国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

読解と文法・単語の両方が必要!大鏡「花山院の出家」で、実践練習2

今日は、大鏡「花山院の出家」を使った読解練習の2回目です。読解自体の練習と、それから文法知識を組み合わせた実践をしてみます。

前回に読解練習を実践的にやってみました。当然、読む練習とともに文法的な知識が必要になってきます。もちろん、試験で得点をとるということになれば、単語や文法の知識こそがより重要な役割をはたしてきます。

それでは実践練習を続けていきましょう!

 

読解は「二度読む!」~わかるところから話を理解する

前回の話はこちら。

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  次の帝、花山院天皇と申しき。永観二年八月二十八日、位につかせ給ふ。御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせさせ給はで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしこそ。御年十九。世を保たせ給ふこと二年。そののち二十二年おはしましき。

 あはれなることは、下りおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戸より出でさせ給ひけるに、有明けの月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽・宝剣渡り給ひぬるには。」と、粟田殿の騒がし申し給ひけるは、まだ帝出でさせおはしまさざりける先に、手づから取りて、春宮の御方に渡し奉り給ひてければ、帰り入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。

 さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月の顔にむら雲のかかりて、少し暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなりけり。」と仰せられて、歩み出でさせ給ふほどに、弘徽殿女御の御文の、日ごろ破り残して、御身も放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の、「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうで来なむ。」と、そら泣きし給ひけるは。

 さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前を渡らせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝下りさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束疾うせよ。」と言ふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「かつがつ、式神一人内裏に参れ。」と申しければ、目には見えぬものの、戸を押し開けて、御後ろをや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」と答へけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。

 花山寺におはしまし着きて、御髪下ろさせ給ひてのちにぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「我をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、「御弟子にて候はむ。」と契りて、すかし申し給ひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、もしさることやし給ふと危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺りよりぞうち出で参りける。寺などにては、もし、おして人などやなし奉るとて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。

前回は前半を中心に理解しました。

たとえば、いきなり

藤壺の上の御局の小戸より出でさせ給ひけるに、有明けの月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、

と始まるわけですが、「有明の月」とか、「顕証」とかくると、ちょっとしたパニックになるわけですね。

もちろん、「有明の月」ぐらい知っていなければ当然だめです。かつて、ここが明治で出たときには、ここが空所であけられて、正しい「月」を選ばなければいけない問題が出ましたから。

でも、日付が違っていれば、あるいは時間が違っていれば、他の月でもいいわけで、本当は重要なのは「いみじく明かかりければ」の方ですね。

「顕証」という単語は、「わかるべき」という先生もいると思うんですが、他の文章で見たことがあるかと言われれば、あんまり見たことはないです。

だから、ここが単語としてわかる、ということではないと私は思います。漢字見て、見当をつけていますが、それだって話がわかるからです。

というのを、推測しようという話でした。

では、今日は、前回でも少しやった後半を考えてみます。

花山寺におはしまし着きて、御髪下ろさせ給ひてのちにぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、必ず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「我をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。日ごろ、よく、「御弟子にて候はむ。」と契りて、すかし申し給ひけむが恐ろしさよ。東三条殿は、もしさることやし給ふと危ふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺りよりぞうち出で参りける。寺などにては、もし、おして人などやなし奉るとて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。

最後の方が、生徒が混乱するあたりですね。

さて、いったい何がわかって、何がわからないのでしょうか?こういうあたりをはっきりさせることが重要な作業です。もちろん、ここには文法的な知識が必要なんですが、今回は、ここははっきりと分けてしまって(つまり、本当は同時にやるべきなんですが)取り組みたいと思います。

まず、赤の部分の主語は「東三条殿」です。これが「粟田殿」の父であるということはおそらく注で与えられるはずです。ここではっきりわかることは「危ふさ」です。つまり、東三条殿、父は、何かを心配している、危ないと思っている、ということになります。

その結果、したことが黒の部分。ここ、実はわかる部分です。「源氏の武者」を「送り」に添えたと。

何かが危ういからです。

逆に言うと、わからないのは「さることやし給ふ。」誰が何をするのか?実はこれがわからないわけです。

では、青に進みましょう。実は、意外とわかるのは「守り申しける」です。だって、「まもる」ですもん。本当は「もる」ですけど、それはさておき「守ってる」んですよね。しかも直前に、刀を抜く、というような表現がありますから、さっきの「源氏の武者」となんとなくつながってくる。

そうか、お父さんは、何かを心配して、源氏の武者をつけた…。そして、それは何か、あるいは誰かを守っている…。

こんな感じです。

このあと、文法的な知識を使ってつめていきますが、ここをフィーリングで考えるなら、

東三条殿、父は、何を心配し、何を守るか?というあたりになるわけですね。

これ、実はフィーリング的には、「息子」じゃないでしょうか?

だから、何を心配しているんだろう?ということになります。

厄介なのは、最初が「もしさることやし給ふ」となっていることです。だから、感覚的に「息子がもしかしたら、そんな帝をだますようなとんでもないことをするんじゃないか」と思っちゃうんですね。

でも、そう考えると、武者が何を守っているかわからないし、「送り」とかがよくわからない。

当然、「もし、おして人などやなし奉る」もつながらない。

守るっていう感覚からすれば、息子のはずなんですが、「守る」があるのは最後ですから、気がつかないと、この解釈でぐるぐる回るイメージではないかな、と推測します。

違います?

 

文法的知識を使って~品詞分解をきちんとして~話を確定する

では、文法的知識を使いましょう。解釈としては、「父が息子を守る」という感覚でいきたい。

なので、確定する順番としては、こちらからやってみましょう。

「もし、おして人などやなし奉る」

です。

まずは直訳するしかありません。

「おして」って何でしょう?押して?推して?実はどっちでも同じですね。他に想像できません。

次、「や」があります。疑問文ですね。

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つまり、「人なんかが~か」という感じ。

次です。「なし奉る」です。直訳すると「なし申しあげる」。

というわけで、「もし、人なんかがなし申し上げるのか」です。

…。

よくわかりません。

文法的知識が使い切れていません。まず、「奉る」は謙譲語ですから、「偉い人を」です。

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つまり、誰か=人、が「偉い人を」なし申し上げる、ということ。

こうなった瞬間にもうひとつの文法・単語的事項が見えてきます。

そうです。「なし」って「なす」ですよね?

「偉い人を」「なす」って、何かが欠けています。

偉い人を「何かに」成す。

じゃないですか?

それを心配して、お父さんが源氏の武者をつけています。場所は?

寺です。花山寺しかないですよ。

寺で何が起こるんでしょう?誰が誰を何に成すんでしょう?

前に行きましょう。お父さんは心配していました。

「もしさることやし給ふ」

もしかしたら、そんなこをしなさるのではないか、です。「や」は疑問ですよ。

主語は「偉い人が」ですね。

当然、最初に予測したように、ここは粟田殿の確率が高い。だから、「粟田殿が帝をだますようなことをするんじゃないか」と思ってしまったわけです。

でも、それでは合わない。

つまり、お父さんは、「寺に行ったら、粟田殿がもしかしたら、そんなことをするかもしれない」と心配しているわけです。

帝をだまして出家させた粟田殿が約束通り戻ったら…です。

もう、わかりましたね。

後半の何に成すか?当然、出家させること。

前半の何をしなさるのか?当然、出家すること。

ですね。

だって、戻ったら出家すると言いましたから。帝や周辺に言われるかもしれないし、粟田殿もなんとなく流されてしまうかもしれない。

というわけで、これさえも、会話文の約束からの推測という意味では読解力です。でも、確定していくのは、文法と単語です。

この感じ、わかりました?

 

大鏡は壮大な会話文

敬語について、簡単に説明しましたが、大鏡は壮大な会話文ということもあり、結構敬語の感覚はいい加減です。練習するんだったら、まずは枕草子が一番。言語意識が高いと思います。間違えない。

さて、気になることをいくつか書きます。

冒頭は過去の助動詞は「き」。次からは「けり」。

過去の助動詞の「き」は直接経験といいますが、確信のあること、自信のあることにつけます。だから、冒頭の史実の記述は、過去の助動詞は「き」ですね。

ところが、臨場感のある、帝と粟田殿の会話は「けり」です。だって見たわけではないですからね。大鏡は、こういうのを結構緻密にやるので、勉強になります。いい教材もあるんですが、また、それはそのときにやりましょう。

安倍晴明のシーン、式神は結構立ち位置が難しい…

安倍晴明のシーンです。

  さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前を渡らせ給へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝下りさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束疾うせよ。」と言ふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。「かつがつ、式神一人内裏に参れ。」と申しければ、目には見えぬものの、戸を押し開けて、御後ろをや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」と答へけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。

 まず、最初の文ですが、

「率て出だし参らせ給ふに」とありますが、「ひきいる」「出す」という言葉からすれば、主語は、粟田殿です。とすると、尊敬語はひとつでいいですから「給ふ」のみ。つまり、「参らせ」と一語とみて、謙譲の補助動詞とみるのがいいですね。

次は、「渡ら」「せ」「給ふ」で、二重尊敬とみていいと思います。使役ととれなくもないですが、そうだとすると謙譲語がないのが説明しにくい。だって、「帝を」渡らせるんですよね…。「思し召し」も二重尊敬系ですから、帝。もし聞いていたなら、帝はあわれに思ったろう…という部分です。

次です。

清明は敬語がないです。「手を」「打ちて」「と言ふ」と敬語なしですね。で、その声を聞くのは帝。「聞か」「せ」「給ひ」「けむ」ですから、二重尊敬としないと、「聞かせた」ことになってしまいます。もちろん、確証がないので、推量ですね。

清明は、式神に対して「参れ」と尊敬語はつけません。部下っぽい感じ。これに呼応するのは、「見参らせけむ」と「答へけり」です。尊敬語がないですね。

ところが、「申しければ」はどう解するか?

言った相手は、式神ですから、式神に対する敬意ととるしかないですが、これが会話文だとわかると、変わります。大丈夫ですか?地の文は、大鏡では、会話文ですから。

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これ、会話文中の「申す」ととることもできますよね?つまり、聞き手に対する敬意と解する方が自然だと思います。まあね、神様だから雰囲気で尊敬語ついた、つまり、清明は敬語使わないけど、語り手はつけたと言えなくもないけど、だとすると、「答へけり」の説明がつかない。混同したっていってもいいんですけど…。

というような説明をしておきます。テストの参考になったかな?