読むだけで大学受験の現代文を得意にするシリーズは「メディア」を扱っています。メディアが自己を作る、という話の続きです。今日は各メディアごとの特徴と変遷を考えます。
前回は、手書きから活字、そして、テレビ、ネット、SNSという変遷を追ってきました。
今日はその続きです。過去の入試問題で出題されたことのあるテーマなどをメディアごとに解説します。
音楽とメディア
まずは、一番出題頻度が高いと思われる音楽の話です。
「祭り」と音楽~コンサートホール
音楽はもともと非日常的なものでした。簡単にいうと、録音機器がない状態を考えてもらえればわかると思います。大衆のレベルでは、「歌う」ということを除けば、そう簡単に音楽に親しむこともできないのです。なぜなら、「音楽を聴く」とか「演奏する」ということは、「生」でなければいけない。
ちょうど、活字印刷が生まれる以前の「文字」というものに似ています。そもそも、特別な場所と時間、非日常であり、「祭り」であり、そういう場所でだけ、音楽があったわけですから、大衆に音楽は入り込めません。
というわけで、音楽は「非日常的な空間」と「非日常的な時間」に特別に用意されるものでした。
イメージするなら、ラジオもテレビもCDもipodもなく、音楽を聴こうとすることです。それは、特別な空間、たとえば、コンサートホールだけで音楽が提供されることになるわけですね。
そうなると、どんなことが起こるかというと、原則的に作曲家や演奏家が自分の世界観を作り、それを観客に提供する、ということが第一になります。おもしろいもので、音楽の場合、もともとが「活字印刷」に近いんです。
作曲者や演奏家などが伝えたい形式で、伝えたいように演奏の場所や方法を選び、そこにいる観客は、その通りに一方的に受け取るしかないわけですね。
音楽にはまさに「思想」がある。それをきちんと解釈するのが聴衆の正しいあり方です。クラシック音楽などは、まさに作曲家の思想に、演奏家も、聴衆も、正しく迫ることを求められるわけですね。
レコードとオーディオセット
そこから潮目が変わるのは、録音機器の登場によります。
これによって、音楽は聴衆に自由な聴き方を許すことになります。聴きたいときに、聴きたい曲を聴けるようになるわけです。
しかし、現代を生きる受験生には、まず初期段階としての「レコードプレーヤー」を理解してもらわなければいけません。
確かに、録音機器の登場によって、好きなレコードを選び、好きなタイミングで聴けるようになりました。
しかし、録音機器の最初は「レコード」です。わかりますか?ドーナツ盤なんて呼びますけど、針を落として、レコードが回るんですね。それを再生するためには、アンプとか、スピーカーとか当たり前ですけど、必要で、かなり大がかりなセットだったんです。
これ、結構、音楽がまだ、演奏家や作曲家の「思想」を維持できる。音楽を聴くためには、家の中のある特別な場所に行き、準備を整えて、レコードに針を落とす。A面再生にだいたい20分から30分。この間、落とした針が回っているわけですから、レコード盤を傷つけるリスクを背負って、多少、音飛びしてもよければ曲は省略できますが、そうでなければ、早送りとか曲指定して再生とかできないんですね。
アルバムなんて呼びますけど、1曲目からコンサートのように、決められた曲順で聴いていく。A面が終わるとインターミッションが入って、そして、後半のB面が始まり、また30分弱聴き続ける…。1時間程度ですけど、作曲家や演奏家の提案する曲順で、やっぱり聴衆は付き合わなければいけない。アーティストの提供する曲順やメッセージを、ある一定時間つきあって受け取る聴き方が、まだ残ってはいたわけです。
ここから大きな二つの変化が訪れます。
ウォークマンの登場~携帯型音楽機器の登場
一つ目は、音楽がより個人のものになっていくという変化です。
たとえば、「ラジカセ」と呼ばれる機器が普及したことにより、音楽プレーヤーは家に一台あるかという状況から、「場所」「部屋」に一台になっていきます。こうした変化だけでも、家のオーディオセットで、みんなで聴く「音楽」から、個人がそれぞれ好きな音楽を楽しむものへと変化したわけです。
そして、当時でいえば、カセットテープが出て来ます。このことによって、思想があったアルバムから、自分の好きな順番に聴くように、デザインし直すことができるようになりました。
そして、「ウォークマン」から始まる携帯音楽プレーヤーが当時し、ヘッドフォンで聴くスタイルが出ることにより、ついに音楽は、場所を選ばなくなりました。
さらにこの音楽スタイルは、私たちをその場所から自由にする、場所から解放される「個人」を作り出しました。たとえば、会議のような自分の身体が拘束される場所であっても、こっそりとヘッドフォンをつけて、自分の好きな空間に作り替える形になっていくわけです。だめですけどね。授業中だって、こっそり自分だけの空間にしようと思えばできるわけです。だめですけどね。
こうしたことが新たなメディアによって、強化されていきます。
CDが登場します。曲を飛ばすことが一瞬でできるようになりました。聴きたい曲を聴き、聴きたくない曲は飛ばして聴かない。
ipodを代表とする携帯機器によって、ついに音楽自体がバラ売りされるようになりました。そもそもの「アルバム」が存在しない、つまり、全体としてのメッセージが消えることも多くなりました。
こうした変化によってか、ベスト盤のようなアルバムや年代ごとのヒット曲のような、バラ売りすることをメッセージにするような売り方も増えたと思います。
聴きたい人が聴きたい音楽を、アーティストにこだわらずに、いつでも、どこでも、聴ける。
こうした変化によって、音楽自体の作られ方も変わってきているはずです。
テレビによる音楽の提供
もうひとつの音楽の変化を語るために必要なのは、テレビ、すなわち映像との関係です。音楽は、録音機器の登場以降、たいていは「音楽そのもの」が評価の対象でした。しかし、テレビで音楽が流れるようになって以降は、音楽以外の要素も、「思想」の中に含まれるようになります。
「思想」なんていうとおおげさですか?メッセージ。まだわかりにくい?
私たちが、何を求めているか、という部分に音楽以外の要素が含まれてくる、ということです。
たとえば、見た目、ルックス。「アイドルなんて…」といったら、怒られるかもしれませんが、見た目、大事じゃないですか?ダンスとか、衣装もそうですね。バンドとかアーティストと言われる人だって、「かっこよさ」みたいな世界観がありますよね?
イメージビデオのようなことでもいいです。見た目で勝負しないから、かわりにPV出てくれるタレント使ったりとかね。自然とか、風景とか、夜景とか、そういうイメージを借りることもありますよね。
音楽は、こうしたメディアの登場によって、「音楽だけ」という「思想」を壊されることになるんです。作曲家とかアーティストの純粋な「思想」って、うそっぽくないですか?現代的な好きなアーティストじゃないですよ。テレビがないころですから。そうすると、バッハとかモーツアルトとかベートーベンとかです。ほら、「思想」ぽくなるでしょ?これは、純粋な「音楽」のイメージから、「思想」が生まれてくるわけですね。よく考えてみれば、「音楽」だけから「思想」というか、作曲家の「人間」に迫るって無理がありませんか?
でも、現代の皆さんが好きなアーティストには、見た目とか、ファッションとか、ダンスとか、生き様とか、なんだかそういうものをひっくるめて、「音楽性」なんですね。だから、そういう「音楽だけ」からイメージされた嘘を暴いてくれる。
たとえば、すっごくかわいらしい、POPな音楽をやっていて、どんなにかわいらしい女の子なんだろうって思ったら、実は毛むくじゃらのおじさんだった、みたいに、「幻想」をあばいてくれるんですね。
「音楽だけ」だと、「美しい」「かわいい」
「かっこいい」といったイメージが勝手に作られる。音楽で人間が決まっていく。ベートーベンとかそうでしょ?
でも、じゃあ映像が入れば「幻想」でないかと言えば、それは違いますよね?それは前回のテレビの話と一緒です。編集もできれば演出もできる。毛むくじゃらのおじさんが、イケメンに演じさせることもできれば、アイドルをPVに起用することもできるわけで、新たな「幻想」生み出すんですっていうのがセンターで出た「聴衆のポストモダン」ですね。
「個人」はメディアをコントロールしているか?~教育とメディアそのもの
さて、こうして考えてみると、活字や本と違って、私たちは音楽機器の進化によって、少なくとも、受けるだけでなく、主体的に音楽を作るというか受け取るという作業をしているように感じます。
しかし、本当にそうかといえば、なかなかあやしい部分があります。なぜなら、私たちが受け取る、議論する音楽は、ポップスであり、それはクラシックの流れをくむ西洋音楽の流れだけだからです。雅楽(邦楽)をはじめとして、世界には多様な音楽があります。でも、私たちは、クラシックから始まったポップスへと続く音楽だけを音楽と受け取っているふしがある。別にジャズでもラップでもなんでもいいんですが、五線譜で表され、クラシックから始まる楽器で演奏されるものを「音楽」と定義するふしがあるんですね。
これはいつ、どうしてそんなことになったのか?おそらく、ここに力を発揮しているのが、「教育」と「メディア」です。「教育」というのは学校のこと。学校の「音楽」が、この西洋音楽を基準としているわけです。楽器にしろ、五線譜にしろ。そして、メディア、つまり、ラジオやテレビやネットや、そういったところから流れる「音楽」が、クラシックから始まるポップスへと続く音楽だけになっているわけですね。
この教育とメディアを通じて、ある定型にはめられた音楽を私たちは受け取っているわけで、実は多様にはならない。これを、個人それぞれがネットを通じて発信したところで、この枠組みを強化することにしかならないんですね。
こんなことが音楽の流れであるんです。
おそらく「グローバル化」なんていいながら、世界中の音楽はクラシックに源流を置く音楽に一本化されていくんですね。
三味線も琴も和太鼓も、きっとクラシックやポップスと同じように演奏する方向に巻き込まれていくわけです。
ゲームと私たち
さて、今度は私たちに身近なもうひとつのメディア、ゲームを考えてみましょう。
マクルーハンだったら、ゲームをどう評するのだろうか、なんて思ったりしますが、ゲームができてくれば、やはり、私たちのありようが変わるような気がするんですね。
1980年から90年にかけて、ファミコンから始まるテレビゲームが根付いていきます。その当時、凶悪な少年犯罪が起こったときに、年老いた評論家の方々が「テレビゲームではリセットボタンを押すと、倒した敵が生き返る。子どもたちはゲームを通じて、人間が生き返るという幻想と現実が混同されているのではないか」というようなことを兵器で言っていたわけです。
こんなのゲームをやっていないおじいちゃんの戯言です。そんなこと言うなら、本読んで、映画見て、そうしたら現実で人が死んでも生き返ると思うのか、というような話です。いくらシューティングゲームで、人をばたばた倒したからって、それが現実で許されるなんて誰も思わないし、まして生き返るなんて思うわけがない。
じゃあ、ゲームは人間に影響を与えなかったか、といえば、必ずしもそうではない。ゲームは子どもの成長に影響を与えたけれど、当時ゲームをやっていなかったおじさま方は、どう影響を与えたかという理屈がわからなかったわけです。
これは、私はやはり「リセットボタン」が影響していると考えています。ゲームは習熟してくると、目的が、最高点であったり、最速タイムであったり、パーフェクトであったり、完璧な勝利であったりするわけです。
習熟してくればくるほど、最初のミスで、もうやる意味がないことが自明になる。1回のミスが、パーフェクトや最高を阻害するんです。
だから「リセット」する。やっても意味がないからです。
ゲームはそれを許す。ゲームをやった人ならわかりますが、リセットを押す前の「あー」というあの感じと、いきおいでボンとリセットする感じ。ゲームはあそこに人間をおくんです。
ところが、です。人生はリセットできない。4月に、教室で一目置かれようとふるまって、失敗すると、それを下手すると3年間ひっぱる。その失敗をもとに3年間過ごす必要がある。我慢しながら、復活を期すんですよね。
でも、今の子どもにはそれができないのは、ゲームにならされたからではないか、というのが私の仮説です。人生は、リセットできないなんていうのは当たり前で、ちょっとマイナスになっても少しずつ取り戻すのが当たり前だったのに、ゲームとリセットに慣れた私たちは、リセットボタンを押す勢いで、自分の人生をめちゃめちゃにしてみたり、「キレて」みたり、あるいはひきこもってみたりするわけですね。
現代のゲームはネットに移行してきました。スマホを中心とする「ガチャ」というあの仕組みに象徴される多くのゲームは、「完璧にコレクションする」という心理をついていると思います。完璧にコレクションするために、タイミングを逃さず、四六時中、ネットの中にいないといけない仕組みに、人は置かれます。これは、音楽の携帯プレーヤーに似ていて、現実にいながら、そこではない場所に人を置こうとする。こうした仕組みがゲームにはあって、そこに身をおくことで、私たちの有り様はやはり変化しているといえます。
ゲームに関しては、スマホ自体の存在とともに、ゲームそのものというよりは、ネットとの関係に移行してきていると思います。
電子書籍の普及
電子書籍の普及も、大学入試問題で見かけることになりました。慶応大学の文学部で出たのが一番印象的。
まず、実際にネットの中で、電子書籍が普及していく様は、よく「世界図書館」の実現という形で語られることがあります。アレクサンドリア図書館が、世界中の書籍の収拾を目標としていたわけですが、実際にはそううまくは行きませんよね?もちろん、すごいことではあるんですけど。
まして、活字印刷ができあがってから以降は、ありとあらゆる本があるわけで、そんなものを全て収拾する、なんていうことはできるわけがないわけですね。
慶応大学文学部ではここでふたつの方向の文章を読ませました。
ひとつは、電子書籍によって、世界図書館がかなり実現できるようになる、というもの。日本の作家達もここにのるべきだ、ということですね。
もうひとつは、これによって、今まで「活字」によって、取捨選択されていた本が、そのまま収拾されるというもの。たとえば、崩し字とか、異体字とかですね。よく、そば屋さんで、なんだか読めない「そば」ってないですか?あれ、ちゃんとした字なんですよね。活字にできないけど。ネットについていえば、「鴎外」になっちゃうじゃないですか?これを全部、スキャンしてそのままの形で残せるし、そもそも「活字」にして残す本とか、図書館に入れる本とかって、取捨選択があるわけで、そこに「政治」があるというんですね。これが電子書籍によってなくなると…。だから、むしろ古典を勉強する必要がある。
ちょっとずれるんですけど、このふたつって、対照的なんですけどわかりますか?
世界図書館に参加するには、書き手も読み手も英語になる必要があるんですよね。つまり、これって、英語を公用語化するっていう流れ。
一方、古典を勉強するって、日本語をきちんと、もっとしっかりやろうってことでしょ?
このあたりが読めないと、慶応の文学部は厳しいと思いますよ。
というわけで、電子書籍ひとつとっても、英語か日本語の古典かっていう動きを引き起こすわけです。メディアは人間のありようを変えていくわけですね。
携帯電話とスマートフォン
携帯電話がスマートフォンとなると、ネットが常に身近にある状況になるわけですね。SNSが最たるものです。ゲームであってもいいんですが、音楽やネットやゲームやSNSやありとあらゆるものが、手元にあり、そして、それが一人ひとつのものになっていくわけです。
これって、電話というものを通じていた他者がどんどんなくなっていく、ということです。
もちろん、ネットを通じて「他者」はいるんですが、この「他者」はとても身近な他者のはずです。この人がいつもつながっているわけです。
これも慶応大学の文学部で出ましたね。アノミー化、なんて呼んでいました。
たとえば、電車に乗って友達と帰るとしますよね。今までは、友達が電車から降りてくれば、友達とは別れて、そして電車に一人で乗るしかないんですよね。そうすると、広告見たりとか、周りの人見たりとか、あるいは寝るか、それしかないわけです。
そこにいるのは見知らぬ「他者」で、だから、過ごしにくいんです。
他者ばっかり。それじゃあ、なんだか過ごしにくいから、雑誌、マンガ、本、そして、音楽…だったわけですが、今や、ここにスマホが入ってきました。
そうなると、友達が降りても、「友達」がいるんですね、そこに。しかもあの画面の閉鎖性は、より周りの他者を謝絶する。
家でもそうですよね。家族がいても、家族ではなく友達。テレビではなく友達。
いつまでも、知っている身近な人とつながっている。下手すれば、目の前に友達がいるのに、それぞれが、目の前にいない「誰か」とつながっている、という状況にもなるわけです。友達と、お茶してるのに、それぞれがそれ以外の誰かとつながっている状況、なんていうのも今や普通です。
もちろん、ポジティヴにいえば、遠く離れた高齢化した家族の様子がわかったり、遠距離恋愛してもなんとかなったり、卒業して何年も会っていないのに、なんとなく様子がわかったりするようなことにもなるんですけどね…。
ネットと依存の関係~データダブル
さて、最後に、そこからネット依存を考えていきましょう。
たとえば、現実の人間関係は煩わしいとします。近代の「個人」の思想は、究極をいえば、他者は「しがらみ」であって、関わるのが面倒です。
こういう状況とネットはとても親和性があります。
欠席連絡が、電話じゃなくてメールだとか、恋人の告白や別れがメールだとか、いいとかわるいとか議論は別として、普通に起こるわけです。だって、会うのはめんどうだし、声が聞こえるのも面倒だし、メール程度が楽ですから。
そのうち、仕事も自宅でできるようになるかもしれないし、他者にできるだけ会わずに過ごすこともできるでしょう。
「ひきこもり」まで行ったと仮定します。とにかく他者に会うのがめんどうだと…。でも、ネットでは、他者と、この場合は、会ったこともないけどコミュニケートする他者、ということになると思いますが、まあ、ゲームかSNSかあるいはこうしたブログか、何かはわかりませんが、「つながり」があるわけですね。
さて、ネットでは、そこにあるデータが全てです。文章か、写真か動画か、とにかくネットにあげたデータが「あなた」ですね。
たとえば、私がリアルで授業をしたとすれば、1時間先生である私がしゃべり続けたとしても、座っている生徒が、しっかり聞いていれば発言はなくても、私は授業を続けられます。
でも、ネットでは、「反応」がないとやっていけない。たとえば、このブログなら「アクセス数」とか「コメント」とか「スター」とか「ブックマーク」とかですね。SNSはコメントか「いいね」です。とにかく反応がないと「無視」したことになるし、「無視」されたことになる。
SNSで考えると、本当は「読むだけ読んだけど、何もしない」ということもあるんですけど、それは書いた側からすれば「無視された」ことになる。だから、無意識に「反応」を求めるわけです。「既読スルー」なんて言葉はそういうことの象徴だし、そういう感じから、「自分が『いいね』したんだから、おまえも『いいね』しろよ」的な文化があったり、それを求めて「いいね」しまくったりするわけです。
で、もちろん、自分がそこに存在することを示すためには、投稿し続けないといけなくなりますから、あるいは反応し続けないといけなくなりますから、これがネット依存であったり、「〇〇疲れ」だったりするわけです。
自分がそうやって必死にあがいているのに、自分の投稿が無視されるのは耐えられない。繰り返しますが、本当は見られたけど反応がなかっただけで、必ずしもそれは無視されたわけではないんですが、そこに過剰になっていくと、「反応が絶対にあるような過激な投稿」になっていきます。これがバカッターとかユーチューバーとかの過激な投稿とかの心理です。
広がらないから過激になるわけだから、よく「どうして世界中に拡散することがわからないのか」という話がありますけど、そもそもの心理は「誰にも見られないから見られたい」わけで、「世界中」から遠いところにあるから、あれができちゃうわけです。
さすがにそういう危険がわかってきたから、24時間で消えるインスタのストーリーあたりでお茶をにごしているつもりが、それをきっちり掘り起こしてくれる「他者」がいるっていうのが、最近の問題。逆にいうと、反応がないように見えて、実は死ぬほど、反応はしないけど見ている人たちがいる、つまり無視なんてされていないっていうことの証明がされているんですけどね。
戻りましょう。
ネットがこれだけ身近になると、実は、ネットを通じたデータが「自己」になっている。あげた文章や画像などのデータが自分。反応が自分。無視されないためにも、無視しないためにも、そして自分がそこにいることを示すためにも、データをあげ続けないといけない。これがネット依存なんですが、それは、自分がここにいる自分ではなくて、ネットにいる自分になる。データこそが自分になる。
これが東大で出たやつですね。東大では「データダブル」と言っていました。
ひきこもって他者との関わりを絶ったつもりが、他者によって自己が作られている。結局、近代が作った「個人」は、他者との関わりからは逃げられず、他者との関係の形を変えただけで、私たちをしばりつづけるわけです。
メディアと現代文を問題集で勉強することの怖さ。
というわけで、メディアの話でした。
最後に、現代文問題集をどう使うか、という話です。
さんざん書いてきましたが、現代文は「わかること」と「問に答えること」です。
ここで、注意したいのは、現代文を問題集で勉強することです。解き方がわからないときに、解説の詳しい問題集で勉強するというのは、当然の話です。
メジャーですね。
でもこれは「解き方」の話。もうひとつ、こういう話がわかるかどうか、ということも大切なんです。
ところが、問題集というのは、更新されない。それこそ、20年前、30年前の問題集がいまだに「いい問題集」として売られているし、ネットでも紹介されています。もちろん、解き方ベースで考えれば悪いことではないんですが、こういう現代的なテーマを扱う大学は、20年前のメディア論なんてださないですよ。
今出すなら、スマホにSNSにツイッターにネット炎上にインスタ映えです。音楽だってipodになるに決まってます。
そういう文章をどう見つけるか?
実はそういうのに一番敏感なのは、赤本、つまり大学の入試問題そのもの、なんですね。あるいは模試の文章です。予備校もあてにいきますから。
教科書も古いですよ。
でも、入試テクニックとして、「赤本は秋から」とか「最新の問題は直前までとっておこう」なんてことが言われますよね。そうすると、内容がわからなくなることが出てくるんです。
だから、早めから入試問題を読んだり、あるいは滑り止め系の大学だけでも早くから赤本をやったり、そんなことが必要になるんです。
というわけで、メディアの話を進めてきました。商学部とか経営、経済学部などの社会科学系とかは、どんどん話が更新されてくるので、注意しましょう。