国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

読むだけ現代文! クリエイティビティ・笑いと「常識」のずれ

読むだけで、現代文に必要な知識を入れるコーナーは、文学部、国際系向けのクリエティヴィティの話です。常識とそのずれの関係を学びましょう。

読むだけで現代文の知識を獲得しようというシリーズです。

現代文キーワードのようなものを持たせる学校も増えていることだと思います。私もかなり早い段階で導入したので、これを持たせることは大賛成です。

でも、評論文、現代文の理解について大事なことは、語の意味を理解することだけでなく、考え方を知っておくこと。つまり、与えられた文章をわかろうとすることですね。ですから、ただ、用語を暗記するのではあまり効果がありません。是非、考え方を含めて、理解しましょう。

入試が近づいてくるからこそ、ざっとシリーズ読んでくださいね。

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クリエイティビティ=創造性はどこからやってくるのか?~「常識」とのずれ

私のブログで国語の受験勉強をしている人の中にも、一定数の割合で、創造的な仕事をしたいと思っている人もいるでしょう。技術開発も医療技術も教育もエンターテイメントも「新しい何か」を作りたい、見つけたい、というのは、クリエイティビティに関わる話です。

さて、そのクリエイティビティとはどうすれば、身につけることができるのか?

基本的な確認をすると、「誰も見たことのない新しい物」をつくることは比較的簡単なんですね。とにかくめちゃくちゃなものを作ればいい。

ファッションであるなら、とにかくめちゃくちゃに、きりきざんだり、はりつけたりすれば、それは「誰も見たことのない新しいファッション」になっている可能性が高いわけですね。

では、それを「おしゃれな」「ファッション」として認識できるかといえば、そうではない。当たり前です。たとえば、私がネクタイを頭に巻いて、靴下を耳につけて、ズボンを手につけてシャツをはいていたときに、「おしゃれ」と思うかといえばそうではない。

だからといって、流行にのったつもりでみんなと同じようなファッションをしていたとしても、それをおしゃれというかといえば、本当におしゃれな人からすると、「雑誌の真似してるだけだよね」みたいな感じになりかねません。

ファッションは難しい。

つまり、これは常に常識の把握によっているからです。

みんなと同じ、つまり常識の範囲にあっては、新しいものであったり、おしゃれなものであったりしない。

かといって、みんなの知らない、つまり、あまりに見たことのないものであるとするならば、それは認識されない。

だから、常識の範囲からは微妙にずれているけれど、でも、みんなの認識できる、知っている範囲のもので、つまり、ちょっとズレている感じが、おしゃれで新しいものになるわけですね。

 

「笑い」のクリエイティビティ

常識の「ずれ」というのがクリエイティビティだと書きましたが、その原理が色濃く出てくるのが「笑い」です。「笑い」というのは、意外性によって起こるわけですが、はじめて見る、というようなことも「意外」は意外なわけで、でも、それは驚くだけで笑いにはなりません。

知っている言葉が、知っている文脈や論理をはずれて、意外なところで、別の意味や展開をもたらされることによって、「笑い」が起こるわけです。

これ、実はものすごく高度な原理ですし、とはいいながらも、もしかしたらある種のパターンをはらんでいて、だから、AIとかに学習させることができる要素かもしれませんね。

というわけで、かつて東京大学が後期試験をやっていて、しかも、類別に小論文を課していたころ、文Ⅲではよく出ていたテーマでした。

「笑い」は「シェーマ=構図」のズレであるということ。つまり、ぼくらが無意識に共有している「常識」としての文脈をうまく裏切っているところにポイントがあるわけですね。

この裏切り方には、無数のパターンがあります。もちろん、私は「笑い」の専門家ではないので、プロから言わせれば、浅薄な、あるいは「違うよ」という分析になると思いますが、そのへんは、ただの国語の先生ということで、ご容赦ください。

たとえば、まず、ある構図を裏切ることによって、「笑い」が起きたとします。

すると、今度は、滅多に起こらないことを連続させるという「笑い」のパターンが生まれます。「ルーティン」のギャグですね。同じ事を続けないだろう、と思っているのに続けることで、そこにまた「裏切り」「ズレ」が起こるわけです。

しかし、これもせいぜい3回目ぐらいまでで、このぐらい続けると、観客は「ああ、また続くだろう」という方に構図がシフトします。1回目の笑いが、2回目には「同じ事が起こった」、3回目も「もう1回やるの?まさかやらないよね?えっ、2回だけでなく3回目も起こるのか!」だったものが、4回目の前には「ほら、またやるんでしょ?やるに決まっているよね?」みたいな感じになります。

だから、ここはそこを逆手にとって、裏切るわけです。「続くと思ったのに、続かないの?」でまた「笑い」が起きる。

さんまさんなんかは、これを自分だけのネタでなく、ゲストの答えを思うように引き出して笑いにしているところにすごさがあるんです。作り込んだネタなら、準備すればできますが、その「笑い」の解答をゲストから引き出すわけですから。

こういう目でお笑いを見ると勉強になります。序盤で、振っておいたものを、繰り返し早めに使って、裏切って笑いをとったり、序盤で、振っておいたネタをどんどん展開させて、もとに戻して裏切ったり…ということですね。

「となりの家に垣根が出来たってね。へえ~(塀)」という伝統的なネタですが、これ、知らない現代の生徒には、そもそも新鮮で笑いが起こったりします。

で、私たち世代からすると、これが自明になりますから、当然裏切らないといけない。このパターンが、

「となりの家に塀ができたってね。かっこい~(囲い)」だったんです。これ、最初はすごいって思いました。でも、今や、これも「常識」じゃないですか?だから、このふたつぐらいまで、展開させている前提で裏切らないといけない。

「となりの外国人が囲いを作ったってね。ウォー(ウォール)」あたりになると、意味がわからないけど、裏切った感じにはなる。

ここまでくると、最後は、もう何をしたってかまわない。「リフォーム」でオチをつけようが、普通の会話をしようが、「ダジャレをするだろうという常識」を「何もしない」「普通のこと」という裏切りも可能になるわけですね。

一発屋芸人の宿命

というわけで、この流れに宿命的に、性質的に乗れないのが一発屋芸人です。

この人たちは技術がない、とかそういうことではなくて、一時的には必ず飽きられる運命にあるのです。

つまり、たとえば、裸で出てくるパターンの芸の場合、実は、それだけで、十分裏切りが働いています。簡単だとかそんな意味ではないです。これだけでも、高度な裏切りです。変な踊りをしようが、裸に見せて実ははいていようが、おぼんで見えないようにしようが、いずれにせよ、しっかり裏切れるからおもしろいわけです。

でも、ぼくらはこの強烈な「裏切り」を期待しているわけで、だから、他のネタを期待しているわけではない。「新ネタ」はみたいけど、この強烈な「裏切り」のパターンを期待しているわけで、服を着ている、まったく違うネタがほしいわけではない。

だから、毎回、同じパターンを期待され、それを披露するしかない。

そうなれば、観客のズレは徐々に、予想通りになるわけです。ここをうまく利用して、違うネタにつなげたり、何かのチャンスに、全く違うネタで裏切ることに成功したりできれば息の長さにつながるんですが、そのチャンスをつかめないと飽きられて終わる。

もちろん、これさえも、つまり飽きられることさえもチャンスと捉えて、同じ事をやり続ける中でパターンのバリエーションを増やせると、結局それも裏切りとなって、息の長い芸人になることもできるわけで、実は世の一発屋芸人には、こうしてしっかりとポジションを確立している人たちもたくさんいるわけです。決して消えていない。

いずれにせよ、笑いというのは、構図の裏切りで、その裏切りがまた新たな構図を作り、それをまたどう裏切るかという問題になっていくわけです。

 

女の子には「箸が転んでもおかしい年頃」があるけど、男の子にはない

さて、「箸が転んでもおかしい年頃」って聞いたことがありますか?

特に女の子には、こういう年頃があるんですね。つまり、大人から見れば当たり前のことが、とにかく何でもおかしく感じて、ケラケラ笑っている年頃です。

なんで、こういう時期があるのかということですね。

ここまでの話でいうと、笑うためには、常識がずれることと、そして知っていることが必要です。つまり、「常識ではないけれど知っている」という状態が、よく笑うために必要な状態。

たとえば、小さい子どもは、常識が非常に小さい。知っていることが少ないからです。でも、彼らにとっては、そもそも常識が小さいわけで、何もかもが新鮮で、ずれるもなにも、初体験に近いことばかり。

赤ちゃんが、いないいないばあ、で笑うとか、手遊びをして笑うとか、あるいは、物を落として笑うとか、ティッシュをとりまくって笑うとか、そういうのが彼らの知っている意外性の範囲。これを越えれば、常識のずれではなくて、はじめての体験です。

もう少し大きくなると、鉄板は「うんち・おなら・おしっこ」。彼らの知っている非日常的語彙が常識の文脈に入ったときの意外性ですね。

小さい子どもに、政治ネタで笑わそうと思っても無理です。知らないから。

逆に大人になると、知っていることは多くなりますが、常識として「そういうことはあり得る」という予測ができる。子どもなら、大人が転んでいるのを見たら、笑うかもしれないけれど、大人なら「そういうこともあり得る」と思う幅が大きくなっていきます。

さて、女の子です。女の子は、男の子に比べて、言語的にませている可能性が高い。つまり、より多くの言語を獲得して、その結果より多くの知っていることを手にしている可能性が高いわけです。

しかし、一方で、それはまだ常識と言うほどには定着していない。つまり、「知っているけれど常識ではない」という幅が大きいわけです。成長していけば、この部分は「知っているし常識であること」にどんどん変わっていきます。女の子のある一時期は、こうして、「ズレ」やすい時期になるわけです。

ところが、男子の方は、言語の獲得が比較的遅い。少しずつ見た物を常識として獲得していく。

たとえていうと、たとえば、私が食堂で食事をしていると、女子は笑います。私が食堂で食事するというのは、見ない風景だからです。そして、それが笑えるのは、そういう私に気づき、普段私がいないことを知っているからです。笑えない?それはあなたが大人だからです。学校の先生が、いつもあなたが利用している駅にいたら?コンビニにいたら?しかも見ない服で。笑いません?笑わない?じゃあ、あなたはもう大人です。

中学生ぐらいの女子だと、そのぐらい余裕で笑えます。

男子が笑わない理由?彼らは、私が食べていても、見えない。彼らは、自分が食べることに夢中で他が見えない。普段、私がいるかいないかを知らない。女子はいないことを知っている。この差です。

こんな風に、常識と知っているけれど常識でないこと、この認識で笑いが生まれるのです。

 

「音楽」や「小説」を作り続けることの難しさ

さて、同じ話を芸術に持っていきましょう。芸術、たとえば、音楽であったり、美術であったり、あるいは文学であったり、こういうものをおもしろい、すごい、新しいと感じる気持ちはどういう仕組みでやってくるのでしょうか。

実はこういうのもまったく同じ仕組みで、常識からずれていないとダメなんですけど、理解できないとダメなわけですね。つまり、こういう作品を意図的に作っているとするならば、「みんな普通はこうなると思っているだろうな」「たいていこんな感じになっているんだよな」という常識を知っていて、これを意図的に裏切ろうとする。

しかし、その裏切ったことが、みんなの理解の範疇を超えていてはダメで、みんながこう理解してこう感じるだろうな、という予測が立たなければいけないわけですね。つまり、これは常識の把握になっていくわけです。

しかし、これは1回なら比較的、できます。しかし、2回3回となるとどうか?まだ、次から次へと作風を変えていく、違うジャンルにチャレンジしていく、というような形なら比較的簡単に取り組めるでしょう。もし、これが、「同じ作風」「芸術家らしさ」を求められつつ、新しいものを作るとしたら?

芸術の話が、なんだか、さっきの一発屋芸人の話になってきましたよね?

じゃあ、少しここではそんな話をしていきましょう。

サザンオールスターズ、桑田さんと尾崎豊の話

音楽の世界で私が思い浮かぶのは、サザンの桑田さんと尾崎豊です。

これも、私は音楽に詳しいわけではないので、分析が違うこともあるでしょうけれど、勘弁してくださいね。

まず、この話で思い浮かぶのは、なんといってもサザンオールスターズの桑田さんです。だって、サザンを長く続けるということは、「サザンオールスターズ的な何か」を作り続けるということですよね。しかも、それが新曲じゃないといけない。

これ、大変ですよね。

もちろん、音楽を続ける、新曲を書き続けるということ自体、とても大変なことだと思いますが、しかもそこに「サザンらしい新曲」というのが加わったら…。

でも、桑田さんの場合、KUWATA BAND とか、ソロ活動とかで、ある種違うテイスト、違うアプローチをして、「ガス抜き」をしていたんじゃないかと推測するんですね。ただ、いくらそういうことをやったにしても、結局は、「サザン」としての「サザンらしい新曲」という壁があるわけです。

東日本大震災の前に、サザンは無期限活動休止に入るわけですが、その時のライブが結構象徴的だったような気がします。新曲は1曲だけで(テレビで見た私の印象でしたが…間違っていたらすいません)あとは名曲、懐かしい曲のオンパレード。それがぼくらの求めるサザンになってしまうわけで、新しい曲よりも懐かしい曲をファンが喜ぶとするなら、それはまさに充電しないといけないタイミングだし、作り手にとっては、厳しい状況であると思います。その後、それでもサザンらしい新しい曲が生まれてくるあたりにすごみは感じますが、この難しいことに挑み続けることがいかに大変かを想像するとちょっと苦しくも感じます。

尾崎豊さんの場合も、熱狂的なファンがいるので、あまり私のようなものが迂闊に書くのはこわいところですが、そもそも構造的に「ずれ」に存在していたんですよね。もちろん、「ずれ」だけの人でなく、そこには才能もあったはずですが、ともかくも、「社会に対する抵抗」という非常に明確な「ずれ」があったわけです。盗んだバイクで走り出し、夜の校舎窓ガラス壊して回るわけですから。

しかし、彼は熱狂的に受け入れられます。この瞬間、「ずれ」が反転して、彼自身が「社会」になってしまう。だって、学校の先生が、尾崎豊の曲が「いい」というようになるわけです。「卒業」というのは皮肉なもので、社会の支配から卒業した瞬間に、彼自身が社会の側に反転するわけですね。

彼自身はいつの間にか、ファンを獲得し、少数派から多数派へ形を変えてしまえば、彼が一番憎むべきものに彼がなっていくようなところに行ってしまう。

こうした中で、新たな場所をどこに見いだすのか、というのは大きな課題になるはずだし、その苦しみ自体が、新たな「ずれ」のような位置におかれていくような。

その後の、彼の苦しさを私がしたり顔で分析することは適切とは思いませんので、ここでは書きませんが、彼の才能の限界などではなく、彼の出発点というか彼のテーマ自体が、必然的に苦しみにつながるような音楽であったのだろうと思います。

 

女流若手作家の「ずれ」は本当に才能か?

最後にもうひとつ、女流若手作家の話を書きます。これは具体的なお名前をあげるといけないと思うので、あげません。それから、本質的には男でも起こる話であるんですが、評価をする文壇が「一定の経験を経た大人であり、しかも男性が主流である」とすれば、決して男女差別をするわけでなく、構造的に女性の方が、男性の常識からずれやすい、ということを指摘していくだけです。

つまり、「一定の経験を経た大人の常識」は、非常に若い世代の、生活やメディアやコミュニケーションや、生きづらさや、そういったものが、テーマとして新しく感じる。若い読者からすれば、今までなかった自分たちの求めているものに近いし、年長の読者からすれば、目新しい作品に見える。

大事なことは、その「ずれ」を意図的に発掘し、見える形で、経験していない人や言語化されていないものの、新たな言語化への試みなら、素晴らしい第一歩なのですが、すでに言語化されていて「常識」となりつつあるものを、最初に提案したとするなら、それはクリエイティビティであるとしても、どちらかといえばマーケティング的な才能に近いのではないかと思います。

でも、年をとっていけば、その「ずれ」はだんだん常識になってしまう。ここに若くして「才能」を見いだされてしまう苦しみがあるはずです。最初は出来ていたものが、出来なくなる。もっと厳しく書けば、普通に書けばすごいと言われていたのに、普通に書くと普通になってしまう。

こういったことは、特に若い才能ともてはやす、小説でより起きやすい気がしています。

きっと今後は映像系の、たとえばYoutubeなどでも顕著に起こることではないでしょうか。

「現代芸術」~常識の問い直しがポイントになる

がらっと話を変えて、今度は現代芸術の話です。現代アートとか、現代詩とか、現代音楽とかって難解だと思いません?

まあ、なんかすごいんだけど、なじめないというか。

なんとなくすごいことだけはわかるけど、どこがすごいかわからないというか。

おそらく私たちがそれをわからないのは、そこに至る迄の過程を、知識として蓄えていないからなんですよね。

たぶん、その変遷の過程をしっかり学習して知識として持っている専門家は、それらが、いかに今までの常識を覆しているかがわかる。

でも、ぼくらはそういうものが不足しているから、よくわからない。

こういうことなんだと思います。

 

写真が登場すると、「絵」ならではのものがポイントになる

まずは、「絵」で考えましょう。

「絵」っていうのはうまいことが必要なんです。当たり前です。いかに本物そっくりに書くか、ということです。

でも、これは「写真」の登場によって、全ての方向性が変わっていく。

本物に似せるだけならば、写真にかなわないし、絵の存在価値がなくなっていくためですね。

では、絵はどうなる必要があるのか?もちろん、「本物そっくり」という方向性もまだあります。でも、この場合、「写真よりも本物である」という必要があるわけです。むしろ、本物の描写を変えたり、誇張したり、あるいは、時間軸や空間軸を入れてみたり、ありとあらゆる「本物より本物らしい絵」という試みが必要になっていきます。もちろん、そもそも「本物」を目指す必要さえもなくなっていくこともあるでしょう。その場合、絵そのものが問われ出すわけです。

仮に本物があったとしても、複製ということも簡単にできる。

そうなれば、そういう意味での「本物」ということさえも、意味を問われていくわけです。

本物と本物とそっくりの複製であるにも関わらず、なぜオリジナルに価値があるのかということ。もし、本当に同じだとするなら、オリジナルであるからオリジナルであり、価値があるから価値があるとしか説明できない状況が生まれてくるわけです。

マルセル・デュシャンの「泉」とジョン・ケージの「4分33秒」

意味の問い直しといえば、マルセル・デュシャンの「泉」とジョン・ケージの「4分33秒」が有名です。

まずは、前者からですね。この作品は、既成のトイレを美術館に展示し、「泉」というタイトルをつけたものです。

なぜ、これが芸術なのでしょうか。また素人の、しかも国語、現代文の説明のためですから、専門の人は目をつぶってくださいね。

たとえば、容易に考えつく批判は、自分で作っていない、ということです。

しかし、考えて見れば、建築家の作る作品は、あくまでも設計をしているだけで、決して自分で作っているわけではない。つまり、設計やデザインをすれば、作らなくともその意匠は、作者にあると考えられます。

となれば、当然「いや、既成のものなら、デザインさえしていない。置いているだけじゃないか」という批判もあるでしょう。しかし、たとえば、つまようじで何かを配置して、芸術作品を作った場合、つまようじ自体は作っていなくても、それを配置することで芸術を生み出しているとは言えるはずです。たとえば、インテリアをコーディネイトする仕事にクリエイティビティがないとはいえませんよね?すでにできあがった既成のものを、うまく配置して芸術にしていく。

とすると、当然、便器を配置することに、センスやデザインがあるとするなら、その配置の仕方だって、芸術、アートと呼ぶことも可能です。

そう考えると、芸術・アートとして当たり前に思っていたものって何なんだろうって気になってきませんか?これが、常識の問い直しですね。

もう1人は、音楽。ジョン・ケージの「4分33秒」です。

コンサートであるとするなら、たとえば、指揮者が構える。譜面をひらき、そして楽器を構える。そして、4分33秒間、何もせず終わる。ピアノなら、鍵盤をあけてとじるまでの時間になります。

つまり、その間に聞こえる聴衆のざわめきや自然音が音楽だということです。

そんなの音楽じゃない?じゃあ、音楽って?

メロディ?リズム?

たとえば、楽器を奏でなくても、そこらのものをたたいたら。水の入ったコップが音楽を奏でるとして、なぜそれは音楽で、同じ高さの音は音楽でないのか?

メロディ?じゃあラップは?

リズム?メロディと同様に、均等でなければリズムでないなんてことはないですよね?

常識ができあがれば、それをずらしていくと、なんだかすごいところまで問い直されていくんですね。

ちょうど、ファッションをつきつめていくと、対極にあるはずの「ヌード」がファッションとして見直されるのに似ているかもしれませんね。

 

「常識」の問い直しって、どういうこと?近代的な先入観

じゃあ、常識を問い直すということはどういうことなのかというと、これがまた難しい。

そもそも常識というものは、いつの間にやら私たちに染みついてしまったもので、「なぜ」ということがうまく説明できないことなんですよね。

たとえば、言語のところでも説明しましたが、言語によって概念が生まれてくる。つまり、ある言葉ができるということによって、その常識が生まれてしまうわけです。

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一度、言語で出来てしまうと、それは自分では説明できないぐらい常識になってしまうわけで、それを問い直すというのはとても難しいことなんですね。

たとえば、「五感」という言葉がありますが、これだって、五感に分類、分析できた以上、当たり前と言えば、当たり前ぐらいのことになってしまいます。

カレーやチョコは匂いで食べている?五感という分析的な言葉

これも身体のところで説明しました。 

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確かに、味というのは味覚で感じています。

しかし、実際には、匂いや見た目やセットになってはじめて、あの味ができあがるわけです。典型はコーヒーとか、チョコとか、カレーとかですね。でも、それ以外の食べ物でもかなり匂いは味に影響していて、鼻をつまんで食べると味が変わることは間違いありません。

考えてみれば、ぼくらは、視覚や嗅覚や味覚、歯ごたえや舌ざわりという触覚も含めて、総合的に食べているのであって、分解して食べているわけではありませんよね。

医療とか科学とかの世界では、分解して分析していくわけですが、これが近代的合理主義的な常識です。

だから、いつの間にかぼくらは、そういうものを常識として受け止めてしまっているわけで、これを問い直すって結構大変な作業になってくるわけです。

そういう細分化される前の、総合的なとらえ方にするって、なかなか難しいことですよね。でも、そうやってある種の、色付き眼鏡、先入観、先入主、常識を見直していかないと、物事を正しくとらえられないわけです。 

 

異邦人であること~異文化との出会い

芸術の話に戻しましょう。

こういう風に、自分たちの常識を問い直すためには、どうすればいいかということを、別の観点から考えると、簡単にいえば、違う常識と出会うということですね。

これを、芸術的な観点でとらえれば、「異邦人」との出会いということになります。

つまり、異国の常識を意図的にいれてしまえば、「ずれ」が引き起こされるわけです。

わかります?

手はふたつですね。

自分自身が、異国に旅して、異国の常識を自分の中に取り込んでいく。そして、それを母国に持ち帰って「ずれ」として提起していく。自らが異邦人となるための手法です。

もうひとつは、異邦人を母国の中につれてくる。その異邦人の常識を母国の常識の中に取り込んでいくわけです。

グローバルな視点でいえば、自分が留学をして自分自身を問い直すのが前者で、留学生(論点が変われば移民とか難民とかになりますね)をいっぱい入れるのが後者です。

いずれにせよ、常識を問い直され、変更を余儀なくされるところは共通ですね。

でも、変更って、考えてみるとむずかしいですよね。

もともとの常識が間違っているのか、それとも出会った常識が間違っているのか。

たとえば、明治の芸術の話で言えば、さまざまな西洋的なものが入り込んできます。絵画でいえば、油絵が入ってくるわけですよね。それまでは、浮世絵だったわけで。

日本の芸術でいえば、油絵が入ることで新たな様式が生まれていったことは間違いないわけですが、一方でゴッホが浮世絵の影響を受けていく、なんてことも起こっているわけです。

演劇の世界だって似ていますね。詩だって、小説だってそうかもしれない。

自分が異邦人になるということは、決して相手に染まることではない。自分が留学をする観点で見ればわかりますが、実は前者も後者も一緒なんです。なぜなら、相手側からすれば、あなたは異邦人なんですから。

あなたが、異国の文化をもとに、みずからを相対化して、さまざまなものを取り込むときに、あなたがまったく異国の文化に染まっていくなら、相手にとってあなたは異邦人としての価値がない。

ここには、葛藤というか、相克というか、ぶつかり合いというか、そういうものが必要になる。つまり、あなたは、自国の文化と異国の文化のつなひきの中に常に置かれ、引き裂かれるような状態になる。

そして、あなたが自国に帰ったときには、やはり、もとの文化を相対化する役割をする以上、同じような葛藤の中に置かれる。

異邦人は常に孤独だし、そういう状態が、クリエイティビティを発揮する人だということです。

最初の話に戻ってきましたね。

自国の文化の常識にいることも、他国の文化の常識にいることも、実は安心感があって、楽なことです。

芸術とか、笑いとか、文化とかを対象にすると、実は常にこうした常識の否定をし続けなければいけない。そして、大学という場所は、そういう覚悟を求めているのかもしれませんね。

 

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