国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

読むだけ現代文! 都市と消費 資本主義を考える

読むだけで現代文を得意にしようというシリーズはメディアから都市というものを考えています。今日は、そこから「消費」について話を進めます。私たちの消費と欲望について考えましょう。

ここのところ、社会科学系の分野に入ってきています。

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現代的なテーマではありますので、商学部、経営系などとともに、実はセンター試験・共通テストなどの、全員が受けるタイプの入試方式でも、よく出て来る分野になっています。だんだんと経済経営よりの話にはなっていきますが、そういう意味ではみんなが理解できるといいですね。

 

都市の均質化は「消費」と関連する

前回あたりで、都市は「均質化」するんだという話を書きました。近代化、グローバル化の中で、世界がひとつのものになっていき、いろいろな価値観が均されていくわけですね。

さて、これを別の側面から見ていくと、「消費」の問題が出てきます。「消費」というのは、ある意味で近代的な行為なんですね。

そんな風に書くと、「いや、太古の昔だって、消費ぐらいするでしょ!」というつっこみがはいりそうですが、それはまさに、生きるために物を消費していたわけです。

で、そのあとは、農耕などによって、定住がはじまります。このころになってくると、「生きるための消費」だけではなく、確かに近代的な消費が始まってくると思います。「貨幣」というものが媒介しますが、生きるために物を持ったり(物を持つことも消費ですが)、消費したりするだけでなく、持つこと自体、消費すること自体に価値が置かれてくるわけですね。

定住によって「貨幣」が生まれ、「富」が生まれる。そうしていくうちに、価値があるものに高い価値が置かれるのでなく、「価値があること」に価値がある状態になる。

う~ん。わかりにくいですよね。

たとえば、宝石のようなものがあったとします。これ自体に「価値があるのか?」という問いも実は非常に難しいものなのですが、「価値がある」とします。だから、みんなが宝石を欲しがるわけですね。

でも、そうしているうちに、「宝石」がほしいのではなく、「価値があるもの」をいっぱい持っているということがほしいというような状態になるわけです。

宝石を貨幣とか紙幣とかに変えたらもっとわかりやすくなります。あんなのただの紙ですね。しかも使い道のない。コインだって、ゲームセンターのコインとか、100円ショップで買えるおもちゃのコインとかと何が違うんでしょう?

でも、欲しいんですよね?現代はキャッシュレスですから、きっとどこかにはあるんでしょうけど、別に貨幣とか紙幣とか、そんなものを持っているわけでもないし、そのものが欲しいわけでもない。そういったもので表される「お金」「資産」がほしいんですよね。

だから、貨幣っていうのは、もともと必要であった「モノ」を手にいれるための媒介する役割だったのに、いつのまにか貨幣そのものが「モノ」のように欲しがられるものになっていったわけですね。

たとえば、欲しいモノをあげるとすると、車とか、家とか、iphoneとか、そういう風にならぶはずなんだけど、そこに、「お金」っていうのが平気で並べるんですね。裏側からみると、車も家もiphoneも、本当にそのモノが欲しいのではなく、「お金」であらわされる価値として欲しがっているともいえるわけです。

いつの間にやら、モノの価値を示していたはずの貨幣が、モノと同様なモノになってしまったという雰囲気。ぼくらは、いつの間にか、モノの価値を示すだけのなんでもないものを求めるようになったわけです。

こうしたこと自体が、人々の生活、住み方、つまり、都市のありようによって、引き起こされたわけです。

近代以前は、確かに貨幣によって、モノをやりとりしていたとしても、貨幣を媒介しない部分も確かにたくさんありました。

たとえば、生活することを考えてみてください。本来、貨幣によって生活が成り立つ部分はどういうものだったのでしょうか。裏を返せば、貨幣を必要としないものはどういうものなのでしょうか。

親子の関係とかが典型ですね。必ずしもお金で動くわけではありません。自給自足をイメージすれば、そこで得たものもお金を必要としていません。地域の集まりに参加して、みんなで掃除をしたり、災害に備えたり…というようなこともお金が関わりませんね。場合によっては、教育的なこともそう。近代的な学校で、職業としての先生が誕生するまでは、地域の人たちの中で教育が行われていたはずです。

つまり、昔は、人と人との関係の中で、人と人との信頼関係の中で、お金を介さずに、地域の政治的なことに参加していたわけですね。もっと踏み込んでいけば、街並みとか風景とかいうものがありますが、これだって、必ずしもお金のためにあるわけではなく、もともとは、人と風景の関係なのであって、その中に人がいたわけですね。

わかりにくい?じゃあ、たとえば、あなたが歩きます。なぜ?たいていは、「どこかに行くため」ですね。だから、街並みとか風景とかは、「意味のないもの」になりませんか?電車に乗ると寝ちゃったりとかね。だから、別に風景なんてどうでもよくないですか?景観を壊すものに「看板」がありますよね?あれって、「目的」が消費でしょ?

だから、景観が壊れるわけですね。

そうすると、景観を取り戻そうとするわけですが、その目的が「観光客を誘致するため」だとすれば、やっぱりそこには生活はないわけです。だから、そういう景観の整え方をした街並みは結局、魅力を感じない。なんだか作られた、人から切り離された街のように見える。

逆に、たとえば昭和レトロな街並みには、看板とかネオンとかがあります。これは消費のためのものなんだけど、ここに商店街のおじさんと値引き交渉したとか、顔覚えてもらって声かけてもらったっていう部分が入ってくると、看板でさえ、景観になるんですね。で、昭和レトロ狙って、レトロ風な看板作っても、結局そこに人との交流がないと私たちは、おもしろみを感じない。インスタ映えする写真撮ってSNSあげて、ハイ、おしまい。つまり、消費して終わりです。すぐに飽きられて次の風景、景観を消費します。

本来、わたしたちは、移動するだけであったとしても、その街並みとか景観から何かを得たり、あるいは近所の風景には、あなたの生活のあとがあったりしたわけです。空き地に基地をつくったり、壁にボールをぶつけてあとがついていたり、だから、本来誰かの場所なんだけど、そこにみんなの痕跡があって、そういう風に街はできていたんですけど、今や、そこは誰かの場所で、傷つけたり、勝手に何かを置いたりしてはダメですから、どんどん関わる場所はなくなって、私たちもそこに興味を抱かなくなる。移動の最中はやっぱりスマホですよね。

というわけで、都市での消費によって、街並みも変わり、私たちと都市との関わり方も変わり、なにもかもが「消費」されるために存在しているかの状況になっていくわけですね。 

 

消費と「サービス」の関係

味方を変えると、都市での人と人のかかわりは、お互いに耐えがたいぐらいの影響を与え合う、面倒くさい、重いものではなくなりました。その一瞬一瞬だけ、関わるものになったわけですね。

すべてのものが「消費」されるんです。これが「サービス」。そこで行われる行為は、関係とか信頼とかではなく、ただ「貨幣」に置き換えられる一義的な価値なんです。

それ以外はいらない。

商店街のおじちゃんと知り合いになる昭和の風景は、現代では余計なものです。重いし、面倒だし、そもそも重要なのはモノを買うこと。

だから、コンビニの店員とか、スーパーのレジを打つ人の名前覚えて、プライベートを聞こうとしたら、気持ち悪がられて通報されかねません。逆もそうでしょ?いつも買っていたら、いつの間にか名前を憶えられて、買うたびに「今日どこ行くの?」とか「髪型変えた?」とか「今日の服かわいいね」とかいう店員がいたら、気味が悪くて、炎上しかねません。今ならテレビニュースにでもなりそうです。

だから、私たちは商店街よりもコンビニやスーパーを希求しているのかもしれませんね。

ここで、私たちが媒介する人に求めるのは、余計なことが介在しない、「サービス」というわけです。この場合は「売ってくれる」ことだけ。袋につめたり、商品の場所を教えてくれたり、あたためたりね。それ以外は要らないんですね。

モノが介在しないもの、たとえば教育も今や「サービス」になりました。

これ、おそろしいことです。

私たちは、「先生」がどんな人があるかは関係がないんです。私たちが欲しいのは先生という「人」ではなく「サービス」なんです。税金を払っているから、学費を払っているから、それに見合う「サービス」が欲しいんです。「わかりやすい授業」や「補習」や「指導」がほしいのであって、先生という「人」と関係を作りたいわけではないんです。

たとえば、いじめの問題とか、面倒なことがいっぱりありますよね、学校には。じゃあ、学校という場をなくして、たとえばWebとかでいい授業をとって、それでよくないですか?クラス解体して、とりたい授業をどんどんとる感じにしたらよくないですか?

技術的な問題をおいといて、それが可能になるとしたら、それもありかな…なんて思い出しているのは、私たちは「サービス」を欲しているということです。最近、学校の教育現場の労働環境が「ブラック」であることが知れ渡ってきました。なぜ、今まで問題にならなかったのか?それは意外と単純で、そこには人との関係があったからだと私は思っています。もっというなら、先生に対する尊敬。先生は絶対、という感じ。多少のミスが先生にあっても、何があっても、「先生にはよくしてもらっている」という感じ。これって、「関係」であって、先生をボランティアのように感じているからなんです。やってもらえるだけでありがたい。これがボランティアに近い感覚。

でも、ここに「サービス」の概念が入ってきました。お金を払っているんだから、それに対応する対価としてのサービスを受け取る権利が私たちにはあるわけですね。

間違ってません。正しいですよ。でも、そうなると、先生にも言い分がでてきます。朝から晩まで、休日返上で残業手当も休日手当もなく働かせて、で、ちゃんとやれって、そんなに私たちは、お金をもらっていない。私たちはもらっている分以外はやる必要ないじゃないか、っていうことです。

ね。これが、サービスとしての教育。

現代において、重要なのは、関係とか人とかでなく、お金に対して何を得られるか、ということなんです。都市での人間関係とはまさにこういうもの。裏を返せば、対象は誰でもいい。誰かでなければだめ、などということはなく、お金とその対価にあるサービスは置き換えが可能で、そこを媒介する人は、無色透明であることを、むしろのぞんでいるわけです。

商店街より、スーパー。実際に会うより、メール一本。お金はらうからやってよね。

教育から福祉にいたるまで、下手をすれば恋愛まで、いまや消費の対象となっているのが、都市という場所なのです。だから、都市自体も、どこでも同じなんですね。

 

近代日本が「消費」をはじめるために~廃仏毀釈

さて、では近代日本はどのようにして、「消費」をはじめるのでしょうか?そんな話の一つに「廃仏毀釈」というものがあります。なんだか宗教政策程度のように聞こえますが、こういうことのひとつずつが、近代を作り、「消費」をはじめるんですね。

近代というのは、基本的には細分化することです。そして、そこにひとつの価値を見いだしていくんです。本当は、モノも場所もいろいろな意味を持つんです。人によって違うというか、いろんな可能性があるというか。でも、それを切り刻んで、ひとつの価値観にして、要るものと要らないものにわけるんです。

それが、廃仏毀釈とどう関係があるんでしょうか。

これは中沢新一さんの本からです。

近代において、まず、日本は宗教を整理します。八百万の神の国ですから、いたるところに神様がいらっしゃるわけですね。たとえば、「となりのトトロ」だってそうでしょ?さつきちゃんとメイちゃんとお父さんが、木に手を合わせてますよね。トトロがその象徴みたいなもんです。家には「まっくろくろすけ」がいましたよね。あれだって神様みたいなものでしょう。人によって神様がちがうかもしれないし、いたるところにいるんです。

廃仏毀釈というのは、基本的に国家神道をつくるっていうことなんですが、帝の系譜につながる神様を頂点として、そこにつながる神様だけを国が秩序立てて整理したわけですね。

当然、トトロみたいなのは神様としては邪道です。国がそれを決めたんですね。

日本の場合、いたるところ、つまり自然の木々や山に、森に、川に、海に神様がいらっしゃったわけです。そうすると手は出せませんね。だって神様がいるんだから。でも、この施策によって、ちゃんとした神様がいるところ以外は、「神様はいなくなった」んです。

そうすると…そうですね。神様さえいなければ切り刻むことができますね。開発です。本当は「場所」には人との関わりがあります。それは人それぞれで多様なもの。その多様な関わりがあると、開発はできません。だって、そこにはそれぞれの人の思い入れがありますから。

そういう思い入れみたいなものが、「神様」の序列というようなもので、そこが神様のいないただの土地になるんですね。

で、開発が始まる。木を材料として使おうとしたり、その木がなくなった土地を利用して、そこにいろいろなものを建てたり…。もともとは、その場所、場所で、それぞれの人との関わりがあり、ある人にとっては、そこが特別な唯一の場所なんですね。でも、ここからは、それはただの土地。条件が同じなら、どの土地も同じ価値を持つわけですね。ここでいう価値っていうのは、貨幣ですね。

近代の資本主義は、こういう形で力を持ち出すわけです。

「欲望」はモノによって作られる

では、私たちの欲望というものは、本当にモノがほしいというものなのでしょうか。実はこの欲望はそもそも幻想的に作られたものなんですね。

まずは、欲望がモノによって作られる、ということを説明しましょう。たとえば、私たちが忘れ物をしたとします。どうしますか?

「電話をかけてもってきてもらう」「メールをして届けてもらう」「タクシーを呼んで取りに帰る」

いろんな答えが出て来ますよね?これ、モノによってできた欲望なんです。

たとえば、今から1000年前の、平安時代の人が、「電話」「メール」「タクシー」なんてことを想像するでしょうか?「いや、だから、そういう欲望がモノを生み出したんでしょ?」あなたはそういうのかもしれません。

じゃあ、どうしてあなたは、今、「どこでもドアで取りにいきたい」と思わなかったのでしょう?あるいは、そういう欲望によってどこでもドアを作らないのでしょう?

実は、私たちが「〇〇したい」と思うのは、目の前にあるモノによって、なのです。もし、どこでもドアがありふれた世界がやってくれば、そのときに「電話して持ってきてもらう」という欲望は消え失せるわけですね。

たとえば、わたしたちの身の回りには便利な電化製品や機能がいっぱいあります。でも、本当に私たちの欲望がそれを生み出したかといえば、実はそうではありません。思わず生まれたその製品や機能を、消費者に「必要」と思わせることが、マーケティングの役割でもあるんです。

何かができる。つまり、モノができる。そしたら、それを必要にさせる。

では、私たちはどうしたら、それを「必要」だと思うのでしょうか。それは、「みんな」が「必要」だと思ったとき、「必要」になるんですね。

モノができる。そしたら、今度は「みんなの必要」を作る必要があるわけです。ぼくらは、「いいモノ」「おいしいモノ」を求めるのでなく「みんなが求めるモノ」を求めるわけですね。

こんな話は、たとえば、

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とか、漱石の「こころ」の 

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あたりで説明しました。

私たちの心は常に空虚で、人が求めると自分もほしくなる、という動きをするわけです。だから、「人気」であるとか「行列」ができるとか、そういうモノがほしいんです。「おいしい店に行列ができる」のでなく、「行列ができる店がおいしい」ということになります。

たとえば、テレビで行列で手に入らない限定スイーツの話題をやっていたとします。食べてみたいですよね?それが全く同じ値段で、全く同じ品質で、人気だから全国のコンビニで簡単に買えるようになったらどうなるのか?前の状態なら、手に入ったらSNSあげるかもしれませんが、後の状態ならやります?ていうか、買います?

味、ぜったい違いますよね?なかなか手に入らない状態なら「すごい!おいしい!」だけど、コンビニに大量に並んでいて毎日いつでも買えるなら「ふうん。こんなもんかあ」です。 

考えてみれば、寿司がおいしいのも、ウニを食べたいのも、キャビアやフォアグラを喜ぶのも、高いから、みんながほしがるからではないですか?大学に行くのも、職業も、趣味も、女の子を選ぶのも、男の子の顔の好みも…。

中には、「いや、ぼくはみんなとは違うから、そんなものは選ばない」という人もいます。でも、そういう人は「みんな」と違うことに価値をおいている可能性がありますから、だったらやっぱり「みんな」に左右されているともいえますね。

現代において、何かが価値があるのではなくて、価値があるから価値がある、というような状況に陥っているのです。

私たちは都市で人と関わりをできるだけ避けて、個人として生きているようで、結局はむしろ、見えない他者に縛られているような状態になっているともいえます。人と関わりを失い、場所と関わりを失い、自由にどこでも同じように生きているんですが、でも、それはどうしようもなく知らない他者の欲望に左右されながら縛られて逃げられなくなっているんです。