国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

英語民間試験が見送りになって、次は国語の記述が問題になる?問題を整理。

英語の四技能外部検定成績提供システムの導入が見送りになるという、とんでもないことが突然起こると、次は、国語の記述がなくなるんじゃないか?という期待が強くなることでしょう。このあたりを国語教育に携わるものとしてまとめておきます。

いやあ、びっくりしました。英検予約問題から「なんだかおかしいよね」と思いましたけど、まさかここまで一気に事が進むとは…。結局は政治なんでしょうか。何なんでしょうか。

まあ、いいんですけど、ただ延期って、先送りになるだけで、混乱がおさまるとは思えないんですよね。で、もし、記述とか共通テストとかにまで、これが入ってくると、一体どうなるんだろうなって不安になります。

2024年に指導要領変えて、一気にやるんですかね。それとも、なかったことにして、しれっと進めるんですかね。だったら、日本の教育について偉そうに語っていた話は何だったんでしょうかね。

いやあ、愚痴ばっかり出て来ます。

むなしくもなります。

愚痴と怒りとむなしさついでに、きっと出てくる国語の記述やめよう問題を少しだけ書いておきます。

 

共通テストの記述は意味があるのかどうか?実はこれが一番難しい話。

さて、そもそも私は、共通テストの国語の記述に意味があると思っているか?

これ、実はすごく難しい話です。

正直なことをいうと、最初に発表された時は「国語をなんだと思ってるんだ。こんなことのために記述をやるのか…」というのが正直な感想でした。

でも、すぐ前向きにとらえる悪い癖で、今は、どうしてこういう問題を出すのか、という裏がだいぶわかってしまって、どういう対策が必要か、何をしていけばいいのか、と考えていくわけですね。

そうなると、ここでまた、「やめた」って言われて振り出しに戻るのもしゃくにさわるわけで。

何でもそうですけど、物事には良い面と悪い面がある。それをどうするかについて、いろんな意見がある。そういうことですね。

では、具体的に考えていきましょう。

 

共通テストの国語では思考力を問えないと筑駒生は言っている。でも、普通の学校では…

最近のことでいうと、こんな記事ですよね。

dot.asahi.com

これ、たぶん、その通りで、あの問題に思考力なんていらないんです。だから、記述で思考力を問うっていう解釈は、共通テスト国語記述については間違いです。

さすが、筑駒。というか、先生だって、あんなの対策いらないよ、答え探して入れればいいだけだからってそんな感じです。

私もそう思います。

でもね。

実は、試行調査の正答率から見ても、あるいは教えている実感からしても、平気で間違うんです。できないんです。

それはなぜかというと、答えの場所を探してそれを抜き出そうとするからです。

実はあの問題、よく出来ていて、指示がちゃんとあって、質問にちゃんと答えようとすると、本文を抜き出すことはできなくて、答え見つけたら、文を変えないといけないんですね。

それができない。

今の生徒は、「答えを見つけてそれを写す」んです。

ちょっと形を変えれば、質問に答えたことになるんですけど、写すと質問の答えにはならないんです。

これ、実は大問題。

今の子どもたちは、テストに対して、答えの箇所を見つけてそれをそのまま写すのが国語だと思っている。

要約は完璧に、大事なところをつないで写せても、実は何が言いたいかわかっていない。字数が短くなると何の話か説明できない。

小論文で、「文章をふまえて自由に書きなさい」と言われれば、文章を要約して、そのテーマで勝手に書いていいと思っている。

すごいことなんです。

筑駒では、「あんなの思考力じゃない。答え探すだけ。誰でもできる」ですが、普通はそうではない。確かに思考力ではないんですけど、正解が書けない。質問に答えるという意識で、文の形を作ることができず、ただ答えを写すからです。

それが、ぼくら国語教師が、入試に対応していった結果、育て上げた生徒の姿なんです。

えっ、そんなわけないだろうって?

いやその通りです。今回、国語の記述をやめろっていう意見の中には「自己採点ができない」っていうのがあるんですね。

筑駒の生徒はできます。絶対に。だって、答えのエッセンスがわかって、それを形にできるんだから。

でも、多くの受験生は、それができない。自分が書いた答案が、どんなものか意識できないからです。そもそもの前提が違う。

だから、こうしたことを聞くことは、共通テストでやるべきかどうかを別として、逆接的にむしろ必要であるということを証明しているんです。

だから、自己採点ができない、と批判するなら、問うことそのものには意味があるし、筑駒の生徒のように、あんなの誰でもできるというなら、採点は機械的に公平にできるように作られているわけで、反対する点では一緒でもとらえかたが全くちがいます。

 

自己採点が不正確ってどういうことなのか?だからこそ、共通テストの国語は思考力じゃない!

自己採点の難しさについてですが、この批判はわからなくはありません。でも、そういう批判があったからこそ、採点が明確になるように作られています。採点がぶれないようにするには、ぶれるようなエッセンスがどんどん消えていきます。

そうなると、批判的にとらえるなら「こんなことのために記述を作るの?」っていうぐらい機械的なものが正答になっていきます。

そういう風にすでになっています。

だから、自己採点はできない奴は出るとして、自己採点は可能です。でも、自己採点はできません。だって、書けないやつは、そもそもそういう思考がないからです。ない力を使って、正解かどうかをチェックすることはできません。

完璧に自己採点ができるなら、それは問う必要がありません。しかし、問うたからといって、思考力を聞いている問題ではありません。

「人間が採点する以上、完璧でない。入試なんだから、それはあり得ない」なんてことを言い出したら、大学の二次試験、小論文だけでなく、高校入試の記述から何から否定することになる。

でも、公平性とか軽視するわけにいかないから、問題はどんどん答え抜き出しになる。

それで答えにしちゃうと記述にする意味がなくなる。

だから、答えは明確だけど、形にしているからどうかを問う。

でも、そうなると、それができない生徒は正解がどうかわからなくなる。

堂々巡りみたいなものですが、いずれにせよ、記述という莫大な労力を使って、たいしたことのない問題を作り、でも、さすが大学入試センターは、マークとはひと味もふた味も違う問題を作ったんですね。

これは、本当にすごいと思います。

でも、共通テストで、思考力や国語の力を問わなくてもいい。二次試験や私大入試が工夫をすればいいんだから。

だから、やる意味はあります。筑駒の連中が簡単だということができない人たちが、たくさんいるわけですから。

でも、それだから、共通テストの国語記述に正当性があるというわけではありません。

だって、他でやればいいんだから。

二次試験もありますしね。不思議なもので、二次試験の記述には誰も文句を言わない。だから、二次でやればいいよねっていうのもひとつの考え方です。

私大だって、一般入試で工夫しているわけだし。

ただ、そういう考え方と、

「記述の採点は公平じゃない」

とか、

「自己採点が不正確」

とかいうのは、まったく違う話です。本当に後者をまじめに考えるなら、二次でも、私大でもやれなくなりますからね。

 

でも、そのことと記述の採点は不公平っていうのは別の話。不公平でもしっかり見ないといけない。

というわけで、共通テストでわざわざやらんでいいだろっていう批判はもっともです。だからこそ、「記述の採点は不公平」というのは認めるわけにはいかない。

なぜなら、公平な採点ができる入試をつきつめた結果、本当に良く出来ている現在のセンター試験でさえ、国語の試験は正解を探すテクニックで満ちあふれ、結果として、文章なんかわからなくても、どんな質問がされていても、

「選択肢が本文にあるかどうか」

「選択肢を本文と照合してチェックする」

「本文の内容がわからなくても答えだけあっていればいい」

という生徒があふれたからです。

ちがいます。

そんな先生ばっかりになったんです。文章の内容なんか教えなくてよくて、文章の要約だけできればいい。

生徒が自分の言葉で説明できなくても、本文の重要な言葉が唱えられればいい。

何を言っているかわからなくても、正解が選べればいい。

実際、「文章が難しくて何を言っているかわからなくても、答えを導き出すことができる」みたいなことを堂々とうたっている先生も多いと思います。

これ、本当に正しいんでしょうか。

大学からすれば、講義を聞いてわかる国語力がほしいのに、「内容がわからなくても、大事なキーワードはつなげます。何言っているかわかんないですけど」みたいな生徒を、堂々と作り出したんですから。

ていうか、そういう生徒が結果としてできちゃったぐらいはしょうがないですけど、違うんです。「それが大事だ」って言って堂々と作ったんです。

たぶん、筑駒ではそんなことないんです。だから、あの記述を馬鹿にできるんです。

思考力とかに踏み込むなら、多少、採点がぶれようが、不公平が起きようが聞くしかないんです。

もちろん、50万人受けるセンター、共通テストでやらなくてもいいんですよ。

でも、どっかでやる必要はあるし、たいていの普通の受験生は、思っている以上に、国語というものを、なんだかひどいテクニックのように扱っているんですね。

 

というわけで、また愚痴でした。

しかし、こうなってくると、入試がどうなるかではなくて、国語の教員として矜恃をもって仕事しないと、なんだかただの受験屋みたいになるんだろうなと自戒をこめて仕事をしていきたいと思います。