古文助動詞の、得点を積み上げるための説明をしていきます。MARCH以上の文法出題や本文読解のための実践的な説明です。今回は「き」「けり」の違いです。
古典文法は重要だよ、と言われてはいますが、実際に入試問題を解くときに、どのように使うのか、どうやって生きてくるのかが、あまり説明されていないような気がしています。
ここまで基本的なことを中心に、「わからない時に品詞分解をする。品詞分解は以下のようにする。そのために、文法はこうやって理解していく」というような展開をしてきました。
まず、そのあたりが不安な人は一通り読んでください。
しかし、こうした文法的な知識が、高度な文法題として、あるいは文章読解のための基礎知識として必要になることがあるんですね。
そういう部分を少し、具体的に説明していきたいと思います。
今日は過去の助動詞の「き」「けり」について、考えます。
- 直接体験の「き」、間接経験・伝聞の「けり」と知っている人は多いが、実際にどう使うのか?
- 「き」は回想。回想シーンは現在との対比~讃岐典侍日記と更級日記
- 実際に見ているか、見ていないか?~大鏡で検証
- 直接経験しているはずなのに、なぜか「けり」が使われている…ということは詠嘆。~土佐日記
直接体験の「き」、間接経験・伝聞の「けり」と知っている人は多いが、実際にどう使うのか?
ある程度、受験勉強をしていると、過去の助動詞の「き」と「けり」の違いを説明できるようになるようです。
おそらく、学校の先生や予備校の先生、あるいは参考書などに言及があるのでしょう。
き…直接経験したことに使う
けり…伝聞的で、自分が直接経験していないときに使う
というような感じですね。
しかし、訳してしまえば、両方「~た」ですから、その違いを知っていることのメリットが生きていないような気がします。
もし、訳し分けが必要なら、これは大事な知識です。推量系の助動詞が、「~よう・意志」「~だろう・推量」「~ような・婉曲」と訳し分けが起こることの方が大事で、結局同じ「~た」にしてしまうなら、「そんな細かいこといらないよね」ということになります。
では、この文法的知識はどのように使うべきなのでしょうか。
「き」は回想。回想シーンは現在との対比~讃岐典侍日記と更級日記
まずは、読解に実践的に役立つ部分を説明しましょう。
「き・し・しか」が直接経験であるということは、「回想」であるということです。経験をしていないものは、回想はできませんね。
では、どんな時に回想するかというと、それは「現在との対比」なんです。
つまり、現在と過去が違うときに、回想する。
たとえば、「昨日は雨だった」という。それは、「今日が晴れている」からです。
「昨日は楽しかったなあ」という。それは「今日が楽しくない」からです。
納得できない?たとえば、好きな女の子とデートしていて、楽しいときに、昔別の女の子とデートして楽しかったことを思い出す場合は、「両方「楽しい」じゃないか」って?
ちがいます。「昔はこんな風に楽しかった」けど、「今はこんな風に楽しいんだ」ですね。
だから、対比です。もちろん、それは、今やったことから、昔やった同じようなことが回想されることでもありますから、必ずしも完全な違いではありませんが、それでもある程度の対比ではあります。
で、もっというと、たいていの場合、「不幸の現在と幸せな過去」の対比であることが多いんですね。
では、実際に読解してみましょう。
まずは讃岐典侍日記です。讃岐典侍日記は、作者が堀河帝が亡くなった後、幼帝鳥羽帝に出仕したときの話です。したがって、帝が二人。普通は、二重尊敬「せ給ふ・させ給ふ」によって、帝が主語であることを見分けますが、二人になるとできなくなります。
では、実際に見てみましょう。
かくて長月になりぬ。九日、御節供參らせなどして十餘日にもなりぬ。つれづれなるひるつかた、くらべやの方を見やれば、御經教へさせ給ふとて、「よみし經をよくしたためてとらせん」と仰せられて、御おこなひのついでに二間にて、たちておはしまして、認めさせ給ひて、局におりたりしに、御經したためてもて參りてわらはれんとておりし召して、餘りなるまでかしづかせ給ひし御事は思ひ出でらるるに、御前におはしまして、「われ抱きて障子の繪見せよ」と仰せらるれば、よろづさむる心地すれど、朝餉の御障子の繪御覽ぜさせありくに、夜のおとどの壁に、あけくれ目なれて覺えんとおぼしたりし樂を書きて押付けさせ給へりし笛の譜の押されたるあとの壁にあるを見つけたるぞあはれなる。
笛のねのおされし壁のあと見れば過ぎにし事は夢と覺ゆる
悲しくて袖を顏におしあつるを、怪しげに御覽ずれば、心得させ參らせじとて、さりげなくもてなしつ、「あくびをせられて、かく目に涙のうきたる」と申せば、「みな知りてさぶらふ」と仰せらるるに、あはれにもかたじけなくも覺えさせ給ヘば、「いかに知らせ給ヘるぞ」と申せば、「ほ文字のり文字のこと思ひ出でたるなめり」と仰せらるるは堀河院の御事とよく心得させ給へると思ふも、うつくしくて、あはれにさめぬる心地してぞ笑まるる。かくて九月もはかなく過ぎぬ。
簡単にいうと、作者が鳥羽帝を抱きかかえながら、今は亡き堀河帝を思い出しているシーンです。
残念ながら主語がありません。逆に言えば作者は、十分書き分けられていると考えているのでしょう。
赤でかいてあるところが、最後に「~し」と過去の助動詞「き」で受けているところです。途中「~て~て」というところには、過去の助動詞は入れられなくて、最後だけですよね、現代語でも。「昨日、やってきて、おどって、うたって、騒いだの。」みたいに。
というわけで、過去の助動詞「~し」があるところを赤、逆にないけど、二重尊敬のところを青にしてみました。
赤のところが回想、つまり、堀河帝が主語。
青のところが現在、つまり、鳥羽帝が主語。
だいぶすっきりしませんか?讃岐典侍日記はこのテクニック、必要ですよ。
では、次に、更級日記を見てみましょう。この作品は日記というタイトルがついていますが、「自分史」です。そもそもが過去を振り返っている作品なので、現在の視点と過去の視点があるんですね。
では見てみましょう。
九月廿五日よりわづらひいでて、十月五日に夢のやうに見ないて思ふ心地、世の中に又たぐひある事ともおぼえず。初瀬に鏡たてまつりしに、ふしまろび、泣きたる影の見えけむは、これにこそはありけれ。うれしげなりけむ影は、来し方もなかりき。今ゆくすゑは、あべいやうもなし。廿三日、はかなく雲煙になす夜、去年の秋、いみじくしたて、かしづかれて、うち添ひてくだりしを見やりしを、いと黒き衣の上に、ゆゝしげなるものを着て、車のともに、泣くゝゝあゆみ出でて行くを、見いだして思ひ出づる心地、すべてたとヘむ方なきまゝに、やがて夢路にまどひてぞ思ふに、その人や見にけむかし。
昔より、よしなき物語、歌のことをのみ心にしめで、夜昼思ひて、おこなひをせましかば、いとかゝる夢の世をば見ずもやあらまし。初瀬にて、前のたび、「稲荷より賜ふしるしの杉よ」とて、投げいでられしを、出でしまゝに稲荷に詣でたらましかば、かゝらずやあらまし。年ごろ、「天照御神を念じたてまつれ」と見ゆる夢は、人の御乳母して内わたりにあり、帝きさきの御かげに隠るベきさまをのみ、夢ときも合はせしかども、そのことは一つかなはでやみぬ。たゞかなしげなりと見し鏡の影のみたがはぬ、あはれに心憂し。かうのみ、心に物のかなふ方なうてやみぬる人なれば、功徳もつくらずなどしてたゞよふ。
更級日記の終盤です。最初、わかりますかね?夫が亡くなるシーンなんですね。「わづらふ」とかあるし、なんとなくわかったかな?
一か所とばして、「去年の秋」というところが、回想シーンです。そのあとが「泣く泣くあゆみ出でて行くを見出して」となりますから、これが現在。つまり、今は喪服で泣きながら歩くのを見ている。そこに対比される過去は、「いみじくしたて、かしづかれて」です。「かしづく」は「大事に育てる」という単語ですから、ちょっと意訳して「おめかしをして、立派に(いいとこのおぼっちゃんのように、王子さまのように)歩いている」という感じでしょうか。
もどって、その前の部分と、あとはそのあとは、見た夢のことを言っているんですね。夢でこんなことを「見た」。でも「当たらなかった」という感じ。それが現在になれば「かなわないだろう」と推測したり、悲しいと言ってみたりするわけです。いい夢を見た、という過去と、そうでない現在という対比とも言えます。
過去の助動詞「き・し・しか」で、現在との対比、過去が挿入されている感じ、わかりましたか?
実際に見ているか、見ていないか?~大鏡で検証
さて、では少しマニアックにせめてみましょうか。入試問題としてはレベルが高くて問われないかもしれないですね。
では、大鏡を使ってやってみます。花山院の出家ですね。
寛和二年丙戌六月廾二日の夜、あさましくさぶらひしことは、人にもしらせさせ給はで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせたまへりしこそ、御年十九。よをたもたせ給事、二年。そのゝち廾二年おはしましき。
あはれなることは、おりおはしましけるよは、ふぢつぼのうゑの御つぼねの小戸よりいでさせたまひけるに、ありあけの月のいみじくあかゝりければ、「顕証にこそありけれ。いかゞすベからん」とおほせられけるを、「さりとて、とまらせたまふべきやう侍らず。神璽・宝剣わたり給ぬるには」と、あはたどのゝさはがし申給けるは、まだ御かどいでさせおはしまさゞりけるさきに、てづからとりて、春宮の御かたにわたしたてまつり給てければ、かへりいらせ給はんことはあるまじくおぼして、しか申させたまひけるとぞ。
同じシーンであるはずなんですが、なぜか「き」が使われている前半と「けり」が使われる後半なんですね。
何が違うんでしょうか?
前半は史実であり、それに対して自分が思ったことですね。史実は、直接経験したわけではないけど、自分が自信を持って言えること。
それに対して後半は、明らかに「実際に自分が見たわけではない」ということですね。というか、見ていたら大変。おまえは何物だっていう話です。
だから、こういうところは「見てないよ」って示す「けり」になるわけです。
直接経験しているはずなのに、なぜか「けり」が使われている…ということは詠嘆。~土佐日記
さて、戻りまして、もう少し入試で得点につながることをやっていきましょう。
「き」、つまり、「き・し・しか」があるときは直接自分が経験したこと、あるいはかなり確信のあること、ということになるわけですね。
では、明らかに直接体験しているはずなのに、「けり」があるケースはどう考えるべきでしょうか。
土佐日記でやってみましょう。
京にいりたちてうれし。いへにいたりて、かどにいるに、つきあかければ、いとよくありさまみゆ。きゝしよりもまして、いふかひなくぞこぼれやぶれたる。いヘに、あづけたりつるひとのこゝろも、あれたるなりけり。なかがきこそあれ、ひとついへのやうなれば、のぞみてあづかれるなり。さるは、たよりごとに、ものもたえずえさせたり。こよひ、「かかること。」と、こわだかにものもいはせず。いとはつらくみゆれど、こゝろざしはせんとす。さて、いけめいてくぼまり、みづつけるところあり。ほとりにまつもありき。いつとせむとせのうちに、千とせやすぎにけん、かたヘはなくなりにけり。
さて、「けり」があるのは二カ所です。
最初が「あれたるなりけり」です。家が荒れている、というのは絶対に見ているはずですから、間接経験とするのは無理があります。
次が、「なくなりにけり」ですね。「なくなってしまった」と訳すのは適当ではあります。「なくなる」と考えて、「なる」が「なり」になるのは「なりて」ですから、連用形。だから、次にくるのは連用形接続の何かで、だとすれば「き・つ・ぬ・けむ・たし・けり・たり」のどれかとすれば、「ぬ」。「ぬ」は、「つ・ぬ」で完了ですね。
で、ここまではいいんです。そのあと、過去で「てしまった」ですよね?
でもね、この知識を入れると、見ているに決まっているわけで、だったら、「なくなりにき」と「き」を使うべきなんですよね。
というわけで、こういうときは、詠嘆で訳したい。最後に「~なあ」みたいな感じにしたい。たとえば、「~べかりけり」みたいに推量、つまり、「will」と一緒になれば、過去と扱うことの無理がわかると思います。こういう時も「~なあ」という感じで詠嘆で取りたい。
だから、過去ではあるけれど、やっぱり、絶対直接見ているよねという時は詠嘆でとることをおすすめします。
というわけで、今日は、「き」「けり」の違いをどう使うかでした。
少しでも得点につながることを期待します。