「舞姫」は、2回目になりました。いよいよ物語を読んでいきます。今日は、「舞姫」の設定を考えます。
この間は、手記としての物語について考えました。
いよいよ今日から物語の設定について考えていきましょう。
「舞姫」は森鴎外の処女作です。正直言って、名作からはほど遠いと思います。突っ込みどころ満載の作品です。
めちゃくちゃ。
「こころ」を読むと、その緻密さに感動します。しかし、「舞姫」は…。緻密ではあります。しっかりと設定されていますし。でも、必ずしもうまくはない。
ただ、鴎外の出発点として考えるなら、すごく意味がありますし、なにしろ「近代」「明治」というものを考えるなら、これも意味があります。比較する「こころ」が漱石の晩年の作品であると思うなら、そこはだいぶ割り引かなければいけません。
では、考えていきます。
こんな設定の主人公ってあり?
手記の最初はこんなところから始まります。
余は幼き
比 より厳しき庭の訓 を受けし甲斐 に、父をば早く喪 ひつれど、学問の荒 み衰ふることなく、旧藩の学館にありし日も、東京に出でゝ予備黌 に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田豊太郎 といふ名はいつも一級の首 にしるされたりしに、一人子 の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。十九の歳には学士の称を受けて、大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉なりと人にも言はれ、某 省に出仕して、故郷なる母を都に呼び迎へ、楽しき年を送ること三とせばかり、官長の覚え殊 なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べよとの命を受け、我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十を踰 えし母に別るゝをもさまで悲しとは思はず、遙々 と家を離れてベルリンの都に来ぬ。
さて、ここから読み取れるこの主人公の設定は?どんな人物なんでしょうか?
それでは考えてみてください。
どこまで考えられますか?
名前は太田豊太郎
まあ、当たり前ですね。
成績優秀!!にもほどがある!
「
要は、東大コースだってことですね。そこでずっとトップだった。
すごいなあ、じゃないですよ。
「十九の歳には学士の称を受けて」ってわかります?「学士」というのは4年制の大学を卒業するときの称号ですね。つまり、19歳で大学卒業したんです。そう、「飛び級」。それは、「大学の立ちてよりその頃までにまたなき名誉」なんです。大学始まって以来の快挙。そして、ここは東大。
つまり、東大創設以来の史上最高の天才。という設定です。
漫画です。漫画でもこの設定ならギャグ漫画です。何事もやりすぎてはいけません。
でも、「舞姫」はこんなふざけた主人公だっていうことなんですね。
母一人子一人の厳しい家庭
お父さんを早くになくして、そして、一人っ子。母一人、子一人の家庭です。
旧藩の学校に通っている、とありますから、武士の出身でしょう。「厳しい教育」をした、というのも納得がいく話です。これで、豊太郎くんは天才に育つわけですね。
「五十を越えし母」という言葉がありますね。豊太郎くんは、19歳で卒業して3年ですから、22歳ですね。
ということは、当時としてはずいぶん遅くに誕生した子どもですね。おそらく、待望の第一子、しかも長男。家の期待を一身に背負っている、ということでしょうね。
大学法学部から某省へ、そして留学。
東大法学部、ということは間違いありませんが、さて、何省でしょうか?当時の時代背景を考えてみてください。ピンときませんか?彼が留学するのはドイツです。しかも、このすぐあとに出て来ますが、彼は「政治家」になりたいらしい。
おそらく、法務省ではないかな。ドイツと言えば、帝国憲法のもとですね。その他の法整備をドイツを参考に行っていく…。向こうについてからも、そういう問い合わせを上司からされていますね。
今までは
瑣々 たる問題にも、極めて丁寧 にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連 りに法制の細目に拘 ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所 にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗 を嚼 む境に入りぬ。
というわけで、目標は「政治家」。そして、日本を背負って彼はドイツに行くわけです。
名をあげ、家をおこす!
そして、大事なことです。彼は、「わが名を成さんも、わが家も興さんも今ぞ」という、夢と希望に満ちあふれた気持ちを持っているのです。
検束に慣れたる勉強力と模糊たる功名の念
こうして彼はドイツに降り立ちます。まず、考えたいのは、彼の野心です。
「模糊たる」功名の念
功名の念はわかります。
名をあげたい、家を興したい、ということですね。それがどうして「模糊たる」なのか。曖昧模糊なんていう風に使いますから「ぼんやりとした」というようなことですね。
まず、彼自身が書いているところを探ると、
大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の
講筵 に列 ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。
そうなんですよね。「政治家希望」っていうのはわかりますが、「政治家養成コース」みたいななのがあると思っていたんでしょうね。でも、そんなのははくて、どの授業をとっていいかわからなくて悩んだ、っていうようなこと。
彼自身には、国をこうしたい!みたいなことはなくて、ただ政治家になりたい!ということでしょう。
もうちょっと進めます。
さっき、「五十を越えし母に別るるをもさまで悲しと思はず」というのがありましたね。なぜ?母一人、子一人の家庭です。どうして悲しくないんでしょう?
おそらく、それこそが、お母さんの期待だからですね。お母さんの念願で、それを背負って彼はドイツに行くんです。もっといえば、自分の希望ではない。
名前をあげたいし、家を背負いたいけど、自分で決めたわけではないし、やりたいことがあるわけでもない。
だから、彼は、「模糊たる功名の念」と書くんですね。もうひとつ書くなら、書いている豊太郎はそのことを知っているし、自虐しているともいえます。
検束に慣れたる勉強力~「徒なる美観」のウンテル・デン・リンデン
もうひとつの「検束に慣れたる勉強力」を考えます。
検束というのは我慢ということですね。つまり、我慢して勉強する力を彼は持っています。これで彼は成績優秀になったわけです。
まあ、すごいですね。
これと同じフレーズが、
されど我胸には
縦 ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心をば動さじの誓ありて、つねに我を襲ふ外物を遮 り留めたりき。
という部分でしょう。
この言葉からみておかないといけないのは、ひとつは彼の我慢して勉強する力、ではあるんですが、もうひとつは「興味がない」のではないということ。
たとえていうなら、「かわいい女の子は受験勉強の敵」「スマホとゲームは受験の敵」という人は「かわいい女の子」や「スマホとゲーム」が気になっていることの裏返し。世の中には、興味がない人もいるわけで、豊太郎くんはそうではない。
今回、豊太郎くんが気になっているのは、「あだなる美観」、つまり、ウンテル・デン・リンデンの景物を無駄なもの、と見なしているので、ドイツの大通りの景色ですね。
余は
模糊 たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持ちて、忽 ちこの欧羅巴 の新大都の中央に立てり。何等 の光彩ぞ、我目を射むとするは。何等の色沢ぞ、我心を迷はさむとするは。菩提樹下と訳するときは、幽静なる境 なるべく思はるれど、この大道髪 の如きウンテル、デン、リンデンに来て両辺なる石だゝみの人道を行く隊々 の士女を見よ。胸張り肩聳 えたる士官の、まだ維廉 一世の街に臨めるに 倚 り玉ふ頃なりければ、様々の色に飾り成したる礼装をなしたる、妍 き少女 の巴里 まねびの粧 したる、彼も此も目を驚かさぬはなきに、車道の土瀝青 の上を音もせで走るいろ/\の馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる処 には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて漲 り落つる噴井 の水、遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし交 はしたる中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この許多 の景物目睫 の間に聚 まりたれば、始めてこゝに来 しものゝ応接に遑 なきも宜 なり。
要は田舎者が大都会に来て、見るもの全てが 「すげー」ってなるあの感じ。ただの道もただの建物も、そこにいる人も全てが、すごいものに見える。
まず、大通りが、まっすぐのびている。車道の横に歩道があって、そこをカップルの男女が歩いている。カップルで歩くことに驚き、おしゃれなことに驚き、かっこいい、かわいいことに驚く。アスファルトの上を、音もしないで走る馬車。日本だったら、でこぼこ道で、きっとすごい音がしてたんでしょうね。ビルディングが空をおおい、きれているところには噴水がある。凱旋塔、神女の像はきっと教科書に写真が載っていると思います。ウンテル・デン・リンデンの写真も、当時の明治の日本と比べていかに洗練されているかを見てほしいんですよ、本当は。
たくさんのすごいものが、このウンテル・デン・リンデンという、ちょっとした場所にあるから、誰かがやってきたら、接待するのに時間が足りなくなるくらいだ、と豊太郎は書きますが、ぼくらからすれば、噴水と凱旋塔の神女の像ぐらいしか観光スポットがないように見えますよね。
でも、この風景は、「あだなる美観」。「されど我胸には
検束に慣れたる勉強力で、彼は、「我名を成さむも、我家を興さむも、今ぞ」と、母の期待を、国の期待を一身に背負って、学問に励むのです。
そして、政治家へ!
彼のやるべきことは、官長から頼まれた仕事をこなすことと、大学に通うことのようです。
余が
鈴索 を引き鳴らして謁 を通じ、おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし普魯西 の官員は、皆快く余を迎へ、公使館よりの手つゞきだに事なく済みたらましかば、何事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ばしきは、わが故里 にて、独逸、仏蘭西 の語を学びしことなり。彼等は始めて余を見しとき、いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬことなかりき。
さて官事の暇 あるごとに、かねておほやけの許をば得たりければ、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を簿冊 に記させつ。
ひと月ふた月と過す程に、おほやけの打合せも済みて、取調も次第に捗 り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し留めて、つひには幾巻 をかなしけむ。大学のかたにては、穉き心に思ひ計りしが如く、政治家になるべき特科のあるべうもあらず、此か彼かと心迷ひながらも、二三の法家の講筵 に列 ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。
ここでも彼の天才ぶりが発揮されます。
「おほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし
彼は、日本で、ドイツ語、フランス語ができているんですね。「どこでいつの間に、ここまで勉強することができるのか」と聞かないことがなかった。そして、大学では、政治家という夢に向けて、とにかく法律の授業をとるようにしていく。
このように豊太郎の留学生活は始まっていき、3年の月日が流れていきます。
では、今日はここまでです。