古文単語を意味分類で覚えるシリーズ、今回は「~ゆ」という形で終わる単語、受身動詞について、理解を深めます。
すでに単語そのものの意味を追うという観点でいうと、ほぼ終わりに近づいています。ここからは注意すべきこととか、知っておくと対応しやすいことなどを中心にまとめていきます。
- 「~ゆ」という動詞は、上代の「ゆ・らゆ」という受身の助動詞を受けた名残の動詞
- 「おぼゆ」は「覚ゆ」より「思ゆ」で意識する
- 「聞こゆ」は「申し上げる」という謙譲語になっていく
- 「見ゆ」と受身文を理解する
- 「見え給ふ」と「御覧ぜらる」の違い
「~ゆ」という動詞は、上代の「ゆ・らゆ」という受身の助動詞を受けた名残の動詞
上代、つまり奈良時代には「ゆ」「らゆ」という受身・可能・自発を表す助動詞がありました。これがついた動詞が「~ゆ」で終わる動詞です。
たとえば、現代語の「消える」とか「燃える」とかも、古文では「消ゆ」とか「燃ゆ」とかになりますよね?こういう動詞って、もうひとつ似た動詞がありますよね?
「消す」とか「燃やす」(古文では「燃す」ですね)とかです。自動詞とか他動詞とか書くと混乱しますか?
もともとは、「~を消す」という動詞だったとして、ここに受身の助動詞の「ゆ」が入る。で「消ゆ」になっていくわけですね。「消される」です。
たとえば「火が」「消される」という状況が自動詞です。これが「火が」「消える」ことですよね。
今日これからやっていくのもそれぞれ他動詞として、
「思ふ」「聞く」「見る」があるわけで、そこが受身の助動詞をともなって自動詞化していくわけです。
「おぼゆ」は「覚ゆ」より「思ゆ」で意識する
さて、それでは一番多様な意味になりうる「おぼゆ」から考えてみましょう。
現代語に直すと「おぼえる」ですから、なんとなく「覚える」と漢字をあてたくなりますが、大元から考えれば「思ふ」の受身形から考えていく方が、わかりやすいと思います。
そうすると、ひとつの意味として、「受け身」の「思われる」がうかびますね。
もうひとつの流れ、こっちの方がメジャーな流れで広がりがあるんですが、「自発」の「自然と思う・自然と思われる」という語が浮かびます。
これ、「痛みを覚える」みたいな形で、現代でも「感じる」という言葉で使いますよね?
これが「自然と思っている」状態と考えると、「思い出される」というような後になっていきます。「思い浮かぶ」というような形ですね。
で、さらに、なんでそうなっていくかというきっかけもここに含まれる訳になるのが、次の「似る」という訳です。「似ている」だから「自然と思い浮かぶ」ということなんでしょうか。
もちろん、この「自然と思い出される」は、「思い出す」すなわち「記憶している」、もっといえば「覚える」になっていくわけですね。
「聞こゆ」は「申し上げる」という謙譲語になっていく
「聞く」は受身にすれば「聞かれる」ですね。したがって、「聞こゆ」を「聞かれる」だと思えば、まずは話がわかりやすくなります。
つまり、「私が誰かに聞かれている」。それは「私が誰かに話している」状態ですね。しかも、なぜ、「聞かれる」のか、あるいは「自然と聞いてしまう」のか、といえば、相手が偉くて、そうして差し上げるのがいいからですね。というわけで、「聞こゆ」はそのまま「申し上げる」と訳すことが普通です。「聞かれる」という訳になることはほぼないし、まして「聞こえる」というような訳になるとずれが生じています。
で、この「申し上げる」という語が基本になって多少意味が広がります。たとえば、「偉い人のお耳にいれる」ってどういうときでしょうか?「お願い申し上げる」なんていうことになりますよね。
それから、「申し上げる」ことが手紙になったりしたら?そうです。「手紙を差し上げる」っていう意味になります。
さらに、「申し上げる」が補助動詞的に「~し申し上げる」って使われるなら、これだって使っていいですよね?
という感じで広がるわけです。
「見ゆ」と受身文を理解する
受身の意味が一番基本になっているのは「見ゆ」です。
まず「見える」という意味がありますが、これは自発系の意味が基本になっています。「自然と見てしまう」という意味がベースになりますね。これが発展すると、「現れる」「やってくる」という意味になります。それから「感じられる」とか「思われる」というような自発ベースの訳にもなりますね。
可能の意味が強いのが、現代の「見える」ですね。「見ることができる」という形になります。
そういう中で一番覚えてほしいのが、受身の「見られる」。「見ゆ」の場合、そもそも「見られる」と訳すケースが多くなります。さらに、これが発展すると「会う」ですね。「現れる」と似ている気がしますが、「会う」のは「私が姿を見られる」ですから受身ベースです。そういう意味がさらに発展すると、「結婚する」という意味にもなりますね、
また「見られる」というのを意訳して自然にすると「見せる」と訳すことが求められるようになります。
「見え給ふ」と「御覧ぜらる」の違い
さて、最後の「見ゆ」ですが、「給ふ」などの敬語表現とセットになって出て来る例をよくみます。
まず「見え給ふ」という表現を考えてみましょう。
「見え」が「見ゆ」であることがわかれば、これは受身表現となります。つまり、主語が「見られる」ということですね。行為の主体は「見る」人。客体は「見られる人」。その客体を主語にしたのが、受身表現です。
あらためて書くと逆に難しく感じますが、大丈夫ですよね?
「見る」という行為をされている人を、主語に書き直したのが、「見られる」という表現です。
補助動詞の「給ふ」は尊敬語ですね。主語に敬意をはらっているわけですから、この場合、「見られる」人が偉い、ということになります。下図の左側です。
誰かが偉い人を見ている。偉い人は見られている。でも、受身で書くときには、主語が偉い人だから「給ふ」をつける、ということですね。
これと区別しなければいけないのが、「御覧ぜらる」という表現です。
これは、「御覧ず」に受身の「らる」がついているんですが、どうしてこうなるんでしょうか?
まず「見る」が「御覧ず」になった理由を考えます。それは、偉い人が見ているから、尊敬語をここに使う必要があったわけですね。ということを、見られている人がされているわけです。ややこしいですね。見られているわけです。
この人は偉くない。だから「給ふ」はつきませんね。
つまり、偉い人が偉くない人を「見る」、正確には「御覧ず」。その状況を見られている、正確には「御覧ず」というこをされている、と書くと「御覧ぜらる」になるんですね。
さて、これ、もうひとつ厄介なことがありまして、なんて訳すかです。
そのままやると「御覧になられる」みたいになりません?なんだか、間違った敬語表現みたいですよね。(「お~になる」が尊敬語、「~られる」が尊敬語ですが、普通はどっちかでいいので、両方つけると過剰ですね)
偉い人に自分が見られる。でも、この「見られる」に「御覧になる」をいれるとちょっと変になるんです。というわけで、こういうときは「御覧になっていただく」と訳すわけですね。
このほかにも「尊敬語」に「る・らる」がつくことはありますが、たいていはこういう図式です。ただし、「る・らる」が必ず受身ではないですね。まず、尊敬にはなりません。二重尊敬は「せ給ふ」「させ給ふ」「しめ給ふ」が原則ですから。(補助動詞の「給ふ」に「おはします」とかをあてることも可能ですね。)
なので、受身でなければ、自発あたりがあやしいことにはなります。