて休み、もの食ふごとに吐くを、悪阻 といふものならんと始めて心づきしは母なりき。嗚呼、さらぬだに覚束 なきは我身の行末なるに、若し真 なりせばいかにせまし。
今朝は日曜なれば家に在れど、心は楽しからず。エリスは床に臥 すほどにはあらねど、小 き鉄炉の畔 に椅子さし寄せて言葉寡 し。この時戸口に人の声して、程なく庖厨 にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西 のものにて、消印には伯林 とあり。
明治二十一年の、ベルリンの厳しい寒さの冬。起こったことはひとつだけ。エリスが舞台で倒れたといって運ばれてきたわけです。
それから具合が悪くなって、仕事=舞台を休むようになる。それが「つわり」ではないかと気がついたのはエリスの母。
つまり、子どもができたかもしれないわけですね。
豊太郎はこんな風に書きます。
「さらぬだに覚束なきは我が身の行く末なるに、もし真なりせばいかにせまし」
そうでなくても、不安なのは自分の今後であるというのに、もし本当だったらどうすればいいのだろう…。
国語教員から言わせれば、「~せば~まし」は反実仮想ですからね。ありえないことを想定したときに使う構文ですからね。
同棲して、「愛」があったらありえなくはないはずなんですが、「あってはならぬこと」なんでしょうね。恋愛をもししているなら、あってはならぬことです。
となると、「今朝は日曜なれど心は楽しからず」です。
エリスが妊娠したかも…やばい、やばい、やばい…
こう考えて見ると、豊太郎は、ここで少なくとも「憂きが中にも楽しき月日」に終わりがきたことがわかります。それはエリスの妊娠によって。
よく考えてみればわかることですが、彼は母の呪いのような遺言によって、またエリートの道に戻ることを宿命づけられているわけで、
エリスの妊娠はまずい状況なんです。
おそらく、エリスとの生活が楽しいあまり、これを忘れがちになっていたんでしょう。エリスとの生活にうつつを抜かしている場合じゃなかったんです。そのことに、エリスの妊娠によって気がついていく、正気に戻っていく、といってもいいでしょう。
そんなとき、もうひとつの大きな事件が起こります。新聞社の通信員の仕事をくれた相沢から手紙が届くのです。
相沢の手紙
この時戸口に人の声して、程なく
庖厨 にありしエリスが母は、郵便の書状を持て来て余にわたしつ。見れば見覚えある相沢が手なるに、郵便切手は普魯西 のものにて、消印には伯林 とあり。訝 りつゝも披 きて読めば、とみの事にて預 め知らするに由なかりしが、昨夜 こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも来たり。伯の汝 を見まほしとのたまふに疾 く来よ。汝が名誉を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣 るとなり。読み畢 りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故郷よりの文なりや。悪しき便 にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に関する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相沢が、大臣と倶にこゝに来てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。」
かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢 も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。
「これにて見苦しとは誰 れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故 にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共 に行かまほしきを。」少し容 をあらためて。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縦令 富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣 ふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年 をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼びし一等「ドロシユケ」は、輪下にきしる雪道をの下まで来ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に
被 ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼 を下りつ。彼は凍れるを明け、乱れし髪を
朔風 に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
相沢からの手紙は次のようなもの。
「とみの事にて
待ちに待っていた、名誉回復のチャンスがやってきました。天方大臣が会いたいといっている。おそらく相沢がそのチャンスを作ったのでしょう。はっきりと、「名誉」という言葉も使われています。
ところがびっくりするのは、豊太郎の反応です。
「茫然たる面もち」と書かれています。だからこそ、エリスは、「悪しき頼りにてはよも」ですね。「よもあらじ」ですから、「まさか悪い知らせではないでしょうね」と聞きます。新聞社の通信員の仕事が打ち切られるというような悪い知らせだと、エリスが思うような反応をします。
不思議。だって、チャンスですから。どうして、こんな反応なんでしょう。
考えられるのは、ひとつだけ。さっきの妊娠に対する反応とも通じるものがありますが、この名誉回復が何を意味するか、豊太郎はわかっているんです。豊太郎は名誉回復して、出世して家を国を背負っていくんです。つまり、こんなところでエリスと暮らしている場合じゃない。つまり、このふたつ、両立できないことなんですよね。それがわかっているから、妊娠はまずいことだし、相沢からの手紙もまずいことです。
エリスの妊娠を喜ばない豊太郎を見ると、ひどいやつですが、相沢からの手紙を喜ばないということは、エリスとの生活をずっと続けたい豊太郎も見えてきます。豊太郎からすれば、「憂きが中にも楽しき月日」がずっと続く、名誉回復のチャンスを待ちながら、ずっとこうしていることが幸せなのかもしれません。
さて、事情を説明すれば、エリスはかいがいしく働きます。
かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、
上襦袢 も極めて白きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が為めに手づから結びつ。
白いワイシャツ、背広を出して、ネクタイを結ぶ。「かはゆき独り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ」です。これ、豊太郎の言葉だと思うとすごくないですか?母一人、子一人で大事に育てられた豊太郎くんですよ。実際のお母さんより、エリスはよく世話をしているわけですね。
もっと悪意をもって読み込むなら、お母さんにしばられて、呪いをかけられているのが、豊太郎の問題だとすれば、今、今度はエリスという新たなお母さんのような存在が、別の呪いをかけようとしているのかもしれません。
先にすすめましょう。
「これにて見苦しとは
誰 れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故 にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共 に行かまほしきを。」少し容 をあらためて。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縦令 富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣 ふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより幾年 をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」
エリスは気がつきます。それは豊太郎が「不興なる面もち」をしているからです。何かを感じ取ります。
「かく衣を改めたまふを見れば、何となくわが豊太郎の君とは見えず」
「よしや富貴になりたまふ日はありとも、われをば見捨てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも」
とたたみかけます。
スーツに身をつつんだ豊太郎を見て、住む世界の違いに気がつく。この人は本当は、私なんかと付き合う人じゃないと。
だからこそ、「富貴」なんて言葉もでてきます。この人はそういう人なんだ。「富貴」である人なんだ。この人は今、その世界に戻ろうとしているのではないか。
豊太郎も本能的にその状況を感じ取れば、エリスもそれを感じ取ります。
豊太郎は答えます。
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社会などに出でんの望みは絶ちしより
幾年 をか経ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」
嘘です。じゃあ、なんでドイツに残ったのか?じゃあ、なんで「不興なる面もち」をしているのか?
でもきっとこういうしかないんですよね。嘘はつきたくないから。だって、政治社会に出たら、エリスと一緒にはいられないんだから。
逆にいえば、豊太郎君はよくわかっているんです。でも、決めてるわけじゃない。だから、「不興なる面もち」です。名誉回復はしたいけど、エリスとは別れたくないからです。
だから、さっきの嘘も嘘でない。本当は「望み」はあるけど、「エリスへの愛」があるなら「望み」はないことにもなりますからね。
エリスが見送ります。
余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に
被 ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して楼 を下りつ。彼は凍れるを明け、乱れし髪を
朔風 に吹かせて余が乗りし車を見送りぬ。
かっこいいシーンですが、見送るエリスの様子は、今後訪れる苦難をエリスが知っているかのように見えます。
カイゼルホウフと相沢の忠告
余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者に秘書官相沢が室の番号を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の
階 を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊 をつたひて室の前まで往きしが、余は少し踟 したり。同じく大学に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相沢が、けふは怎 なる面もちして出迎ふらん。室に入りて相対して見れば、形こそ旧に比ぶれば肥えて逞 ましくなりたれ、依然たる快活の気象、我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにも遑 あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは独逸語にて記せる文書の急を要するを飜訳せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相沢は跡より来て余と午餐 を共にせんといひぬ。
カイゼルホウフというホテルで二人は再会します。すぐに大臣と面会し、頼まれたのは、急ぎのドイツ語の文書の翻訳。あっけなく大臣との面会を終わります。でも、出たあと、昼飯を一緒に食おうという話になります。
余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡
驚きしが、なか/\に余を
譴 めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき。されど物語の畢 りしとき、彼は色を正して諫 むるやう、この一段のことは素 と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、学識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活 をなすべき。今は天方伯も唯だ独逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦 伯が当時の免官の理由を知れるが故に、強 て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者 なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦 むるは先づ其能を示すに若 かず。これを示して伯の信用を求めよ。又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是 れその言 のおほむねなりき。
相沢は豊太郎に対して、助言・忠告をします。相沢の言葉をまとめられますか?
まずは、豊太郎の現状を相沢なりに評価しています。そして具体的なアドバイスです。まとめてみました?
まず評価です。
エリスとの生活を「目的なき生活」といっています。学識のあるものがいつまで、こんな「目的なき生活」をしているんだと。つまり、新聞社の通信員なんてだめなんです。だから、そこから脱するチャンスを相沢は作りました。
そしてアドバイスはふたつ。
1 大臣にドイツ語の能力を示して、大臣の信用を得よ。
「目的なき生活」から脱するに必要なのは、大臣の信用。そのために必要なのは、豊太郎の能力。特に語学。人を薦めるのには、能力を示すのにこしたことはない。だからぼくは、君をかばったり、弁護したりしない。そんなことをすればお互いに損をするだけだと。
2 エリスと別れよ
エリスとの関係は「慣習という一種の惰性」だと。そして「人材を知っての恋ではない」といいます。エリスが君がどういう「人材」か、知ってしている恋ではない、ということ。つまり、身分違いの恋だということです。豊太郎がどういう人材か知らない。ただ金持ちになる程度ではなく、国を背負うそういう人材だということは確かによくわかっていないでしょう。だからこそ、「意を決して断て」ということになるわけです。
そして、もうひとつ。
相沢は、豊太郎を「弱き心」の持ち主だと指摘しています。書いている豊太郎は、自分を「弱き心」の持ち主として認識して、その上でここまで振り返ってきました。その視点は、ここではじめて出て来たのかもしれない、ということですね。このことはまた後で考えましょう。
ともかくも、相沢から明確な二つの方向性が示されました。では、豊太郎の認識です。
大洋に
舵 を失ひしふな人が、遙 なる山を望む如きは、相沢が余に示したる前途の方鍼 なり。されどこの山は猶ほ重霧の間に在りて、いつ往きつかんも、否、果して往きつきぬとも、我中心に満足を与へんも定かならず。貧きが中にも楽しきは今の生活 、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑 く友の言 に従ひて、この情縁を断たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に対して否とはえ対 へぬが常なり。
まず相沢の助言を「大洋に舵を失ひし船人が遙かなる山を望む」ようなものだといいます。いつからおまえは「大洋に舵を失った船人」になったんだ!とつっこみたくなりますが、相沢に会って、相沢的価値観、つまり、国を背負っていく、というそういう感じが急に入ってきたのかもしれませんね。
さて、アドバイスについては、こんな風になります。
- 「重霧」の中にあって、行き着くかどうかわからない。つまり、出世できるかどうかもわからないのに、エリスと別れるのはリスクであるということ。
- もし、そこに行き着いたとしても満足するとは限らない。エリスとの生活は楽しく、エリスへの愛情を捨てることはできない。
これが豊太郎君の気持ちです。だったら、返事は「NO」ですね。
でも、返事は「YES」です。
「わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、
どういうことでしょう?なんでこうなるんでしょう?
豊太郎くんは書いています。
「友達に対していやとはいえない」
それで説明できますか?もう少し、補ってみましょう。
ここで、NOと返事をしたら、どうなるでしょうか。これですべて終わりです。だから、「弱き心」では決められないんです。
で、返事をする。「しばらく」がついています。どこにかかります?「しばらく」「断たん」では意味が通じません。しばらく別れる、だと、すぐ別れることになります。違います。「しばらく」「約しき」です。「しばらく」約束をした。つまり、当面別れるということにしておいて、本当に別れるかどうかはあとで決める、ということです。
確かに豊太郎君はこうするしかない。
だからこそ、別れれば、「心の中に一種の寒さ」が起こります。罪悪感であり、今後の不吉な予兆であり…
でも考えて見ると、明治二十一年の冬がやってきて、不幸がやってきたように見えますが、本来待っていたチャンスのはず。それが不幸に感じるということは、それだけ豊太郎はエリスと別れたくない、ということでもあるんですよね。それは読んであげたいところです。
さあ、運命は一気に動いていきます。