今日の読むだけ現代文は、ちょっと順番を無視して、法学部社会科学系の生徒向けに子どもの虐待のニュースから考えを広げていきます。
先日、痛ましいニュースがありました。今回に限らず、ああいう子どもの虐待のニュースは、あとを絶ちません。こうしたニュースから、現代文の観点から話を理解してもらおうと思います。特に法学部や社会科学系ではしっかり理解しておいた方がよいだろうと思います。
- 子どもの虐待に対して、児童相談所がどこまで期待されるのか?
- 「大きな政府」は社会的なのではなく、個人の自由を守っている
- 児童相談所の問題~個人に介入したくないから、児童相談所の役割を求めるが、児童相談所に求めているのは「個人への介入」
- 個人の自由と政治参加・ケアの倫理
子どもの虐待に対して、児童相談所がどこまで期待されるのか?
今回の事件だけでなく、こうした問題が起こると公的機関としての児童相談所の対応が問われます。非常に似ているのは、ストーカーの犯罪であり、これも取り返しのつかないところまで行くと、警察の対応が問われるわけですね。
実際の対応の是非は、その事件事件によって違うでしょうし、どんなに正しい対応であったとしても、事件として起こった以上、対応になんらかの問題があったことは間違いありませんから、児童相談所やストーカー被害の場合の警察が、問題を指摘されることは妥当だといえます。
でも、こうした事件を未然に防ぐことは、本当に児童相談所に期待をしていいのでしょうか?
いや、いいとか悪いとかでなく、こうした問題の背景には何があるのでしょうか?よしあしでなく考えてみる必要があります。
今回の事件の場合、当然、親の責任という部分があるでしょうが、報道の大部分は、児童相談所、教育委員会、そして学校と、それを取り囲む場所の対応が問われているわけです。
「守れなかった大人たち」といえば、その通りですが、具体的に問題があがっているのは、「公的機関」ということになるわけですね。
では、なぜ、こうした公的機関に解決を期待しているのでしょうか?
このブログは、国語のブログですから、こうした事件の背景を考えるのではなく、こうした事件を通して、現代のありよう、現代社会といったものを考えます。だから、事件に対して、直接何かを書いていくわけではありません。
「大きな政府」は社会的なのではなく、個人の自由を守っている
「公的機関」が私たちを守るのは当然です。だって、私たちは税金を払っているわけで、その税金で公的機関は動いているわけですから、私たちは絶対的な権利を持っているわけです。
でも、法学的、社会科学的に考えていった場合、これは果たして、社会保障的な社会といえるのかはよく考えた方がいいところなんです。
大きい政府と小さい政府
たとえば、「大きな政府」と「小さな政府」という言葉はわかりますか?
「大きな政府」というのは、税金など社会保障費をあげて、弱者を守るために国の役割を大きくするというこですね。みなさんがよく知っているのは北欧型の社会保障ですよね。
「小さな政府」というのは、逆に税金などをできるだけ少なくして国の役割を小さくしていく。ムダを省く、というか、できるだけ民間に委託していくわけです。そうすると、「自己責任」の範疇が大きくなってくるわけです。もう今の受験生はわからないかもしれませんが、郵政民営化を掲げた小泉構造改革なんかがこれにあたると思います。
単純には言い切れませんが、税金を少なくして社会保障を充実させるというのは、本質的には無理があります。もちろん、中身を検証するとか、いろいろな努力は必要ですが、国の役割が大きくなれば運営するお金は必要になる、というのが普通の流れですね。
で、なんとなく私たちは次のイメージを持ちます。
大きな政府…みんなでお金を出して弱者を守るイメージ。社会のつながりがある。
小さな政府…自分のことだけを考えていて、弱者を切り捨てるイメージ。社会のつながりがなくて、個人を優先する社会。
でも、本当にそうかと考える必要があります。もちろん、「小さな政府」が弱者を助けない、と決めるなら、他者と関わらないと決めているなら、その通りなんですが、弱者は誰かが助けないといけないとするなら、話はだいぶ変わってくるんです。
保育所をつくるか、育休をとるか
たとえば、子育て支援の問題を考えましょう。支援しないなら、社会保障はありませんが、支援をすると決めます。
そうすると大きく政策は次のふたつ。
保育所を作って待機児童をなくして、特にお母さんが働けるようにすること。
育休をたっぷりとれるように制度設計して、特にお父さんに育休をとらせること。
細かくいえば、在宅ワークだとか、フレックスとか、もっともっとあるでしょうが、大きくはこの二つが浮かびますよね。
これ、政策的にいうなら、
保育所支援…大きな政府
育児休暇…小さな政府
ということができます。介護なんかでも、まったく同じ構図ですね。
「大きな政府」というのは、家族や近隣の人が助けなければいけないものを代わりにやってあげる。逆に「小さな政府」というのは、できるだけ自分のことは自分でやってもらう。
もちろん、言葉の定義としては、「お金」が入ってきますから、同じお金ならどっちも大きな政府だっていう突っ込みは入ると思うんですけど、まあ、勘弁してください。
保育所を作るということは、子どもの面倒を誰かがみるということ。つまり、社会が面倒をみるということ。
育児休暇をとるということは、自分の子どもの面倒は自分がみるということ。つまり、社会が面倒をみないということ。
そんな気がしますよね。
でも、よく考えてみましょう。
保育所は、親の代わりに子どもをあずかってくれます。そこで得るものは何か。それは親の個人としての生き方です。もちろん、働かないと生活できない、好きで働いているんじゃないという人もたくさんいますから、全部まとめてこんな言い方はできません。でも、お金としては困っていないとするならば、これはまさに、個人として生きるために、社会がそれを保障するシステムといえるんです。
それに対して育児休暇は、自分のやりがいとか生きがいとかを犠牲にして、その時間を子どものために提供することを求めます。これもすべてではないんですが、現実としては女性ばかりが育児休暇を取らされ、その間、仕事が中断したり、会社での立場や役割が失われたりすることは議論としては必ず出てきます。
もういちど書きますが、ここで書いていることがすべてではないですし、政策的にもバランス問題だったり、両方必要だったりするわけですから、割り切れる問題ではないんですが、実は次のような一面がある、ということです。
大きな政府…個人の権利と自由を守るために、国がその役割を代行する。
小さな政府…個人それぞれが個人の自由を差し出して家族や近隣の人とボランティア的に助け合う社会を作っていく。
こういう一面があると知ったとき、今回の問題を私たちはどう考えればいいでしょうか。
児童相談所の問題~個人に介入したくないから、児童相談所の役割を求めるが、児童相談所に求めているのは「個人への介入」
私たちは、今や他者にできるだけ関わりたくありません。
町を歩いていて、たばこ吸っている子どもを見たとしてどれだけ注意できるか?マナーの悪い子どもがいたとして、どれだけその場で注意できるか?
だから、その「注意」や「指導」を公的機関にゆだねます。その注意や指導をすべき公的機関にご連絡さしあげるわけです。
つまり、私たちは政治参加したくないんです。お金を払ってでも、直接参加する役割を誰かに代行してもらいたいんですよね。
その誰かは、代行する意志をもっているし、義務があります。職業として選んだわけだし、お金をもらっているわけですから。
だから、こういった事件が起こったときに、公的機関がやりだまにあがります。でも、本当は、公的機関で、まったく義務のない大人たちも、たくさんいたはずです。(ここでの記述は責める意図はまったくありませんのでご了承ください。私がそこにいても何ができるかなんてわかりませんから。)でも、問題は公的機関。職業で、お金が払われている。しかも私たちが税金としてその人に払い、代行してもらっているからです。
こうして、私たちは安全地帯にいるんですね。慶応の法学部で、死刑の是非を議論してはいるが、死刑執行のボタンはおさない、というのが出たことがありました。死刑に賛成するなら自分が押せっていうような話です。ちょっと極端ですけどね。
ぼくらは、お金を払って、政治を代行してもらって、安全地帯にいる。そこで、個人としての生き方を維持できるわけです。
で、こういう問題が起きると、当然、公的機関の責任を問います。ここまでは問題ないかもしれません。
でも、今回の場合、事件を未然に防ぐとなると、当然、何も起こっていないのに(何度もしつこくてごめんなさい。今回は何か起こっていたかもしれませんし、対応のミスもあるかもしれません。あくまでも一般論の話です。)対応をしろという話になる。
ストーカーと同じ、というのはそういうことです。
結果として、万全の態勢でのぞめば、結果として何も起きません。そのとき、「何も起きていないのに、個人の権利と自由を侵害した」という非難はおきないのか?だから、児童相談所は腰がひけてしまう。
何も起こっていないからといって対応しなければ、事件は起きてしまう。
事件が(確実に)起きるだろうと思って対応すると、結局事件は起きず、法律的な問題をはらむ。事件が起きていないのに罰することはできないし、罰するにしても緩い処罰になる、ということです。
これも、慶応法学部で出ましたね。未来国家のやつです。
ぼくらは本当に、児童相談所にどこまで許すのか?力を与えるのか?
さっきの死刑の話じゃないですが、死刑の議論をすると、みんな「被害者感情を考えると極刑もやむを得ない」みたいな意見が多くなるのに、いざボタンを押す役になると「いや、それはちょっと…」となる。
私は、児童相談所の議論に似ている気がします。自分のその疑いがかけられたら、受け入れられないような気がするんですね。
個人の自由と政治参加・ケアの倫理
こうした議論は、近代が個人の自由を自明のものとして価値を認めていることから始まります。
これも慶応法学部のケアの倫理です。
個人の自由に絶対的な価値を置く。でも、社会には「ケア」が必要な人たちがいる。たとえば、赤ちゃんであり、高齢者であり、病者であり、障碍者であり…。
当然、個人の自由を守るためには、公的機関がそのケアを担うわけですが、赤ちゃんをどんなに保育所が預かっても、24時間預かるわけにはいきませんよね。
その一部は必ず私たちが担わなければいけないし、担っているんです。
これを誰がやることになるかといえば、たいてい女性になるわけです。一部は女性でしかできないこともあるかもしれませんが、たとえば赤ちゃんにミルクをあげることだって、別に市販のミルクに置き換えれば男性がすることだったできるんです。
世の中にはそうなっている家庭だってあるんですから。
でも、いろんな理屈、たとえば母性とかそういう言葉によって、女性におしつける。近代は個人の自由を自明のものとしていますから、その押しつけられたことさえ、「母性」というような、女性の自発性、自主性、個人の自由の発現のようにとらえてきているわけです。
そこに限界があるんじゃないか。「ケアの倫理」ともよぶべき、みんなが政治参加して、個人の自由を少しずつ切り分ける必要があるんじゃないか、ってそんな問題でした。
個人の自由を尊重するからこそ、少しでも公的機関に任せたい、しっかりしてほしい。でも、個人の自由や尊厳には踏み込んでほしくない。
これってかなり無理があるような気がします。
本当は順番に書くつもりでしたが、事件があったので、ちょっと先に書きました。