大学受験の現代文対策シリーズは第4回です。言語と私の関係、特に翻訳の問題を考えます。
前回は言語について考えました。言語が文化を規定するという話でした。
で、そうなってくると、言葉のあり方が自分のありようを決めてくる、ということになるわけですね。身体がそうであったように、私のありようは、いつの間にか言葉の枠組みによって決まってくる、ということになるんです。そう考えてみると、翻訳は可能なのか、という問題につきあたるんです。
翻訳をすることは可能か?~言葉の持っている範囲
ここまでの話は、つまり、「言語の持っている枠組みで世界を見ている」ということです。その「枠組み」で世界をとらえている以上、自分が何か独立したものとして存在することは不可能で、何かしらの枠組みがぼくたちの見方を支配している、といえるわけですね。
このように考えてくると、
日本人は日本語の枠組みによって、物を見ている。アメリカ人は英語の枠組みによって、物を見ている。
ということになります。
こうして、考えたとき、果たして翻訳は可能なのか、ということに突き当たります。
僕たちは、それぞれの言語の枠組みによって支配されている。では、その枠組みは同じなのか?ということです。
この間は、フランス人が肩を凝らない、という話を書きました。フランス語には、「肩こり」という言葉がないので、「肩こり」を見つけられない、気が付かない、ということですね。
こんな状況の中で、翻訳は不可能ではないか、ということなんです。でも、実際には翻訳をしなければいけない。では、どんなことに注意する必要があるのか。翻訳とはどういう作業なのかを考えなければいけません。
ここで問題となるのは、まず、言葉の範囲です。
たとえば、「オレンジ」というカタカナ語は、英語でも日本語でも「オレンジ」を指すように感じますが、言葉というのはほかのコトバとの差異ですから、
「どこからどこまでがオレンジ色か」
という問題が残ります。
日本語には臙脂=エンジという言葉がありますから、オレンジとエンジは違う色として区別されます。この中間に関しては、人によって認識差があるかもしれませんが、区別しようとするわけですね。
ところが、英語ではエンジがないので、オレンジはこのぐらいの色まで含んでしまうようなのです。
私たちは、言葉を通して、物を見ている。
その前提が異なるときに、正しい翻訳をすることははたしてできるのか、ということが問題になってきます。
語順がもたらす「私」のありよう
ここから、今後は語順を考えてみましょう。
古池や蛙飛びこむ水の音
こういうとき、よく使われるのが、芭蕉の有名な句ですね。
「古池や蛙とびこむ水の音」
です。
さて、この句=詩が読んでいる、表そうとしている意図を、あなたは英語に訳すことができるでしょうか?
それを考えてみるためには、まず、英語で訳してみるのがいいでしょう。
古池 an old pond
蛙 a frog
飛び込む jump into
音 the sound of the water
まず単語だけで考えれば、こんな感じ。実際にいろいろな訳があるようなので、それを参考にしてみましょう。
これだけでも、蛙は a frog か frogs かなんていう問題点もあるんですが、ささいなことは無視して、進めましょう。
英語の語順を意識していくと、
a frog jumps into tne old ponds.
的なことになると思います。
あれ?the sound of the waterが浮いてしまいました。なので、つなげようとすると、関係代名詞的につないで、このあとにさっきの文がくるんでしょう。
おかしい…。主語動詞がない…。まあ、確かに、芭蕉の句も主語動詞はないからいいんですけど、あえて、ここで主語動詞を考えてみるとわかります。
そうですね。
I hear が主語動詞です。過去形にするというならしてね。
大事なことは、実は、これは書かれてはいませんが、「聞いた」という句だということ。「聞いた」という表現は、「見ていない」ということと同義です。
「ねえ、私聞いたんだけどさ、〇〇さんて〇〇なんだってえ~」という噂話も、見ていないはずですよね?
池のほとりに座って、蛙が表れるのを見て、それが飛び込むのを目撃して、「ぼくは蛙が池にとびこむ音を聞いた」っていう人も何か変でしょう?
この句は、「静寂」を詠んでいるわけです。部屋にいる。「ぽっちゃん」。そんな小さな音がする。「おや、蛙でも飛び込んだんでしょうかねえ。」
この感じ。これが、この句です。
ところが、です。わたしたちは、こんなことも忘れてしまうぐらい「映像」として想像させられている。そうですよね。まず池があって、次に蛙が現れて、とびこんでいる。
でも、最後に「音」ってきて、ただしくやっていれば、すべてが打ち消されるんです。「なんだ、音か。見てないのか」
これが日本語の語順によってもたらされるものなんですね。
本当は、静寂に包まれた部屋の中で、ポチャンと小さな音を聞いただけ。それを、「蛙でも飛び込んだんでしょうかね」と話す。こんな感じ。でも、間違いなく聞いたぼくらはだまされて、蛙が飛び込む絵が浮かんでいる。
ところが、この高度な詩としてのテクニックを英語でどうやって表現することができるでしょうか。
最初に I hear とか soundsとかきたら、想像の余地がなくなります。
あるいは、最初にポチャンとか書いたら、意味がないし。
ぎりぎりやるとしたら、最初に、蛙が飛び込む、と書いて、そんな小さな音が、この静寂の中で感じられた、みたいなやり方ですが、これでは説明。
これを、説明でなく、実現しているのが、この句のすごさ、なんですね。
否定語の問題~詩の翻訳
詩のコトバとしての日本語を考えたとき、重要なのは否定語です。日本語は否定語が最後にきますよね?
波の音
輝く太陽
やけた砂浜
カモメの鳴く声
横にいる君
全部がなくなった冬
なんていう風に書けるのが日本語なんですね。
テレビで「かいま…」ってやるじゃないですか。「す」とか「せん」とかね。あれができるのが日本語。
英語だったら、
there is no
となっちゃいますし、
I…で切るしかないです。次にもうdon'tがくるか来ないかですからね。Iで切ったら、そのあとどんな動詞がくるかなんて無限です。
there is no
ってきたあとに、いくら列挙しても、「ない」前提で想像するわけです。日本語は、
「〇も△も□も」「ない」って消えるんですね。
これは、英語で表現できない詩的な部分なんです。翻訳者は「~less」のような単語を使って工夫する、というような話を聞いたことがあります。
もちろん、これは、逆もまた真なり、です。
外国語の詩的表現をぼくらは翻訳で読んだとき、どれだけきちんと理解できているか。作者の詩的意図をしっかりつかんでいるのか、ということでもあるわけで、決して、日本語が優れているわけではないんです。
国語の教員としては、日本語のすごさは理解してほしいけど、だからといって、外国語よりいいとかわるいとかっていう話をしているわけではない。違いを説明しているだけなんです。
論理的な言語である英語、という嘘
この話の延長線上に、「英語は論理的で、日本語は非論理的」という話が必ずおきます。
「英語は結論を決めて話す。それに対して、日本語は最後に結論がくる。」
という類の話です。もちろん、否定できない部分があって、言語の仕組みを見てくれば、わかるように、日本語は最後の最後で、「ない」をつければ、逆にいくし、そのあとにさらに「こともない」って戻ることもできちゃうわけですから、「非論理的」で「あいまい」と言われるのも仕方ないかもしれません。
日本語って「~だから」の言語ですよね。先に「理由」なんです。古文には「なぜなら」はほとんどないし、「~ば」ばっかりだし。
英語は、「because」の言語。先に結論、後に「理由」です。so=だから、なんて習ったけど、あんまり見ないですよね。
これも、結論が決まって動かない「論理的な」英語、ということにつながってきます。
でもね。
それは正しいけど、「論理的」か??
本当に?
たいして、理由も考えずに、先に結論決めて、あとはこじつけていくことが「論理的」??ぼくらには理解できないですよね。これは論理的なのではなくて、依怙地なだけ。もっといえば、敵対する言語ってことです。だからディベートが得意になるんだとは思います。
日本語は、相手に寄り添おうとする言語。だから、結論は最後に決める。理由をよ~く考える。おもいやりの言語なんです。
論理的か、非論理的かという議論は、その道筋についての話であって、理由が先でも筋が通れば論理的だし、理由があとでも、めちゃくちゃなら非論理的なはず。だから、言語の問題ではないんですね。外国かぶれになると、このあたりがまったくわからずに日本語批判したりするわけで、まあ、いいんですけど、日本語の特性によって、私たちは、こういう社会を作ってきたんだぞ、って誇ってもいいと思います。
ああ、論理的な文章を書きたい人は、結論を先に書くようにこころがけましょうね。理由はあと。「なぜなら」って使えばいいだけです。
翻訳したものは「文化」によって違う意味を持つ
さて、翻訳の問題をもう少し考えていきましょう。
今度は太宰治の小説の話です。これもよく語られる話なのですが、登場人物に
いつも「白い足袋」をはいていないと気が済まない人物
がでてくるんですね。
そこから、どういう人物設定を読み取りますか?
もうすでに、昔の文化がわかっていない子どももいるかもしれませんね。
昔の家、木の廊下、畳…そういったすべてがわかっているなら、「神経質で潔癖症」に近い性格を読み取れますよね。
ところが、です。
翻訳したら、white socks ですよ。
それが、何を意味しますか?そして、アメリカ人はイギリス人はどう思いますか?なんとも思いません。家でも靴をはく文化だからですね。
下手すれば、現代を生きるマンションぐらしの子どももよくわかりません。家で、白い靴下が汚れることはないだろうし、学校では上履きですね。靴下と置き換えれば、「潔癖症なら、汚れが目立つ色は履かない!」と主張する可能性もありそうです。
「足袋」は白であって、わざわざ「いつも白い足袋」と書く意味はわからないでしょうね。
というわけで、ある翻訳家は、
white gloves
に変えたんですね。確かに「神経質で潔癖症」です。
でもね、すでに外国人ですよね。そもそも足袋はいてないし。
このことをわかるためには、日本の文化、それも太宰が書いた当時の文化の理解が必要ですし、逆に外国人に伝えるためには、その言葉をどのように解釈するかを文化をふくめて理解しなければいけないわけですね。
翻訳が難しいってわかってきましたか?
たとえば、外国人て、平気でいろんなところで
I love you!
みたいに使いますよね?で「ハグ」したり。
それを「私はあなたを愛しています」て変えて、「抱きしめ」たりすると、大問題になる場面て多くないですか?生徒と先生とか。
そもそも文化が違うと訳しているようで、訳せない感じがわかってもらえますかねえ。
そもそも「ない」言葉をどうやって訳す?~翻訳は異文化変容、自己変容
こうなってくると、そもそも「ない」言葉をどうするんだっていう問題が起こってきます。
「言語が文化を規定する」
だとすれば、ない言葉は、概念としてない、ということになります。
「もったいない」が日本語にしかないっていうのは聞いたことがあると思います。言葉がないっていうのは、「もったいない」という考え方がないっていうことです。
とすると、言語が違えば、そういう考え方を持っているかどうか、ということになるわけです。
明治時代の日本と「漢文」
さて、これが明治時代の日本に起こったことです。
外国語には、「自由」とか「平等」とか「個人」とかいう概念があった。liberty であり、impartiallyであり、Individualですね。
それに対する日本語はなかった。だから福沢諭吉とかが「作る」んです。日本語を。そして概念が生まれるんです。
それまで、つまり、江戸時代の間、そんな考え方がないんです。誰も疑問に思わない。もちろん、漠然とした気持ちとしてはあります。そういうことを考えることもあります。実際、井原西鶴あたりでも、親の敵討ちを続けることの無意味さみたいなことを作品として描いています。だから、そういう気持ちはある。でも、言葉にできない。
だから、みんなで共有することができない。なんとなくわかるんだけど、表現できない。だから、あなたと私で、その考え方を共有できない。
それが、外国語では形になって、当たり前になっている。今の私たちと同じです。
個人の自由と平等を疑う人はいませんよね?だって、言葉になっちゃったから。
でも、江戸時代はそうではない。それでは列強各国に太刀打ちできないですから、なんとか浸透させる必要があります。
この時の方法はふたつ。
日本語の文脈にそういう言葉を作って取り込むか。
外国語そのものを取り入れる、もっというなら、外国語で話すようになるか。
後者は「ありえない」と思うかもしれませんが、発展途上国を中心にこういう国、たくさんありますよ。インドとかマレーシアとか。追いつくためには、その考え方を持つ言語が必要。だったら、その言葉が公用語になればいい。でも、そのやり方は、「日本らしさ」日本語によってはじめて表現できる概念を捨てることです。
そうなれば、「日本」を世界がうらやむことはなくなります。ただ、日本は追いかけるだけ。そう言われてみると、先進国って、ちゃんと言語持ってますよね?発展途上国だってありますよ。でも、駆逐されちゃうんです。
戻ります。
日本は、日本語を残しました。そんなことができたのは、漢文を知っていたからです。そもそも、このやり方、日本になじみがあったんです。
日本は、日本語をしゃべっていたのに、中国の字を借りた。その段階で、中国の言葉にくっついた中国の概念が入ってきた。それを漢語として取り入れたり、日本語風にとりこんだり…。いまや私たちには区別ができないくらい。
たとえば、「念ず」とか「困ず」とか、ってサ変動詞なんですけど、音読み+「す」ですよね。これって、「勉強する」みたいな言葉で、中国由来です。こういう言葉と、和語という、中国人にはまったくわからない読み、音、意味の言葉があるわけですね。
その経験が自然だから、翻訳語も平気で入ってきたんですね。だから、日本語には3層あります。
- 和語
- 漢語
- 翻訳語
です。これが混ざり合ってしまって、いまやぼくらには区別できません。たとえば、
「あなた」は和語、「貴様」は漢語由来、みたいな感じ。「感じ」も漢語由来。
そこに、「個人」とか「社会」とかっていう明治以降の翻訳語が入っている。日本語ってすごいんですね。
そして、カタカナ語と英語公用語化の議論
さて、今、日本語にはふたつの波が押し寄せています。
ひとつはカタカナ語。そしてもうひとつは英語公用語の議論です。
まず、カタカナ語ですが、これは翻訳語とはまるで違います。英語が英語のまま入ってくる。これは、日本語の考え方が駆逐されていくことにつながりかねません。
たとえば、さっき「ハグする」というようなことを書きました。もう定着しつつあるかもしれませんね。それは「ハグ」ということが市民権を得ていく過程なんです。そうなれば、「抱きしめる」は駆逐される可能性がでてきます。 生き残ればいいのですが、私たちは残念ながら、よほどの知識人でないかぎり、ひとつの表現にたよります。
きれる、という言葉で、しかる、とか、おこる、が駆逐されるように。
それは、日本的な考え方や日本的常識を失うことになります。
中には、グローバルな社会のためにはそんなの要らない!と考える人もいるでしょう。でも、高度成長を終えて、本当にこれからのグローバル社会の中で、「受容」だけでいいのでしょうか。グローバルだからこそ「発信」が必要なのではないでしょうか。
英語は当然、必要。だからといって、日本語を捨てるようなところにいくことは本当に得策なのか考える必要があります。
翻訳は自己変容
このように、翻訳をするということは、自分の言語と文化、相手の言語と文化、それをきちんと理解する中ではじめて可能になるのです。
自分の言語が文化の中でどういう意味を持ち、それを相手の言語で訳した時、相手の言語でどういう意味を持つか。
相手の言語が相手の文化の中で持つ意味を理解するためには、相手の言語の枠組みで考えなければいけません。英語の先生がよく言う、「英語をそのまま英語で理解する」みたいなことです。でも、それを日本語にしようとするためには、日本語と日本文化の関係もわからなければいけません。
この過程で、自己変容が起こります。英語によって、英語的な文化が、自分の中に入ります。これだけでも、自己変容ですが、これは場合によっては、英語的な私に置き換えるだけの話です。
これを日本語で正確に、誰かに伝えようとするとき、その英語や英語的な文化は、日本語の中にとけこもうとしはじめます。それは簡単なことではありません。なかなか難しい作業のはずです。その過程で、徐々に日本語の文脈がかわる。そして日本語による日本の概念、考え方が変わるんです。
グローバルってそういうこと。
自己変容。伝統としての日本を守りながら、革新としての英語を取り入れる。そして、それは対等に英語の側でも同じ事が起こる。
こういうことが、翻訳による私の変容であり、翻訳の不可能性が可能になる唯一のことなんです。