国語の真似び(まねび) 受験と授業の国語の学習方法 

中学受験から大学受験までを対象として国語の学習方法を説明します。現代文、古文、漢文、そして小論文や作文、漢字まで楽しく学習しましょう!

読むだけで、現代文(国語)の成績をあげよう!その2「私と身体」

現代文の発想と考え方を学ぶシリーズは、自己の理解から始まります。今日は、「自己の身体」について学びます。

前回は、まず、「私」というものそのものについて、考えました。

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今日はその延長線上で、身体について学びます。身体論なんていう形で語られますが、この間の話と重なることも多いので、前回のものはしっかり読んでくださいね。

 

今日のテーマがよく出る学部系統

今日のテーマがよく出るのは、しいていうなら文学部系統ですが、やはり、自己に関わるものは、センターを中心とした大学が問題を作っている大学では全般的に出題されています。だから、みなさんがわかっているべきテーマになりますね。

身体と精神って本当?身体と精神は統合されている。

市川浩の「身」~身体は統合されていく

身体という言葉は、対義語としての精神をイメージさせる言葉です。わたしたちは、精神と身体を分けて、別のものとしてとらえています。でも、本当にそれは正しいことでしょうか。教科書にもよく載っている市川浩さんは、赤ちゃんの例を出します。

赤ちゃんが、手遊びをしたり、足をなめたり、手を加えたりする。あれって、自分の手や足を確認しているからではないかと。

だって、見えている手が自分の手、って当たり前に見えて本当にそうですか?だって、自分て見えないですよ。目の前に手がある。でも、その手が自分のものって言えます?

「つながっている」?。どこに?

自分に?自分て何?自分がどこに見えます?

自分が動かす。動く。あれ、ぼくなの?じゃあ、これは動かない。ぼくじゃないのか?食べてみる。口にしか感覚がない。こっちは?うわあ、なめられている感じがする…こういうことを赤ちゃんはやっているんじゃないのか。

ぼくたちは動く手と見えている手が寸分たがわず、同じものだと思っている。でも、考えてみれば、どうしてそう見えるんだろう?

二人羽織のように、誰かがうしろから手を出したら、見ているだけなら、どっちが自分の手かわからないはず。でも、ぼくたちは、いつの間にか見えている手と動く手が同一だと思っているわけです。

心と体が一致したものとして、実は存在しているわけで、それを僕たちは「心」と「体」としてわけるけれど、本当は区別できないんじゃないのか、と思うわけですね。

味ってどこで感じるか?味覚で感じるのか?

たとえば、味について考えてみましょう。

味は舌で感じますよね?五感のうちのひとつです。味覚で感じている。みんなそう信じて疑わないですよね。

実はこれは間違いです。

ずいぶん昔に、チョコレート味の炭酸、というのが発売されました。色が、クリアなんですね。おもしろいんですが、あんまりおいしそうでもなくて、すぐなくなりました。

なんて、カカオ豆使って透明なんだろう?って思って原材料みると、「カカオ」がないんです。それらしきものの正体は「香料」です。

えっ。これって匂いなの?

そう思って鼻をつまんで飲むと、確かにただの甘ったるい感じ。で、手をはなすとチョコになる…。

もう実験ができない?いえ、そんなことはありません。

これは、「チョコの味は匂いによってチョコになる」ということですから。チョコで実験できます。

私は、ほかの食べ物でもやってみました。チャレンジしましょう。カレーが最たるものです。カレーはやはり、匂いで食べています。つまり、「ミントの匂いのしたカレー」があったとしたら、おそらく「もはやカレーではない」ということです。梅干しあたりは鼻をつまんでも梅干しでした。だから、匂いの要素が大きい食べ物と、味覚の要素が大きい食べ物の差はあるようです。

今はなき「めちゃイケ」で、シンクロの格好して目をつぶって食べて当てるのありましたよね?あれのポイントは、匂いも封じられていることです。匂いは味の大きな要素ですから。やってみてね。

たとえば、こんな話はどうでしょう。

味覚異常の子どもたちが存在していて、「目をつぶって食べると、メロンとスイカとキュウリの味が区別できない」んだそうです。

気が付きましたか?

「目をつぶって食べると」…目をあけていれば区別ができる。味が見た目が影響しています。キュウリだと思えば、キュウリの味がする、ということです。

そりゃそうです。

たとえば、一流のレストランで作ったおいしいカレーを便器によそって出したら?レトルトのカレーを豪華な食器に盛り付けて、大好きな女の子が手作りって言ったら?

たとえば、牛乳飲もうとしたら、お母さんが、「もしかしてくさってない?大丈夫かなあ」なんてつぶやいたら、味が変に感じません?

たとえば、超かわいい女の子が、ものすご~くくさかったら。トイレの前で強烈にトイレくさいところで、「私のお弁当食べて。おいしい?」って言われたら。

私たちはいろいろなものを総合して、見た目や味を感じているわけですね。

 

デカルト「我思う。ゆえに我あり」~分析的理性の登場

にも関わらず、こういうものを分けてしまったのは、「近代」という時代です。

ここにはデカルトという人がからんでいます。

それまでは、誤解をおそれずにわかりやすくイメージするコトバを使うと「宗教」と「真実」の時代でした。たとえば、病気になったら、加持祈祷で直す、みたいなね。中世ヨーロッパだったら、魔女狩りです。病気は魔女のせい、みたいな。だから、精神も身体もなく、全部がひとつのものだった。だから、非科学的な時代です。

デカルトさんはある疑問を持ちました。

「そういうのって全部ウソっぽい。何が本当か確かめるためには、まず、全部ウソだと決めて疑ってみよう。たとえば、ぼくの目の前にあるものは本当はないかもしれない。今日体験したことは全て幻想かもしれない。目の前にいる人は本当はロボットかもしれない…」疑おうと思えば、疑える。逆に「ある」って証明できないですよね。難しいコトバでいうと、方法的懐疑、なんていうんですけど、倫理で受験しなければ、単語は覚えなくてもいいですよ。

そのとき、彼はたったひとつ疑えないものに気付きます。

「すべてを疑ってみても、唯一確かなことがある。それは、こうして疑っている自分だけは間違いなく真実だと。」だから「私は考えている。だから、私はこうして存在している」彼は、これを哲学の第一原理、根本にすえました。

これが、「理性」です。だから、理性こそが大事で、それ以外のものは二次的なものなんです。理性をとりだせば、当然いれものとしての体が残ります。これがモノとしての身体。

考えてみてください。たとえば、おなかがいたい。じゃあ、おなかを切ろう。誰がそんなこと考え付きます?切ったら死ぬわけじゃないですか?

あなたの大切な人がなくなります。じゃあ、もう死んだんだから、切り刻んでみよう。誰がそんなこと考えます?大切な人じゃないですか?

でも、できるようになったんです。だって、大事なのは精神で、精神がなくなれば、残った身体はなんでもないモノなんだから。

ここから科学的思考が一気に広まります。

分析的理性、なんていうんですが、細分化して、専門化して、そして、分析して、結果、科学的に効率のよい世の中ができあがっていきます。

分析の反対は総合、専門の反対が一般。失われたものですね。

近代になって、こういう考えができて、確かに科学的で効率よく考えることができるわけですが、一方でそれが当たり前と思いすぎて、全体的にまとめてとらえることができなくなってしまったわけですね。

心はどこにあるのか?ロボットに心はあるのか?

これもよく出る話で言うと、「心」の正体、の話です。心はどこにあるか?ロボットに心はあるか?

「ないに決まってるでしょ!」どうして?それこそ、「心」があると決めてしまったデカルトの原理以外に証明できないですよね。それでも、人間には心があるというなら、人間の心はどこにありますか?

そうです。科学的な私たちは「脳」と答えます。

では、考えてみましょう。

ES細胞とかiPS細胞とかいろんな研究がありますが、未来にクローン技術が発展して、簡単に、自分の体と同じ部分やクローン人間が作れるようになったと仮定します。倫理的な問題が生じますよね。さすがにクローン人間をどんどん作って自分の代わりにこきつかっていい、みたいな議論をいいという人はいないですからね。

それはダメ、ですよね?

じゃあ、全部だめ?やけどをおった人の皮膚移植は?足がなくなった人に、もう一度足を与えるのは?

うん、そのぐらいなら…

じゃあ、下半身全部は?じゃあ、上半身もいれかえたら?

だんだん気持ち悪くなってきます…

なんで皮膚や足だけならいいんだろう?そこは部品であって、心がないからだ…じゃあ、上半身と下半身をいれかえるのも…

もっというなら、脳以外をすべて移植する…別名、脳をクローン人間に移植するっていうのは?

イヤ、これはちょっと…なんで?脳がなければいいんですよね?

わかってきましたか?心が脳だけにある、と考えるのはやはり無理がある気がするわけです。心は、この身体とわかちがたく統合されている。赤ちゃんの話に戻りました。便宜的に脳に心の機能があるということは間違いないとしても、その伝達をする神経や動いていく体に心の一端がないとは言い切れないんです。

だとするなら、体がなんらかの物質でできていて、なにかしらの心を持つものだとするなら、なんらかの心的な感覚をもったロボットができたとするなら、ここに心がないとは言い切れないことになるはずです。

それでも、「人間だから心があるんだ」と言い切れば、それこそ、科学というものが宗教であることの証明のような話になってしまいます。

 

「こころ」って何?他者の存在が重要。

心と身体が統合されているということがわかりましたか?

じゃあ、もう少し、心というものの実体を考えてみましょう。私たちの心はどのように動くのでしょうか。

こころの働き~他者と自分が同じだと思うことのすごさ

こころ、というものの実体は何なのか?

たとえば、他者が「痛い」という。

私が、これを感じ取るためには、「痛い」という言葉から、痛みが想像できなければいけません。いろいろな痛みがあるはずですが、それから痛みを想像するわけですね。

その痛みは当然、私の痛みです。他者の痛みではありません。他者の痛みを経験したことはないからです。

だから、「痛い」という言葉からまず自分の過去の「痛い」経験を思い出し、自分の「痛み」として認識する。でも、それではだめですね。

それは他者の痛みですから、その痛みの経験をもとに、他者がこのような痛みであろう、と認識する。他者は自分ではありませんから、自分の痛みとはおそらく違うであろうけれども他者はそういう痛みを抱えているのだと考えます。それは自分の痛みではなく他者の痛みなんです。私はちっとも痛くない。他者の痛みそのものはわからないわけで、それは自分の痛みの中からたぶんこういうことだろう、と思うということが、「他者が痛いといっている気持ちがわかる」という心の動きです。

ふう。大変だ。これも筑波の入試問題で出たやつです。大森荘蔵さんです。書くと複雑。こんな面倒なことをやっているんですね。

ロボットに「痛み」ってこういうことだよ、とインプットすればすむかというとそうではない。インプットしたとして、

  • それが自分の痛みでなく、他者の痛みであること
  • 他者の痛みであるけれど、自分の痛みをもとに認識すること

ができなければいけないわけです。これが心というもの。

であるならば、相手がロボットであるとしても、自然物であるとしても、痛がっていれば痛いんじゃないかと考えるのが心の動きです。相手が本当にどうか、なんてことはわからないのだから。

逆にいえば、こういうことが可能だとするならば、ロボットにも心があると考えることもできそうです。

こころとは他者に思いをはせることだ、ということがシンプルにいえばわかってきます。

恥ずかしいと思うためには

さて、心と身体は統合されているということと、この他者ということを考えてみます。また、市川浩さんに戻ります。

恥ずかしいと感じるのはなぜでしょうか?

たとえば、あなたが精神であったとします。つまり、透明人間とか霊魂ですね。誰にも見られていません。裸を恥ずかしがりますか?透明人間だったら、服を着ていない。恥ずかしいですか?いえ、恥ずかしくないです。誰にも気づかれないからです。

たとえば、あなたが身体であったとします。つまり、死体として転がっているわけです。裸にされたとして、恥ずかしいですか?いえ、感じる心がないんですから恥ずかしくないです。幽霊としてみて恥ずかしい?だめです。この仮定は、身体になった=精神がなくなった、ということですから。

たとえば、あなたが精神と身体を持っています。つまり、生きているあなたです。目の前に人形があります。その前で着替えることにためらいがありますか?人形には精神がないですね。

たとえば、あなたが生きているあなたで、亡くなったご先祖様がいつも見守っています。体はないので、あなたは気が付きませんが、いつも見守っています。あなたはお風呂に入ったりするときに、ご先祖様に観られないように体をかくしたり、恥ずかしいと思ったりしますか?いえ、しません。体がなければ気が付かないからです。

ふう。

というわけで、心の動きの前提には、身体と精神の統合体としての自己と、身体と精神の統合体としての他者がいて、はじめて心たりうるわけですね。

不思議でしょ?心が身体と心の統合体だっていってるわけですから。

 たとえば、人間でないとしても、さっきの人形とか、ロボットとか、霊魂とか、が、もし目の前にあるとしても、そこにあなたが心というようなものを規定できれば、やはり、恥ずかしいと考える可能性はあるわけです。人間であるかロボットであるかは差はない。あなた自身が、他者にこころがあるとみるかどうかにかかってくる。

 

他者が私を作る~他者によって私は支配される。私の身体は他者の身体

でも、そのように他者に「こころ」を規定した瞬間、あなたは他者との関係の中を生きることになるのです。

他者が私を支配している~私の身体は他者によってつくられる

そのように他者が、こころを持ち、からだを持つものとして、目の前にあらわれると、あなたは急に不自由になります。

私の身体は心といっしょになっている。私のこころは身体と一緒になっている。この統合体である私と統合体である他者によって、「こころ」の動き、働きが起こる。

たとえば、私が、テレビを見て、「おしゃれ」をしようと決める。ジャニーズ的な、ファッションリーダー的な「おしゃれ」をしたいと思う。そして、そうしたら、みんなから「格好いい」「かわいい」「素敵」「すごい」と思われると期待しているわけです。

実際にそういう格好をしていったら、笑われる。何かっこつけてんの?みたいな目で見られる…。不自由ですよね。そうなんです。ぼくらは他者の目を気にしていきている。どう思われるか、どう評価されるか、そんなものに縛られながら生きているわけです。私=私の身体=私のこころ、は、私でありながら、他者によってしばられているものなんですね。

私の行動や好みは他者によってつくられる

それは、そういう「評価」という意味だけでなく、実際の体や好みにもあらわれていることです。

たとえば、江戸時代まで、日本人は右手と右足、左手と左足を同時に出すように歩いていました。相撲取りがすすんでいく様子とか、日本舞踊の所作とかにも残っています。そうやって歩いていたんです。

明治になって、西洋式の軍隊の行進が入ってきて、「歩き方を直す」んですね。

おもしろいのは、日本人が農耕民族だから、自然と右手右足同時に出すわけではないということ。DNAや遺伝子だったら、日本人は放っておくと、昔のように歩きだすはずです。ところが、この「歩き方を直す」作業は、一時だけのこと。ここで一度直したら、もうやらなくてすんだ。

それは、自然と周りの人の歩き方を見て、歩き方が身に付くものだからです。つまり、いつの間にか、他者のふるまいが私のふるまいになる、ということです。

誰かが逆上がりをしたのを見て、できちゃう、ということってありますよね?

私たちの身体は他者によってつくられる。

前回の話に近くなってきました。

たとえば、わたしたちが「かわいい」と思うこと、価値があると思うこと、それは他者によって無意識にすりこまれているということです。

足の組み方、かばんの持ち方、髪の掻き上げ方、身のこなし、笑い方、そうした身体の振る舞いも他者によってすりこまれているわけです。

どこまでも他者によって、私の身体は支配されています。

身体は、過去の私をふくみ、未来の私の可能性をふくむ。

つまり、私の現在の身体には、過去の他者の身体のふるまいを見た私の経験がふくまれているわけです。現在の私の身体には、そうした過去の経験がいつの間にか、重なっているわけですね。

スポーツの練習をイメージするといいです。できるようになった現在の私は、他人の動きを見たり、できないものを練習したりする上に成り立っているわけです。だから、現在の私の中には過去の自分がふくまれている。これを時間軸をずらして考えてみれば、現在の私の先に未来の私がある。できない私が練習をしているその身体の上に、未来の私の可能性はあるわけだから、私には未来の可能性がふくまれている。

でも、それは、不連続なものをジャンプするような可能性ではなく、絶え間なく連続しているような私の可能性なわけです。

 

身体は、収縮する。ものとしての身体

そして、戻ってみれば、とはいっても身体は物質であるわけです。

たとえば、病気のような、たとえば、自分の身体が動かせないような状況を考えてみれば、私たちの身体はまさに道具のような物質として私たちの前に立ちはだかります。普段は、あまりに自由に使えているから、私の身体は私という主体と統合されていて、無意識に私と一体化しているわけですが、病気のような状況になると、まさにそれは物質として意識されるわけです。そのような意味では、物質という意味での身体は、たとえばグローブやバットというような道具と、実は差がないような、まさに物質であるわけです。

普段はあまりに自由に使えているから、私たちはそのことを忘れてしまっているわけです。

身体は、拡張する。ものとしての身体とモノそのもの。

そのように身体をモノだと考えてみた時、私たちが自由に使える道具、たとえば、グローブやラケットやペンや眼鏡や靴の底などを考えてみても、私たちが意識していないように自由に使っている道具だとするなら、それは身体と大差がないと考えることもできるわけです。

身体は拡張する。

たとえば、眼鏡なんていうものがそうであるように、私たちはそうしたものをまさに私の一部のように無意識の中においていることもある。

実際に、たとえば体の中にボルトを埋め込んだり、人工的なものを体にうめこむこともあるわけです。その時、モノであるかもともと体の一部であるかは大きな差ではない。

そして、体の中に埋め込まれているか、外にあるかもたいしたことではないわけです。

モノとしての身体を考えてみれば、モノを自分の身体のように扱っていることを考えて見れば、それがもともと自分であるかという問は、あまり意味がないわけです。

そして、現代では「移植」というような新たな状況も生んでいます。私たちの身体が、もともと私であるかという問いかけはますます意味がないところに入り込もうとしています。

 

ファッションは自己と他者との関係 

そう考えて見ると、服も、自己の身体の一部と捉えることができる。服だけではなく持ち物や扱う道具まで、自分の一部と捉える必要が生じてきます。

たとえば、変な格好をすれば、私が恥ずかしい。それは、ファッションが私であり、私の一部であるからです。

もちろん、そのファッションは、纏足やコルセットのように、自分の身体を締め付け圧縮するようなものもあれば、パットや付け毛のように自分を拡大していくようなものもある。

そういう収縮や拡大するものも含めて、ファッションそのものも自己として存在するわけです。それは、自分のありようが他者によって決められるように、他者の視線や常識によってはじめて存在するものになるわけですね。

身体の話はこうして、いつの間にか、とりとめもなく広がっていきます。なぜなら、ここでいう身体とは、私のことであり、私がモノとココロの融合であるとして、ならば、モノである身体が私である以上、私に付随するモノも身体との区別がなくなり、そして、他者というモノにココロがなかったとしても、そこにココロを見いだすココロの動きがあるとするなら、やはりそこにはモノか人かの区別はなくなっていくのです。

もう一度、ここでいう身体とは「私」のことだから。こうして、「私」とは何かを考えると、私が、何か独立して、私として存在している、という発想は、根本的な間違いであることに気がついていきます。

 

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