国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

古典文学史 歴史物語と説話の説明。平安時代の文学史

古典文学史はそろそろ中世に入っていきたいところですが、平安時代のラストにここまで説明が不足している歴史物語と説話を補っておきます。

ここまで、文学史は次のような展開ですすんでおります。

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まずは、源氏物語を中心に、作者の人間関係を中心に、成立順を整理しました。まずは、これで、成立順を整理しましょう。源氏より前か、後か、という問題は死ぬほど出ますので。

次はこれ。

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 ここに八代集を重ねつつ、成立順を整理して、それぞれの作品のあらすじをまとめました。こういうことを知っていると、読解が楽になりますし、もっというと、蜻蛉日記あたりは知らないと悲惨な目にあいます。出題者は「常識」と思って、本文にまったく書いていない「兼家」とか「道綱」とか選択肢に入れてきますから。枕草子なら「中宮定子」とか平気で選択肢にありますよね?常識と思っているからです。

というわけで、今日は説明が不足気味の部分を補いたいと思います。

 

「栄花物語」と「大鏡」

歴史物語のツートップといえば、「栄花物語」と「大鏡」です。この二つは、ほぼ同じ時期の同じ内容を扱っています。よく編年体と紀伝体というような説明がされます。

編年体=要は年代順に書いていくもの

紀伝体=帝という編年に、臣下の列伝をあわせていく、要は人を中心に書いていくもの

ということではありますが、まずは、内容的なところを見ておきましょう。両方とも多少の扱う時期の違いはありますが、要は藤原道長を中心とした歴史を描いているというところでは共通点があります。

順番は逆になりますが、まずは大鏡から。

「大鏡」

これは、雲林院の菩提講に作者がでかけたところ、大宅世継と夏山繁樹という齢200歳にせまるおじいちゃん二人が、昔を語り合う。そばにいる作者がそれを書きとめたという体をとっております。

作者不詳で、この設定の意味

大鏡は作者不詳です。そして、この設定。つまり「おじいちゃん二人が話していたことを作者が偶然聞いて書きとめる」という設定。

なんで、こんなことになるかといえば、おそらく意図的なものでしょう。

つまり、自分が書いたということをふせたい。もしばれたとしても、「いえ、私が書いたんじゃありません。おじいちゃんたちが言ってたんで、私が言ってたんじゃないんで、私のせいじゃないです」的な言い訳をしたかったんでしょうね。

なんとなく、わかると思いますが、これは、時の権力者、藤原道長に対して、多少なりとも批判的なニュアンスを書いているからです。たとえば、菅原道真が流されたあたりでも、明らかに道真よりで、はめられた感満載で書きますが、こういう書き方って、権力批判にはなりますよね。もちろん、その人たちは死んでいるにしても、その権力機構は残っているわけで、結構危ない。だから、隠したんでしょう。

もちろん、「大鏡」が「批判精神に満ちている」というのは間違い。批判的なことも臆さず書く、ぐらいが正しい。間違っている、なんて書いていないけど、批判ととられても仕方がないようなことも、翁の感想として入り込んでくる、という程度です。

花山帝の出家も教科書でよく扱いますが、明らかに「はめられた」ということは書くわけです。それがいいか悪いかまでは書いてないけど、「はめられた」感が出ている段階で批判といえば批判。そして、翁が感想を述べてしまうのも、批判といえば批判です。この程度ですが、でも、これは結構大きいことなんですね。

大鏡を読む時の注意~地の文が壮大な会話文

もうひとつ、気をつけなければいけないのは、これが壮大な会話文ということです。何が問題かというと敬語の話が絡んできます。

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 ちょうど、このぐらいまで進めていますが、敬語は、地の文か、会話文かで、敬語の扱いが異なります。

地の文=身分が原則的に重要。偉い人に敬語がつく。

会話文=話者の気分が重要。尊敬する人に敬語をつける。

という違いがあります。(もちろんいろいろな組み合わせがあるんですけど)

でも、この「大鏡」は地の文に見えているところが、そもそも、世継か繁樹の会話文なわけで、そのあたりで、この人たちの「気分」が敬語に出てしまいます。たとえば、さきほどの道真が流される話なんていうのは、道真に同情的なので、二重尊敬を使っちゃいます。で、相手の左大臣はただの尊敬で、このあたり、身分と敬意が逆転するっていうか、二重尊敬は、そもそも帝か宮ですから、会話文でなければありえない展開です。

敬語を勉強していない人にはどうでもいいことですが、敬語を勉強して敬語から主客をとろうとする人には死活問題なので、覚えておいてくださいね。

 「栄花物語」

栄花物語も実は作者不詳です。そして、内容的にも批判的なものがないわけではありません。ただし、これは道長に敗れたものに対する同情、といったようなイメージです。女性的、なんていう風にしるされることもあります。

でも、このタイトル。

「栄花物語」です。これは、「藤原道長様の栄華を描きましたよ」とタイトルについているということ。このあたりを考えると、かなり権力に媚びているイメージがあることは間違いありません。

どちらの成立が先か?

というわけで、以上を踏まえると、どちらが先の成立でしょうか?

そうです。

権力にこびる必要があるのは、権力に近いから。逆に批判ができるようになるのは、その人たちの権力から離れたから、です。

つまり、大鏡の方があと。おそらく栄花物語を参考にしつつ、大鏡は書かれたのではないかと言われています。もしかしたら、書きなおす必要があった、ということかもしれませんね。

 

歴史物語の成立順と扱っている時代の問題

さて、よく文学史で言われている鏡物=歴史物語の覚え方は「だいこんみずまし」ですね。「大・今・水・増」で、大鏡・今鏡・水鏡・増鏡の順で成立した、ということです。でも、思ったより試験には出ません。

ちなみにですが、扱っている時代は、この順番と一緒ではないです。

まず、大鏡が道長の時代を中心に描きます。

今鏡はその続編。つまり「パート2」です。その続き、ですね。

そして、水鏡ですが、これ、映画でよくあるパターンですが、「パート3」は続きにならない。そうなんです。「エピソード0」になるんですよね。まったく同じで、いったん戻ります。というか、おそらく、書くには時代が進んでくれないといけないので、書くことないから、昔に戻りました、ということでしょう。

それをはさんで、増鏡は、パート3になるんですが、映画もそうですけど、この辺になると、最初の名作感がなくなって、「つまんないよね」となって、大体終わっちゃう。スターウォーズはこう考えると頑張ってますが、よほどのファンじゃないと、熱狂の中にはもういないのとよく似ています。

戻りましょう。

入試で出るのは、源氏より前か後か、平安時代より後かどうか、です。

当然、源氏より後。だって、道長の栄華を描いていて、源氏といえば道長の子、彰子についた紫式部、ですからね。源氏成立を1000年として、齢200歳のおじいちゃんが昔を語るとすれば、1100年ぐらい、といったところでしょう。

これでまず覚えます。

続編の今鏡が、そのあとの100年を受け持つとして、まあ、100年きざみぐらいが覚えやすいのと、100年ぐらいないと物語が書けないですよね。紀伝体で、人を中心にやると。

で、そうなると、ここですでに平安時代が終わります。というわけで、残り二つが中世に入っていることになるわけです。

大丈夫ですか?

このぐらいの感じ、大体100年ぐらいのスパンで物事考えておけばいいんじゃないかな、って思います。

 

説話をまとめて整理

 もうひとつ、ここまで無視していたものに、説話があります。説話そのものが問われたり、文学史の確認に使われたりすることは少ない気がするんですが、選択肢の中には意外と入っている気がするので、確認しておきたいと思います。

説話2トップは「今昔物語」と「宇治拾遺物語」

このふたつのイメージは「昔話」。こぶとりじいさんとかが入っているのが、宇治拾遺物語。

説話の中で、一番出題頻度が高いのは、この二つでしょう。このふたつが、平安末期、鎌倉初期の成立となっています。

つまり、

今昔物語=平安末期=大鏡と同じころ

宇治拾遺物語=鎌倉時代初期

ということになります。

実はこれが結構大事。

なぜなら、文学史の出題は、成立順を問うことが非常に多いからです。この場合、重要なのは、どっちが先か、ではなく、「平安時代」と「鎌倉時代」という、明確な線引きが生まれることです。選択肢としてみたときにこれが重要な分かれ目になります。

平安期の作品「日本霊異記」

そういう意味でみたとき、意外と選択肢に名を連ねるのが、「日本霊異記」。成立は平安時代前から平安初期。

すごく古い物語作品なんです。つまり、「ものすごく古い」イメージ。

これより前になってくると、古事記、日本書紀の世界になってきます。だから、この作品名は頭に入れておいた方がいいですよ。よく使われますから。

中世・鎌倉時代以降の作品「発心集」「閑居友」「十訓抄」「古今著聞集」「沙石集」

逆に平安期を越えてくると、こんな感じの名前です。名前が仏教的、教訓的になってきませんか?

イメージでいうなら、お説教です。こんなことになってくるのも、時代が鎌倉時代で仏教の大衆化を迎えていることと無関係ではないでしょう。もちろん、今昔物語や宇治拾遺物語にも、仏教説話はありますから、はじめて仏教が入ってくるというわけではありません。でも、色が強くなってくるのは間違いない。発心集、沙石集は仏教説話として把握しておいた方がよいと思います。

発心集は鴨長明。鴨長明といえば、方丈記ですから、これ以外の作品として頭にいれておきたい。筆者からの出題があるとするなら、古今著聞集で、橘成孝(たちばなのなりすえ)でしょうね。

近世に入れば、「御伽草紙」や上田秋成へ

江戸時代になると、さまざまな物語が生まれます。上田秋成をここにいれていいかどうかは迷いますが、上田秋成は文学史では頻出ですね。このあたりは江戸時代、というひとつのくくりで出ることが多いので、その時にまとめて説明します。