国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

国語コラム「国語教育と受験」古典や文学って大学受験に必要なの?

このブログの100記事目となりましたので、国語教育と受験について考えてみたいと思います。

気が付けば、このブログの100記事目になりました。国語のブログは、ありとあらゆる授業を、ここに残したいという野望のようなものもあるので、まだまだ、ネタがつきるどころか、今年の受験までに書けなかったことの方が山ほどあります。授業をするのは簡単でも、それと並行してここに記録していくのはとても大変ですね。

とはいえ、100記事目ともなると、ささやかではありますが、自分なりに記念のような記事を書きたいと思い、テーマにこれを選びました。

「国語って受験科目にいれる必要があるのか?」

ということです。

 

国語力は大事というけれど…

大学入試科目に国語は必要なのか?というのはとても難しい問いかけです。

私の印象が間違っていなければ、たいていの人は、

受験をしている時には、「国語なんてなくても大丈夫だよ。あんな試験意味ないし。」ぐらいに考えていて、大人になってくると「いやいや国語力は全ての基本だから。英語の前に国語だし。国語力ないと文章題とか応用題とかも解けないし。仕事するのだって、文章力必要だからね」なんて、コロッと態度を変えているような気がします。

この理由は明白。

国語力は大事だけど、国語の試験はあんまり大事じゃない

ということです。多くの人は、はっきりとわかってないかもしれない。たとえば、同僚の先生なんかでも、国語の試験の成績で、「国語力」をはかるわけです。「あいつ、国語の成績がわるいから、結局行き詰るんだよなあ…。先生、あいつの国語、なんとかしてやってくださいよ」みたいな感じです。

でもね。まるっきり無関係と言わないまでも、そこで必要な国語力って、

  • 数学の文章題を解く力
  • 理科のレポートを書く力
  • 英語の文章を読む力
  • 社会の論述を書く力
  • 大人になって考えを自分の言葉で伝える力
  • 専門分野の本や論文を読む力
  • 専門分野の論文を書く力

などであって、じゃあ、これらの力を見るような試験を、国語の先生が作っているかといえば違うし、こういう力を直接つけるような授業をしているかといえば、それもやっぱり違うわけですね。

そう考えてみると、国語っていらないんじゃないか、と思うわけです。

 

論文を書く力と古典を読む力

そもそも、論文を書くこと、読むことと、源氏物語を読むことに何か関係があるでしょうか。

ね、あるわけがないんですよ。

たとえば、あなたが建築かなんかを専攻しているとします。すごい微々たる可能性ではありますが、源氏物語で見た古来の建築や文化、あるいはライフスタイルが、あなたの建築デザインに影響を与える可能性はないとはいえません。

でもね、それははっきり言えば、国語じゃない。国語の、作品の中に埋もれている文化というか生活習慣みたいなもので、国語じゃないんです。

おそらく、そこで活用されるものを、たとえば、源氏物語を、現代語訳したもので扱っても、マンガ化したもので扱っても、映画化やアニメ化したもので学んでも、きっと、あなたの建築に与えた影響は、失われず、いや、あるいはもっと鮮明に、あなたに何かを与えるに違いない。

でも、それ、国語じゃないんです。国語は文章からの読み取りだし、古典を古典として学ばなければ、それは国語じゃない。文化や歴史の授業みたいなもので、国語ではない。

国語なら、古典の文章を学ばないと意味がない。

ね。いらないでしょう?

この観点に立っているツートップが、東京工業大学と慶應義塾大学です。

東工大は、もともと二次に国語はありませんが、センターの得点を足きりだけに使って、合否判定には使わなくなりましたよね?要は英語・数学・物理・化学ができる生徒がほしいわけだし、まったく点数をみないんですね。

私立大学みたいでしょ?要は数学と理科の強い子がほしい。すごく鮮明なアドミッションポリシーです。

だって、古典なんて、科学技術に役立つわけがないんだから。

文系の代表格は、慶応です。ここには国語の試験がない。全部、小論文か論文テストですね。文学部さえも、です。

これはまたすごい。小論文の難易度も高く、学部の専門性が反映されていて、すごいなあ、と思います。赤本の答え、私が読むと、これじゃあきっと点数もらえないぞっていうのが結構あります。たぶん、学部の専門性が求められてるってわかってないんだと思います。模範解答作成者がね。

つまり、大学に入学されたあとに展開されるだろう内容を読ませ、考えたことを書かせる。まさに、大学に入学するのに必要な「国語力」を問う試験。すごいと思いますね。ある意味では、国語でない国語力をきちんと聞いているんです。

一応、早稲田をフォローすると、早稲田だって、政経や法や文化構想には、かなり学部としてのポリシーを感じます。特に法と政経は、国語の出題に強い専門性がある。国語なんだから、高校生に専門性を求めていない、なんていうのはきれいごと。

前にも書きましたが、「知ってなくて問題ないけど、大学入ったらこのぐらいの内容やるんだから、読んでわからない人はいらないよ」っていう感じであることは間違いない。それを「わからなくても大丈夫」というかどうかは言葉遣いの問題だけですね。

まあ、でも慶応の方が腹をくくってる。ぼくらは早稲田のおかげでまだ古典をやっていられるけど、慶応のやり方の方が、東工大同様、現実的だと思います。

最初に書きましたけど、国語の試験と国語力が乖離している。だから、国語力は求めるけど、違うやり方にするっていう慶応はすばらしい。

東工大は国語、得点にしませんが、数学や理科でしっかりと書かせるわけですから、やっぱりそこで、必要な国語力は見ているわけですね。

だから、問題はないんだと思います。

 

古典や文学を読む意味

となってくると、

「大学入試に国語がある」って意味がないんじゃないの?

ってことに気が付きますよね?

正解。

たぶん、なくていいんです。必要なのは、文学部ぐらいで、ほかのひとたちは、別に必要不可欠な、もうちょっと言葉を正確にすると、入学者を選考するために必要な科目ではないんじゃないか、ということです。

さて、でも、これ、国語教育がいらないか、という話とは全く異なります。

大体、そんなこと言うなら、日本史や世界史が、あるいはどっちかしか勉強してないのに、それが、法律や経済や社会科学にどれだけ直結してるんだっていう批判と大差ありません。

英語だってそうですよね?英語は確かにグローバルな時代、ある程度必要だけど、本当にそこまでいるの?って思う。だからこそ、外部検定4技能入れて、「ある一定の英語運用力持ってるなら、もうあとはいいよ」みたいな入試が増えていくわけです。

東大は、反対してますよね?だって東大のレベルなら、ちゃんと専門的な分野で英語使えないと困るし…そんなの検定じゃだめだし…と思ってるからだと思います。

でも、もうちょっと下のレベル(といっても難関大ですよ)では、「まあ、留学とかふくめてコミュニケーションに支障が出なければいいか」ぐらいで考えるはずで、そうなると四技能検定CEFRでA2ぐらいで十分だってことになるんだと思います。

戻りましょう。国語です。

国語、特に古典や文学はいらないのか?無駄なのか?

ここは強調して言いたい。これは要ります。絶対に。

古典を古典として読むことは、古典の語彙を自分の中に入れることです。古典の語彙が入れば、古典の感性、古典の時代にあったものの見方や考え方が自分の中に根付きます。

言語があって、概念が生まれるんです。 

www.kokugo-manebi.tokyo

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ちょうど、英語的な語彙によって、英語的な概念が生まれるように、古典的な語彙によって古典的な概念や感性が生まれるんです。

だから、学校教育から古典がなくなったら、昔、私たちの祖先がもっていたところの、日本的な感覚や感性や文化が消え去って、西洋的な欧米的な、現代的な価値観だけの人間になっていくんです。

グローバル化の現代だからこそ、日本の文化や伝統は、それこそ言葉から持っていないと、あっという間に、日本らしさを失ってしまうんです。

そうです。世界に出て行けばいくほど、「日本」を知ることの重要性に気付きます。歴史もそう。文化もそう。そして、その骨格にあって、みんなが意識していないものが、言葉なんですね。わたしたちは言葉の枠組みで世界と向き合う。

古典の言葉がわかるから、古典の感性がある。百人一首の言葉を知っているから、その情景を美しいという感性を共有することができるんですね。

私は理想としては、入試科目としてなくなったとしても、最後まで大事なものとして国語は残ってほしいし、その時こそ、古典や漢文は、絶対にあってほしい。

漢文なんて、日本人の外国語の取り込み方の典型で、これが明治の英語に対する向き合い方の土台だし、和語と漢語と翻訳語と、そして今は英語そのものと、この4層があるなんてことを、誰も意識せずに忘れ去ろうとしているわけですね。

慶応も早稲田も東大も、必死にそういう現代文読ませてくれてはいるけれど。

だから、大事だって、思ってるんです。大学だって。

ちょうど、体育や美術や音楽や家庭科が重要であるように、です。

でも、入試問題から国語が消えたら…

考えただけでぞっとします。まず、漢文と古典が消えるんだろうな。「舞姫」を現代語訳でやる学校や先生もいるらしいし…(うちの学校でもそういうことがありました。)ああ、おそろしい。

おそらく、国語教育の価値、言語から概念を獲得する、つまり、その言葉そのものを味わうことが大事なんだ、っていうことがわかっていないと、たとえば、作品を映画としてみたり、そこで扱っていることをテーマとして討論したり(たとえば、「こころ」を読んで「三角関係」というテーマを作り、「舞姫」を読んで「恋か仕事か」というテーマを作って、作品離れて自分の意見を言い合うというようなこと)、そんなことが国語だと思っていると、おそらく入試から消えた瞬間に、ただの道徳になりさがるんだろうなあ、という気がします。 

 

というわけで、こんな内容が100回目の記事にふさわしいかはわかりませんが、ともかくも100回になりました。これからもよろしくお願いします。