読むだけで現代文対策をすすめるシリーズ、5回目は、「過去と言語」です。そこから、歴史認識の話に発展させていきます。
前回、前々回と、言語の話、記号の話、そして翻訳の話をしてきました。文化や認識の核となる言語の枠組みを理解することによって、「わたし」というものが見えてくるわけですね。
言語の仕組みと、言語が私たちそのものや文化を規定する、ということがわかったところで、「過去と言語」の関係を考えていきましょう。大森壮蔵さんの文章をもとに、東大の現代文につないでいきましょう。
- 現在は知覚し、過去は言語的に想起される。
- 言語にならない「過去」は存在しない。言語になった「過去」が存在する。
- 過去は作られている。歴史は為政者が作り出す。
- 書かれていない歴史=視点となっていない歴史を考える
- 非在の歴史は、とりあげられれば、為政者の歴史になる
現在は知覚し、過去は言語的に想起される。
「知覚」つまり、感覚や五感にあたるものは、常に現在の中に存在しています。
言葉で書くとなんだか小難しいですが、当たり前のことを書いています。私たちがもっている感覚は、過去を思い出すときには消え去っていて、復活することはありません。
「思い出す」ときには感覚はない。当たり前じゃないですか?昨日食べたカレーライスの味を「思い出す」ときに、その味は復活しませんね。もし、復活するなら、一度食べたおいしいものを、思い出せば、何度でも「おいしい」という感覚が味わうことができてしまいます。
痛みも、音も、見た目も、すべてはその通りに復活するものではありません。
だから、私たちの知覚は、現在の中だけにあるんですね。
私たちは、過去を思い出すとき、自分の中に知覚が再現されるわけではない。自分の中に映像が復活して、それを見ながら描写するわけではない。そんな映像にあたるものは、まったくないとは言わないまでも、少なくともその映像と表現を対照させるような鮮明さは持っていないはずなんですね。
では、過去はどのような形に想起されるのか?
それは、「言葉」として、思い出されるわけです。
たとえば、目の前に何か、参考書でもおいてみてください。その表紙をじっと見ます。「知覚」ですね。今、目の前にあるものを「知覚」しているわけです。
で、それを隠します。さっきのものは過去になりました。さあ、どんな表紙ですか?
目に浮かびますか?
少なくとも写真のようなものが浮かんでそれを言葉にしていくという作業ではないことがわかります。写真のようなものといえばそうですが、かなりそれはぼんやりしていて、あやふやなもののはず。
では、あなたはどんな表紙だと「想起」しましたか?
それは、おそらくかなり「言語」的なものではないですか?
- 〇〇と書いてあった。
- 〇〇の絵があった。
- 〇〇色の表紙だった。
などなど。
まずは、何か映像のようなものが存在してそれを思い浮かべるというのでなく、ただ言語表現が探されていき、その結果映像が浮かぶというような形に近いのです。
言語にならない「過去」は存在しない。言語になった「過去」が存在する。
この作業は言語以前のものが存在しないということです。知覚行動経験は、その瞬間だけにあって、消え去ってしまう。だから、ないのと一緒。
もう一度、書きますが、知覚行動経験がよみがえって、そして、それと言語を照合させるわけではないですよね?だって、昨日食べたカレーライスの味はよみがえってこないわけだから。
だから、わたしたちは、決して「思い出して言語にする」のではなくて、「言語にしてはじめて過去として存在する」わけです。裏返せば、「言葉になっていないものは存在しない」ということですね。
さっきの表紙の話です。あなたはいろんなことを言語として思い出したかもしれない。でも、私が言葉を足します。そうすると…
- 上の方が汚れている
- 右下が折れている
- 表紙のフォントはゴシック
なんていうさっき思い出していなかったことが言語化され、それで「ここに汚れがあって、ここが折れているよね」なんていった瞬間に、あなたの過去には、汚れて折れた表紙ができあがるんです。
不思議でしょ?
つまり、過去は、言語になることによって存在している。言語になるまでは…そうです。忘却されているんですね。
過去は作られている。歴史は為政者が作り出す。
こんな風に考えていくと、過去というものがいかにあいまいなものであるか、気が付きます。
記憶なんて、言語によってつくられているにすぎません。仮にそのことがあっていても、都合の悪いことは消し去っているかもしれません。無意識でそうしているのか、意識的にそうしたのかはともかく、私たちは言語化されたものだけを過去として認識しています。というより、過去というのは経験そのものではなく、一部であるということ。いや、もしかしたら、そもそもが「間違い」である可能性もあります。
たとえば、小さいころの思い出が、友達や親と食い違ったりしません?その人の中では、そうなってしまっている。話しているうちに、つまり、言語にしているうちに、だんだんその言語が過去そのものになって、自分が間違いなくその過去の体験をしたことになるんですね。
そもそも小さいころのあなたと、大きくなったあなたでは、世界の認識の仕方が違います。手に入れた言葉、語彙、知識が違うわけです。
過去を振り返るということは、現在の言葉、語彙、知識で当時を振り返るわけですから、当時持っていなかった視点で、過去を振り返ってしまっているんです。その時にそんな視点はなかったのに、今の視点から過去を取り出すわけですから、人によってずれるのは当たり前です。
これを歴史で考えてみましょう。
まず、そもそも与えられた歴史は本当にありのままなのでしょうか。
そうではありませんね。間違いなく切り取られて形を変えた歴史です。卑弥呼がいなかったとはいわないまでも、似たような豪族で言葉になっていないものもあったかもしれません。聖徳太子が疑わしいというのは、もはや定説ですね。蘇我入鹿や馬子なんていうのも、ちょっと考えればおかしいのはわかります。
でも、書かれたもの、言葉になったものが存在するんですね。
これは「歴史は作られる」というようなこととほとんど同じです。誰が作るかというと為政者。というより、為政者になるためには、歴史が必要なんですね。自らを正当化する過去です。
おこられちゃうかもしれませんが、今の日本の帝が帝たりうるのは、古事記とか日本書紀という歴史書があるからで、その歴史書に帝が帝たりうる血筋が書かれているわけです。そこに正統性と根拠があるわけです。でも、その古事記や日本書紀が全部真実なのかというと、いや、ちょっとねえ…。もちろん「真実」という意味にはいろんなニュアンスがありますが、イザナギやイザナミの神話を、「事実」としての真実と見るのは、無理がありますよね。でも、そういう言語のもとに、帝の正統性はあるわけです。
わかりました?為政者は、言葉を支配し、歴史を支配する。
となれば、国が違えば、当然言語が異なり、視点が異なり、歴史が異なるわけです。特に言葉が違ってしまえば、相対化してみることが難しくなります。私たちは中国や韓国のそれぞれの言語で書かれた歴史に触れないし、中国や韓国の人は日本語で書かれた日本の歴史にふれることはない。ふれたとしても、中国語で書かれた日本人がそうだと思っている歴史に触れるわけで、そのものに触れるのは難しいのがわかります。
複数のそれぞれ正しい過去が存在している、ともいえます。
もちろん、「複数の書かれた歴史が存在している」ともいえると同時に、「書かれていない埋もれた歴史が存在している」ともいえるわけです。
書かれていない歴史=視点となっていない歴史を考える
ぼくらが、過去と認識しているのは、ある取り出されたもの、ある視点によってとらえたものなんですね。
でも、実際には、言葉にはなっていないけど、視点としてとりだされてはいないけど、確かに当時存在していたものがあるわけです。
書かれなかった歴史。非在の歴史。そして、当時は意識されていなかった、視点としてみてもらえなかった歴史や過去です。
歴史というものが為政者によって、都合よく書き換えられる(「書き換える」というのはいい表現ではありませんが、自分の現在の視点によって、とらえ直したり、焦点化したりするなら、結局はある視点から見たとき、書き換えたと同じような効果を持つはずです)ものだとするなら、当然、書かれなかったものに目を向けたり、作り出された視点を疑ってみたり、どうしてそんな視点が生まれるのかを考えたりする必要がありますね。
視点があとから作られるってわかりますか?
たとえば、現代を生きていると「個人」という言葉を持っているし、当たり前のものだし、当然価値を置いているものですよね。この言葉、たとえば「個人」や「自由」や「平等」という視点で、歴史をとらえ直せば、それはある時代における見えなかったものが見える可能性があります。
でもね、実際には、この当たり前の概念は、「なかった」んです。明治より前は。言葉が「ない」ということは「意識されない」ということ。そんな視点でみる人がいない。江戸時代の身分制度や中世の女性の問題、はては庶民の意識まで、そんな視点が「ない」んです。だから、当時は見過ごされる。でも、現代のそういう新たに生まれた視点からみると、価値があるんじゃないかって発見される文章や人物や出来事が見つかったりするんですね。
でも、それは当時に同じ価値があったわけではないんです。視点はあとから作られる。歴史で言うなら、為政者の視点で過去は組み替えられていく。でも、最初にそんな視点はなかったはずなんですね。
非在の歴史を考えていくとすると、たとえば、ホロコーストの問題を考えるなら、当然、被害者の側の言葉は、なかなか歴史の中に組み込まれることはないわけです。為政者側の言葉で歴史は語られるからですね。語られる歴史の中に、弱者の言葉があるわけがない。それは埋もれているわけです。
だからこそ、時代が変わって権力が動けば、あるいは、権力を動かすためにも、私たちは非在の歴史に目を向ける必要があるわけです。
語られなかったけれど、確かに存在していた歴史
ですね。
非在の歴史は、とりあげられれば、為政者の歴史になる
でも、ここで難しいのは、ここにスポットを当てるということは、それが新たな文脈を持った、書かれた歴史になる、ということなんです。
差別と被差別の関係とも似ていますが、虐げられた歴史は、虐げる歴史と表裏一体で、同じ文脈にあるともいえるし、仮に違う文脈であったとしても、それはすでに、今まで存在しなかった新たな視点から書かれた歴史になっているんです。
難しいですね。
要するに、過去の事実は消え去ってしまったわけだから、それを視点抜きに文脈にする、なんていうことはとても難しい。
だからこそ、私たちは常に書かれない歴史がそこにある、と反省しながら物事を見なければいけない。
たとえば、私たち庶民なんて、何の力も持ちません。いてもいなくても同じかもしれない。でも、その文脈に入っていない庶民の動きのひとつひとつが大きな歴史の流れを作っているわけで、だから、私たちは歴史に支配されているだけではなくて、私たちが歴史を作っているともいえる。
たとえば、こんなブログに書いた文章なんて、多くの人に読まれることもなく消えていく。でも、消えていくから意味がないのではない。それが意味がないと思うなら、自分の文脈を歴史にしたいだけで、自分が為政者になりたいというのと一緒。
何も残らなかったとしても、わたしたちの言葉や行動は、ひとつひとつ確かに誰かに影響を与え、誰かの中に引き継がれていく。
ちょうど、私が今、無意識につづっている言葉が、きっとどこかで誰かの影響を受けたように、私の言葉もまた、誰かの無意識の中に生き続けていく。
そんなことを自覚しておきたい。
そして、常に自分の語る視点を相対化していけるか。いかに視点なく、色眼鏡なく、見ることができるか、それは無理な話なんですけど、それでもなお、その視点そのものを抜きにするような、常識を見直していくような、そんな視点を持っておく必要があるんですね。
というわけで、いったん言語の話は終わります。